大爆笑・汚穢族(おわいぞく) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。





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少し前ですが、10月30日の河北新聞に、「築120年の水車小屋に発電装置」という記事が掲載されました。
青森県むつ市川内町宿野部地区で、120年前に建てられた木造の水車小屋に手作りの発電装置が設置されて発電を始めた、という記事なのですが、再生可能エネルギーが注目を集める中、古い水車を活用した発電は珍しく、関係者は「地域の活性化につながれば」と期待を寄せているのだそうです。
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/10/20131030t25009.htm

この水車、ご存知の通り、川などの水流の力で回転するエネルギーを使って、水のくみ上げをしたり、杵(きね)付きをしたり、あるいは脱穀や製粉、なかには製糸などと、昔は実に幅広く用いられていたものです。

水車は、おそらく紀元前2世紀頃のトルコで発明されたものであろうといわれています。
いわれてみれば、なるほど水車って、なんとなくトルコっぽい風情があるような気がしてきます。

この水車、生まれはよくわかっていないものの、古代の世界でまたたく間に世界中に広がり、ヨーロッパでも、中東でも、支那でも、世界中に広く普及しました。



日本には、推古18(610)年に高句麗からやって来た僧、曇徴(どんちょう)によってその技術が伝わったと書いているものが、結構あるのですが、これは大きな間違いです。
なぜなら、朝鮮半島では、近代に至るまで、ついに水車は造られなかったからです。
というか、造れなかった。

実は、この「朝鮮半島では水車を造れなかった」という話は、先日行われた日本史検定講座で、「悪韓論」 の著者の室谷克実先生の講義があって、私も初めて知りました。
これがたいへんおもしろくて、興味深くて、大爆笑です。

どういうお話か簡単に要約しますと、日本の室町時代に、第一回の朝鮮通信使が日本にやってきたのです。
このときの朝鮮の書記官が、日本にある揚水(ようすい)水車をみて、たいへん感動したというのです。

揚水水車というのは、川の水を汲み揚(あ)げるための水車です。
川の高さと、田んぼの高さって違います。
ですから大規模なものなら、川の水をせき止めて水位を高くして田に水をひきます。
それが小規模なものなら、田から水を人が汲み上げて、田に入れるわけです。
お風呂とちがって、田は広いです。
水の量だって半端じゃない。
それを人力で汲み上げたら、そりゃあ、たいへんです。

そこで日本では、揚水水車が用いられていました。
これなら、水車が勝手に水を汲み上げてくれますから、人間は楽チンで、ありがたい。

そんなわけで、水車に大感動した朝鮮通信使は、わざわざ水車の見取り図を詳細に書いて、その図面を国に持ち帰るわけです。
そして朝鮮の王さまに、「これはたいへん便利ですすんだものだから、是非、オラたちの国でも、これを造りたい」と奏上し、許可を得て、職人さんたちを集めて、水車を造ろうとするわけです。

ところが。
いつまで経っても、水車ができない。
次の王様の時代になっても、まだできない。
その次の王様の時代になっても、全然できない。

ついに、それから300年。
江戸時代の幕末近くになってやってきた第12代目の朝鮮通信使が、帰国して国王に報告した記録には、
「日本には水車という大変素晴らしい物がある。わが国にも是非、これを導入したい!!」

なんだかまるで落語の漫談みたいな話ですが、これが本当のことですから驚きです。

そもそも高い文化や技術が、支那から朝鮮半島を経由してオクレタ日本に伝えられたというけれど、室谷先生の講義にもありましたが、それはまったくのデタラメと言い切ることができます。
水車さえ、造れなかったのです。

昨今、柔道や剣道、茶道、華道から、アニメや日本料理やしゃぶしゃぶまで韓国発祥とか言い出している朝鮮族ですが、そもそも日本よりもはるかにオクレていて、文化と呼べるようなものさえもなかった朝鮮族が、いったい何を日本に「教えた」というのでしょう。

すでに、稲作についてさえ、DNAの研究によって、朝鮮半島渡来説は完全に否定されています。

なるほど仏教は朝鮮半島を経由して日本にやってきたけれど、仏教はそもそも朝鮮発の文化ではありません。
統◯教会みたいなもので、おかしな具合に歪んだ仏教は朝鮮半島から日本に来たかもしれませんが、日本は遣隋使、遣唐使などを出し、朝鮮半島を「飛び越えて」、直接支那から正式な仏教を取り入れています。

であれば実際には、「高い文化や技術が、支那から朝鮮半島を経由してオクレタ日本に伝えられた」のではなく、
「高い文化や技術を持った日本と支那が交流していた時代に、オクレタ朝鮮半島では日本の文化や技術のパクリが流行った」
「朝鮮半島は、大昔からパクリのウリジナル国家だった」
というのが、実際のところなのではないでしょうか。

ちなみに、これまた室谷先生の知識からの受け売りですが、日本では金印が発見されています。
ところが朝鮮半島の代々の王朝で、金印を得た王朝はありません。
朝鮮半島がもらった印は、銅印です。

オリンピックでも金銀銅の順番ですが、印も同じで、支那肯定が玉印、支那王朝に匹敵する対等で強力な国家が金印、国力は弱いがそれなりの国が銀印、やくざの親分さん程度の弱小集団が銅印です。
ですから銅印のことは、別名「泥印」といいます。

さらにいうと古代の支那は、朝鮮半島の古代国家、つまり新羅王朝などが成立する前に半島にいた民族を「濊族(わいぞく)」と呼んでいました。
「濊」というのは、汚穢(おわい)の「濊」で、大小便や糞尿のことを言います。
だいたい支那人は、周辺民族の名に、ろくな漢字を充てていませんが、いろいろある周辺民族の呼称のなかで、これほど汚い文字を与えられた民族は、他に例がありません。

さらにいえば、「汚穢」の「穢(わい」は、普通、漢字ではのぎへんで「穢」と書きます。
「穢」という字は「けがらわしい」とか「きたない」という意味の漢字ですが、古代支那人はあえてその「穢」に、故意に「さんずい」を充てて「濊(わい)」と書いているわけです。
古代の支那人も、日本と違って風呂のない、かなり汚れた日常生活をしていたようですが、その支那人から見てさえ、朝鮮半島にいた民族が、どれだけ汚ない民族だったかということです。

さて水車についてですが、日本書紀に、推古天皇18(610)年春3月に、高麗王が、五経に通じていた僧の曇徴(どんちょう)を日本に貢ぎ(派遣ではなく「貢いだ」と書かれています)、曇徴はが碾磑(てんがい)を造った、と書かれています。

この「高麗王貢上僧曇徴、并造碾磑」という一文から、日本における水車小屋は、朝鮮から技術が渡来したのだなどと書いている学者や本が多数ありますが、はっきりいって、勉強不足もいいとこです。
字をもっとよく見ろといいたくなります。
碾磑(てんがい)という文字をよく見たらわかるのですが、二つの漢字がどちらも「石へん」です。

要するに碾磑(てんがい)というのは、水力を利用した水車のような施設を指すのではなくて、水車小屋に取付けて、粉などを打つ石臼(いしうす)のことを指してるわけです。

この原理は非常に簡単で、水車が回る→カムシャフトが杵(きね)をひっかけて持ち上げる→カムが外れて杵が石臼に落ちる→また杵を持ち上げる、というだけのものです。
しかもこの碾磑(てんがい)、その後の日本ではほとんど普及していません。

ということは、僧の曇徴(どんちょう)が日本にもたらしたのは、水車そのものではなくて、その水力による回転力を利用した石臼だったというだけのことです。
水車というのは、水が漏れない、たいへんに精巧な作りのものです。
木でできた盥(たらい)さえ造ることができなかった朝鮮人が、盥(たらい)よりもはるかに複雑な構造物である水車など、造れたはずもないし、現に、朝鮮半島には水車はまったくありません。

つまり、これが何を意味しているかといえば、朝鮮には、誇るべき文化も技術も、何もなかった、ということです。

今日の記事は、なんだか朝鮮の悪口みたいになってしまいましたが、今回発行したねず本では、朝鮮に関する名指しした悪口のようなものは、いっさい書いていません。
水車の話にもあきらかなように、彼らはもともと、そして今もただの汚穢族でしかないわけです。

最近、そんな汚穢族が、古代からあいもかわらぬウリジナルを主張していますが、そもそも水車さえも自前で作ることができなかった程度の蛮族が、いったい何を日本に教えたというのでしょう。
まして、そもそも朝鮮発祥の文化って何があるのでしょう。
トンスル?
李氏朝鮮王や朝鮮貴族の回春剤だった処女の大便の乾燥粉末?
そんなもの、世界中の誰も欲しがりません。
相手にするのも汚らわしい。

朝鮮族という人種が、どういう人種なのか、事実を知ることは大事なことです。
その意味では、室谷先生の「悪韓論」は、まさにおススメの本です。
繰り返しますが、知ることはとても大事なことです。

しかし、知っただけでは、何も変わりません。
なにせ古代から彼らは、今も昔も汚穢族は汚穢族でしかない。

それよりもわたしたちにとって大切なことは、日本人が日本人としての価値観を取り戻すこと。
そしてそれを内外にちゃんと広報すること。
たったそれだけのことで、世界が変わる。
なぜなら嘘は百万遍唱えても、嘘でしかないし、真実は世界を照らす光明となるからです。

注)
濊族の南方、つまりいまのソウルから南側は、後に韓族のエリアとなったと、支那の歴史書には書かれています。
同時に史書は、朝鮮半島の南側地域一帯を倭人の土地とも書いているわけです。ということは倭人が南朝鮮に進出し、そこで文明を開き、濊族から文明に洗われた人たちが倭族と混血したり、あるいは倭人のまま、土着して韓族呼ばれるようになったと考えた方が、自然です。
なぜなら、濊族と韓族では、短期間の間にあまりに大きな部族的成長があるからです。



【ご参考】朝鮮通信使
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1677.html



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