12月13日は南京陥落の日。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごとより。


昭和12(1937)年12月13日、日本陸軍は、南京城を占領しました。

この南京占領に関して、その前後に日本軍による虐殺があったなどというデタラメがまかり通っています。
そこで今日は、実際にあった事実を、順を追ってお話ししてみたいと思います。

南京戦は、「支那事変」の初期に行われた戦闘です。
まず、この「支那事変」について、これを「日中戦争」などと呼んでいる者が左翼や朝鮮系の学者の間に多く見られますが、間違いです。

戦争は、国家対国家が行うものです。
昭和12年の段階で、国際的に承認された政府としての中華民国も、中華人民共和国も存在していません。
当時の支那はいまだ軍閥割拠の状況にあり、臨時政府を名乗っていたのも、この時点で中国国内には2つも3つもありました。
そしてそのいずれもが、「国家」として機能する段階に至っていません。
日本は国際的に承認された「国」です。
これに対して、日本が対処に立ち上がった相手は、蒋介石率いる「国民党」という一軍閥政党でしかありません。先ずこの点をただしておきたいと思います。

国家というのは、人々から税をとり、その税をもって人々のための公共施設や法等を運営する共同体をいいます。
ですから、たとえばいまこの場で私が「ねず国」を名乗り、初代総裁を自称したところで、そんなものは国家とはいえないし、同様に仮にいま日本の陸上自衛隊が日本自衛国を名乗ったところで、それはただ勝手に名乗っているだけで、国家とはいいません。
まして当時の支那国民党のように、新国家建設を標榜して外国から軍事物資や財務や食料の支援を得ているだけの存在は、国家の名に値するものではありません。
単に国家になろうとしている、いち政党です。
ちなみに、言葉の定義として、「事変」というのは、警察力で対応しきれない事件や騒動のことを言います。

その政党が、援蒋支援によって武装し、自国民に銃を突きつけて強制徴兵し、軍隊をつくりはじめは支那に巣食った共産党と敵対していたものが、昭和11(1936)年12月12日の西安事件(せいあんじけん)によって国民党の首魁であった蒋介石を拉致し、国共合作を行いました。

この事件後、国民党の敵は支那共産党であったはずのものが、いつの間にか国民党内に共産党のスパイが幹部として潜り込むようになり、昭和12年7月7日の夜、起こったのが盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)です。
当時日本は、義和団事件後に締結された北京議定書に基づき、米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、オーストリア、ベルギー、スペインとともに、北京周辺に約5000名の軍隊を治安維持のためのPKO部隊として駐屯させていました。
盧溝橋事件は、その軍の演習中に何者かが日本と国民党双方に向けて発砲を行ったことから、両軍に緊張状態となったという事件でしたが、後にこれは支那共産党の陰謀であったと、中共幹部の周恩来が自白しています。

この盧溝橋事件は、現地停戦協定によってわずか4日で問題が解決したのですが、事態を何が何でも紛争にさせたい中共の工作によって、7月25日には廊坊事件、翌26日には広安門事件が起きました。

どちらの事件も、正当な条約上の根拠に基づいて駐屯していた日本軍が、騙し討ちにあって被害を受けるという事件でしたが、日本軍の優秀な防戦によって、事件は翌日には鎮圧されています。

そしてこの2つの事件で追われた支那人によってひき起こされたのが、昭和12年7月29日の通州事件です。
この事件は、日本人居留民385名のうち、223名がきわめて残虐な方法で虐殺され、女性もほとんど強姦されて殺害され、しかもその殺害方法がきわめて猟奇的な、おそらく人類史上類例のない大量猟奇殺人事件です。

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私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして1日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。しかし120人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。(中略)

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。
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これだけ残酷な仕打ちと実際の軍人以外の民間人の被害まで受けながら、それでも日本は、支那との軍事衝突を避けようとしました。
理由は簡単です。
当時の支那の陸軍兵力は210万、日本は25万だったとこもさりながら、根本的に昔も今も、日本は戦闘や殺し合いを極力避けようとする国民だからです。

ですから、これだけの被害を受けながら、日本は支那側からの信頼の厚い元外交官の実業家で、紡績業組合の理事長をしていた船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて、蒋介石側に、きわめて寛大な和平を働きかけています。
これを「船津工作」といいますが、内容は、それまでの支那側の言い分を、(日本にとって不利益なこともふくめて)全部まるのみするから、争いを止めようというものです。
この工作には、当時の陸軍省も海軍省も賛成しています。

支那国民党の対日本に対する政治的主張を、全部まるのみしますというのですから、これ以上、支那国民党には、日本と争う理由がありません。
あれだけ酷い惨事となった通州事件についてさえ、日本はいっさいの賠償請求をしないというのです。
日本は、平和のために、そこまで譲歩したのです。

悪いけれど、これがもしいまどきの韓国や支那だったら、どのような行動に出るでしょうか。
あるいは米国でも英国でもフランスやドイツでも良いです。
100%確実にいえることは、おそらく、日本のようにあらゆる横暴に目をつぶるから、和平を結びましょうとは絶対に言わないと思います。
それこそ千年経っても恨みは忘れないどころか、核の雨が降る話になろうかと思う。

こうして日本と支那国民党は、同年8月9日に上海で、船津工作に基づく現地停戦協定を結ぶことになりました。
そして、いよいよその協定締結のその日の朝、上海で起こったのが、大山中尉虐殺事件です。

この事件は、海軍上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉が、車で走行中に、支那の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて惨殺され、さらにごていねいに瀕死の状態でいたところを、車外に引きずり出された挙げ句、頭を青竜刀でまっ二つに割られたという事件です。
この緊急事態発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になってしまいました。


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