大東亜戦争の緒戦で、山下奉文(やましたともゆき)陸軍大将率いる日本陸軍第25軍は、昭和16年12月8日のマレー半島上陸から、わずか55日でマレー半島のイギリス軍を降伏させました。
このときの日本陸軍の第25軍の進撃ほど、すごい進撃はありません。
第25軍は、開戦と同時に英国軍が「手ぐすね引いて待ち構えている」ところに上陸しながら、次々と待ち構える英国軍を撃破し、猛烈な進撃戦を展開したのです。
なにせ、ひとつの国をわずか2ヶ月弱で、完全撃破したのです。
しかも相手の虚をついたのではない。
完全装備で待ち構えたところに進撃し、これをやっつけたのです。たいへんな出来事です。
追撃もすさまじいものでした。
マレー半島を支配していた英国は、橋を爆破しながら撤退したのです。
英国軍が破壊した橋は、250本にのぼります。
橋の修理をしていたら、進撃に間に合いません。
けれど橋がなければ、大きな大砲は運べないし、トラックや戦車も、川を渡れません。
食料を含む軍事物資だって運ぶのに困難を極めます。
橋がなければ追撃できないのです。
橋の爆破は、撤退する英国軍にとって、日本軍の進撃を遅らせる究極の方法でもあったのです。
ところが山下大将以下の第25軍は、難なくその問題を解決してしまいました。
どうやったのでしょうか。
それがなんと、日本古来の「御神輿担ぎ」です。
工兵隊が、材木を担いで川に浸かり、御神輿を担ぐ要領で人が担いで橋を架け、その上を兵士や自転車、戦トラックや戦車までが通ったのです。
ご存知の方も多いと思いますが、マレーの川は日本の川のような澄んだ水ではありません。濁流です。
そこに工兵隊員が材木を担いで飛び込み、御神輿方式で人力橋を架けたわけです。
日本側の兵力3万5千、英国側の兵力は、その三倍近い8万8,600人です。
マレーでの戦闘は、95回に及びました。
ほぼ一日に2回の戦いです。
どれだけ素早い追撃だったかわかります。
移動距離は55日でなんと1,100kmに及んでいます。
平均したら、一日20kmの行軍です。
ジャングルの徒歩なのです。日数的には、移動するだけで、手一杯というスピードです。
それを、戦いながら、橋を架けながら、実施したのです。
しかも敵は、世界でも一二を争う、大英帝国陸軍です。
現代の世界の軍隊でも、この追撃作戦は、「あり得ない戦い」だったということがわかります。
戦いの結果は、日本側の損害が戦死1,793柱、戦傷者が2,772名です。
ところが英国側の損害は、戦死が約2万5千です。
圧倒的勝利というほかありません。
それだけではありません。
英国は、約5000の英国兵の遺体を遺棄したまま逃げたのですが、山下奉文大将は、その遺棄された遺体を丁寧に埋葬し、丁重な弔いもしています。
この埋葬というのは、米軍が日本兵の遺体を、シャベルカーで掘った大きな穴に放り込んで埋めた、といった乱暴なやり方ではありません。
手作業で、あくまでも一体ごとに穴を掘り、丁寧に埋葬して、手を合わせたのです。
およそ穴掘り人夫ほど、つらい土方仕事はありません。
それを、平均一日20kmの行軍と戦闘を繰り返しながら、キチンとやってのけているのです。
すさまじいのひとことです。
マレーの戦いの最後の総仕上げが、シンガポールの戦いです。
25軍は昭和17年2月8日、ジョホール海峡を渡河してシンガポール島へ上陸しました。
主要陣地を次々と打破し、11日にはブキッ・ティマ高地に突入しています。
ところが、英国軍の集中砲火がものすごくて動けない。
なにせ英国にしてみれば、最後の砦なのです。
捨てるわけにいかない。
むこうだって必死だったのです。
25軍は、ありったけの火力で戦うのだけれど、15日には、日本側の砲弾が底をついてしまいます。
そして弾のなくなった25軍が、次にどうしようかと攻めあぐねていると、連合国側から、白旗があがって降伏の使者が到着したわけです。
水源が破壊され、給水が停止したことが、降参の最大の理由だったそうです。
ほんとうに限界ギリギリの戦いであったことがわかります。
ここでひとつのことがわかります。
何がわかるかというと、英国側は、将校、つまり英国貴族たち(その貴族たちは、まさに植民地を支配する人たちのわけですが)、その人たちを守るために、兵が動員されて戦っていたわけです。
ところが日本側は、ひとりひとりの兵たちが、山下奉文(やましたともゆき)大将率いる第25軍を、まるで御神輿のように担いで戦っていたということです。
なぜ戦ったかといえば、マレーの独立、東亜の植民地支配からの脱却です。
そういう固い信念を持った兵たちが、山下奉文大将を担いで戦っていました。
ですから、実は、主役が違うのです。
輿(こし)に乗った偉い人に、ただ命令されて戦っていることと、みんなが主体的に御神輿を担ぐことでは、そこにおおきな隔たりがあります。
みんなが担ぐなら、重たい御神輿も苦にならないけれど、強制されて担がされてるなら、これは苦痛です。
そしてシンガポールの戦いは、その輿に乗った上の人が、水がないから、降参したわけです。
この戦いのあと、キッティマ高地にあるフォード自動車工場で、山下閣下が目をむいてパーシヴァル中将に「イエスかノーか!」と迫ったという有名な話があります。
これも、マスコミの創作です。
実際には、この言葉の相手は、パーシヴァル中将ではなく、台湾人の通訳です。
山下大将は通訳に、「まず降伏する意思があるか聞いてほしい」と述べたのです。
ところが通訳の日本語自体が怪しい。
そこで、ちょっといらだった大将が、「降伏する意思があるかどうか、イエスか、ノーか、聞いてほしい」と、言った、そのシーンが、上手に脚色されて、あのシーンになったのだそうです(下動画参照)。
しかもその動画、すこし早送りすることで、いかにも高圧的に見えるように編集さえしてありました。
話が一人歩きしていることに対し山下閣下たいへん気にされていて、
「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と、明確に否定されていす。
その場に居合わせた全員が、この出来事を否定しています。
マレー作戦は、日本側の大勝利の戦いで、山下大将はメディアによって国民的英雄にされました。
けれど、山下大将は、その勝利より、戦いで亡くした多くの部下たちのことを涙した。
その思いの方がはるかに強かった。
そういう大将だったからこそ、みんなも山下閣下と尊敬し、信頼し、ついて行ったのです。
それが帝国陸軍士官という存在です。
昨今のメディアの偏向も眼を覆わんばかりですが、そもそも新聞にせよテレビにせよ、売上第一の売文屋です。
要するに売れてくれればいいわけで、金をくれるなら、どんな馬鹿な文や番組でも引き受ける。
挙げ句の果てが、金持ちが人生の勝ち組みたいな、おかしなことまで言い出す。
私にいわせていただけれ、たとえどんなに金を持っていたとしても、売国奴になった時点で、何の価値も値打ちもない。
すくなくとも、日本人的価値観を共有する日本人ではない、と思います。
山下閣下は、大東亜戦争終結時、かつてシンガポール攻防戦で降伏調印させた英国のパーシバル中将のもとで、降伏文書に調印をしました。
敗戦を知って自刃しようとした山下閣下を思いとどまらせたのは、玉砕突撃を敢行しようとする部下たちを無益な死から守るためです。
山下大将は、戦後、戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、死刑になりました。
山下大将への求刑は、彼の部隊がフィリピンのマニラで、現地のフィリピン人10万人を虐殺したというものです。
これは大嘘です。
昭和20年1月に、フィリピン、ルソン島のマニラに、米英連合軍が上陸しました。
2月3日には、米軍第1騎兵師団と第37師団がマニラへ突入しました。
山下大将はマニラの市街戦を避けようとしました。
ところが米英軍は、いきなり市街地に襲いかかりました。
市街地を空爆し、艦砲射撃を加えてきたのです。
当時、マニラ市内には約70万人の市民が残っていたのです。
その市街を灰燼にするまで、徹底した砲撃を、海と空から加えたのです。
その結果、10万人のフィリピン市民が巻き添えになりました。
なんのことはない、マニラの戦いを通じてのフィリピンの一般市民の犠牲者10万人というのは、米英の爆撃によるものだったのです。
つまりこの裁判は、米英が行ったマニラ市街の完全破壊による一般市民の犠牲者への責任を、まるごと山下大将に転化しただけのことです。とんだ茶番です。
けれど山下閣下は、マニラ軍事裁判の席上で、
「私に責任がないとは言わない」と、従容として死刑を受け入られました。
守ることが軍の仕事なのに、市民に犠牲者が出たのは、自分の責任だ、というわけです。
将のあり方として、ほんとうに涙が出ます。
だからこの判決に、米陸軍の法務将校らだって猛然と反発しました。
裁判が嘘をついていいものか、というのです。
米国民にだって、正義感はあるのです。
ですから、反発は当然のことです。
彼らはフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所にまで、山下閣下の死刑の差止めと人身保護令の発出を求める請願をしました。
権力を持った者、かつて植民地支配者であった貴族や金持ちたちは、自分たちの利権を損ねたものに対して、たとえその植民地の民衆が何万人死のうと、関係なしに報復します。
民衆は、そういう金持ちにや権力によって利用され、翻弄され、使い捨てられます。
日本は、民こそ大事とします。
人類史上、そんな、まるで神様のような軍隊は、日本だけです。
そしてその将は、陸軍士官学校で鍛え上げられた勇士です。
軍人として鍛え上げられ、あらゆる苦難が襲っても、堂々と誠意を尽くし動じない、まさにほんものの武士たちです。
兵士たちは、そんな将校を担ぎ、自らの意思で戦いました。
だから、日本軍は、御神輿とおなじ。みんなで共同して担いだ軍でした。
御神輿は、神様を、庶民みんなで担ぐものです。
おもしろいもので、武家は、お祭りでも御神輿は担ぎません。
古来、見ているだけです。
御神輿は、庶民が担ぎました。
祭りは、権力者のものでなく、民衆のものでした。
諸外国では違います。
輿に乗った人が命令し、輿を担がせます。
日本では、御神輿に乗っているのは神様であり、神様は何もお語りになりません。
みんなの総意で、御神輿を担ぎます。
共同体としての日本の姿がここにあります。
『マレー戦記』
http://youtu.be/EkkpA3EENuc