【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(36)
「北伐」で起きた済南事件。
済南事件の勃発で日本軍に守られ学校へ向かう日本人の子供たち=昭和3年5月、済南 (防衛研究所戦史研究センター所蔵『昭和3年支那事変出兵史本篇』から)
■日本人の命と満州の治安を守れ
今年の夏、収賄や職権乱用の罪に問われた中国の薄煕来元重慶市党委書記の裁判の場所に選ばれた済南は青島と並ぶ中国・山東省の中心都市である。 北京と南京とのほぼ中間に位置し、古来南北交通の要衝となってきた。近代になってからは明治37(1904)年、自主的に外国に「開市」したため、外国人居住者が増え、有数の商業都市、国際都市となった。昭和初期には日本人も約2千人に達していた。
昭和3(1928)年4月、この国際都市が戦場となる危険にさらされた。国民党政府の革命軍総司令、蒋介石による「北伐(ほくばつ)軍」が迫ってきたからだ。 「北伐軍」は、満州(現中国東北部)の馬賊(ばぞく)出身で当時、北京を支配していた張作霖の軍閥政府を打倒、中国を統一することを目指している。4月7日に南京から北進を始めていた。
これに対し日本の田中義一内閣は19日、5千人規模の軍を山東省に送り込むことを決める。済南の日本人を保護するためである。 4月25日には第6師団が済南に入る。その6日後の5月1日、今度は国民革命軍が到着した。初めは双方とも自重したため平穏だったが、3日から4日にかけ複数の日本居留民が革命軍により殺害されるという事件が起きる。 このことが日本に伝えられるや反中世論が高まり、8日からは日本軍が攻撃をかけ本格的戦闘となった。革命軍は退却、迂回(うかい)路を通って北上することになり、済南は事実上日本軍が支配することとなった。いわゆる「済南事件」で、第2次山東出兵ともいわれる。
この事件で蒋介石は「日本に北伐を妨害された」として反日姿勢を強め、支那事変(日中戦争)のきっかけを作ったとされる。また戦後の日本では「日本人保護を名目にした中国大陸侵略」とする自虐的な見方もある。 だが当時の日本には出兵せねばならない事情があった。 その前年、日本では大正から昭和になって3カ月の昭和2(1927)年3月28日、第3回の北伐に乗り出した蒋介石の国民革命軍が南京に入城した。規律の取れていない軍隊は日本や英国など外国の領事館を襲い、略奪や暴行、放火を繰り返した。
日本は大きな被害を免れたが、米、英、仏、伊4カ国の6人が死亡する。これに対し米国や英国は艦砲射撃で南京を攻撃した。 これを見た日本政府は、以降の北伐に備え、済南の日本人を守るため軍を送り込んだ。第1次山東出兵である。このときは革命軍が北伐を断念したため衝突は免れ、日本も兵を引いた。 この「失敗」で蒋介石は総司令を辞め、9月末には「私人」として日本を訪問している。
11月に行われた田中首相との非公式会談で田中は「日本が関心を持っているのは北伐そのものではなく満州での治安維持である」と強調、北伐を急がず、長江以南を固めるよう要請した。 つまり、日本は北伐による内戦が満州にまで及び、日露戦争で得た南満州鉄道などの権益が損なわれることを恐れたのである。
この年の6月、日本政府が開いた東方会議でまとめた「対支(中国)政策綱領」の中でも、「万一動乱が満蒙(満州と内モンゴル)に波及し日本の権益が侵害される恐れがあるときは、機を逸せず適当な措置をとる」としている。 だが蒋介石は帰国するや総司令に復帰、北伐を再開する。日本としては南京の教訓から日本人の保護を急ぐとともに、満州を守るためにも北伐にブレーキをかけたかったのである。 とはいえこの時点で、蒋介石軍と北京の張作霖軍との力の差は歴然としており、国民政府が北京までを支配下に入れるのは時間の問題だった。
昭和3年6月初め国民革命軍はついに北京に入城、その直前、張作霖は出身の満州に逃れるため、北京から奉天に向かった。だが帰り着く寸前、列車ごと爆殺され、満州の歴史は新たな段階を迎える。(皿木喜久)
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【用語解説】北伐
中国国民党による全国統一戦争のことをいう。国民党政府は中国最南部の広東省に本拠を置き、北上して北京などの各軍閥政府と戦ったため「北伐」と呼ばれた。 北伐は3回にわたった。1926年に始まった3回目は、蒋介石を総司令とする国民革命軍が翌年3月、南京まで進出した。しかし外国領事館への攻撃などで、蒋介石が解任され挫折した。その後総司令に復帰した蒋介石の指揮で約25万の革命軍が再度北上を始め、28年6月には張作霖を追い払い、北京を占拠することに成功、一応北伐を完了させた。