大正4(1915)年、全国中等学校野球大会。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 




野球好きで知られた俳人・正岡子規


【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(35)
早かった野球人気の到来。


■まずエリートたちが飛びついた  

10月28日に亡くなった川上哲治氏は日本のプロ野球で初めて2千安打を記録した。巨人軍監督としては日本シリーズ9連覇をなしとげ、野球史にとって欠かせない人である。その川上氏は現在の熊本県人吉市の出身だ。  

野球を本格的に始めたのは意外と早く昭和5(1930)年、大村小4年で野球部に入り、8番ライトでレギュラーになった。  この大村小野球部は九州地方の「強豪」として知られ、この年には球磨(くま)郡大会や熊本県大会を勝ち抜き、九州大会で優勝した。川上少年もこれを機にやがて名門・熊本工に入り、巨人軍から誘いを受けプロの道を進むことになる。  

リトル・リーグ全盛の現代ならともかく、昭和初期に地方の小学校にまで野球部があり、大々的に大会が開かれていたというのはちょっと意外な感じもする。  だが実はこの時代、日本列島は大変な「野球ブーム」にあった。昭和7年には文部省が、小学生の対外試合の規制に乗り出したほどである。  

ブームのきっかけのひとつになったのが、大正4(1915)年に始まった全国中等学校野球大会である。中等学校とはむろん旧制中学で、現在の夏の全国高校野球大会の前身だ。第1回大会は8月18日から、大阪府豊中村(現豊中市)の豊中運動場で開かれた。10校が参加、京都二中が優勝している。  

野球が米国から日本に伝わったのは明治初期とされる。初めに飛びついたのは、大学生や旧制高校生ら明治時代のエリートたちだった。当時の代表的文化人である俳人・正岡子規が野球好きでその普及に一役かったことは、よく知られている。  これが大学生、高校生に憧れる中学生たちに伝播(でんぱ)、野球部のある中学が増え、ついに朝日新聞主催で全国大会が開かれることになったのだ。  

しかし豊中運動場は極めて手狭で、観客席も少ない。このため第3回からは兵庫県西宮市の鳴尾球場に移り、さらに大正13年には、武庫川の河川敷に大きな甲子園球場が建設される。  同じ大正13年には春の選抜野球大会も始まる。さらに昭和2(1927)年からは、始まったばかりのラジオ放送で全国津々浦々まで実況中継されるようになり、一気に人気が高まる。

特に昭和8年8月19日の中京商対明石の延長25回という熱戦は、全国に野球ファンを広げていった。  もうひとつ、野球人気を牽引(けんいん)したのが東京六大学野球である。中でも早稲田大学と慶応大学による早慶戦は両校応援団のあまりの過熱ぶりに、18年間も対戦禁止となっていた。大正14(1925)年に「復活」するとたちまちファンを呼び戻す。

昭和初期には「それで早慶の相手はどこや」といったギャグが飛び出す横山エンタツ・花菱アチャコの漫才「早慶戦」まで登場する始末だった。  さらに昭和9年11月、日米関係が微妙になっている中で、読売新聞社の招きにより、ベーブ・ルースら一流選手を集めた米大リーグ選抜チームが来日し、日本中を熱狂させた。  これと試合するために大日本野球倶楽部が結成され、さらに11年2月には巨人、金鯱(きんこ)など7チームが加盟して日本職業野球連盟が発足、長いプロ野球の歴史がスタートする。

巨人の川上、沢村栄治、阪神の藤村富美男らスター選手が誕生、野球は大相撲とともに最も親しまれるスポーツとなる。  日本は明治維新以来、西欧の文化・文明を取り入れ、近代化をはかってきた。だがスポーツの世界は依然、柔道、剣道などの武道に重点が置かれ、西欧で生まれた競技への取り組みは遅れた。  そんな中、米国生まれの野球だけは、さしたる抵抗もなく受け入れられた。ペリーの来日以来、西欧諸国の中で米国に最も親近感を感じていたためだろうか。逆に野球を通じ、米国への親密度を強めていったという見方もできるかもしれない。 (皿木喜久)

【用語解説】朝日新聞の野球批判  東京朝日新聞は明治44(1911)年8月20日付で「野球界の諸問題」として「学生が入場料を取って試合を公衆に見せる」ことを批判した。  続いて同年8月29日付から「野球と其(その)害毒」という連載を行った。その1回目では当時一高校長の新渡戸稲造が「野球という遊戯は悪くいえば巾着(きんちゃく)切りの遊戯で、相手を常にペテンに掛けようとする」などユニークな野球害悪論を展開した。だが4年後、主催する全国中等学校野球大会開幕にあたっては「全国の好球家が待ちに待った我国空前の快挙」と称賛した。