秋もだいぶ深まり、朝夕がだいぶ涼しくなってまいりました。
これからのシーズンは、いよいよ紅葉狩りなどもはじまってこようかと思います。
「秋夕」と題された明治天皇の御製があります。
ご紹介します。
国のため うせにし人を 思ふかな
くれゆく秋の 空をながめて
これは明治39年の御製です。その前の年、日露戦争が終わりポーツマス条約が批准されています。
「国のためうせにし人」というのは、日露戦争で英霊となられた方々か、あるいは古代から御柱となられたたくさんの英霊の方々か、そのおひとつおひとつの命の尊さを、暮れて行く秋の空を眺めながら思いをいたす。
そんな心象が描かれています。
この戦争の間、戦地で戦う兵士たちのことを思い、明治天皇は夏の猛暑のなかにあっても、古くからのしきたり通りの軍の正装を着衣としてお召しになられていました。
また、冬の寒い間も、満州の地にあって冬を越す兵士たちのことを思い、ストーブを焚かず、火鉢ひとつで冬を過ごされています。
そこまでして一線の兵のことを思い、そして戦後も亡くなられた方々のことを思って、「暮れ行く秋の」と御製を詠まれているのです。
その明治天皇の御心は、昭和天皇にもそのまま引き継がれています。
昭和天皇の終戦勅語の御製です。
爆撃にたおれゆく 民の上をおもひ
いくさとめけり 身はいかならむとも
度重なる空襲、そして各地での玉砕戦、そこに斃れて行く日本の兵士と、一般の民衆、その家族、子供たち。
それらの民の身の上を思い、昭和天皇は、終戦のご聖断をくだされました。
その結果、陛下ご自身の身がどうなってもかまわない、と詠まれているのです。
これは実にたいへんな御製です。
ここに日本という国の、実は、本質があります。
国が滅びようとするとき、ほんのわずかな例外を除いて、世界中どこの国においても、歴史上のほぼすべての国においても、まずは君主が先に逃げ出し、捕まり、命乞いをし、殺されています。
ところが日本の天皇は、「身はいかならむとも」なのです。
なんのためか。
「たみ」の安寧のためです。
日本は、2700年の歴史を持つ、世界最古の国家です。
そして世界に28カ国ある君主国のうち、最大の人口をもった君主国です。
そしてその日本の君主であられる天皇は、実は政治権力者ではなく、政治権力者を「民のために」親任するお立場にあらせられます。
そしてその天皇は、我が国がもしかしたら最初に開発していたかもしれない原爆を、それを使えば戦争に勝てたかもしれないのに、祖先にあわす顔がないと、この使用を、開発さえも固く禁じられています。
私たちはそういう国の「たみ」なのです。
そしてそういうことを、これまでの日本は、自ら世界に向けて発信することはありませんでした。
ただしいことをしていれば、いずれはちゃんとわかる。
それまでは、たとえ他国に何を言われても、じっと我慢し、誠実を貫くしかない。
それが、明治以降の日本のやり方でした。
けれど、私はそれは違うと思う。
陛下はお語りになられない。
ならば、政府も、民間も、私たちも、事実は事実として、ちゃんと情報発信すべきです。
安倍内閣の消費税について問題視されていますが、決まった以上、消費税以上の大規模デフレ対策と産業振興、防衛力強化を、是非、安倍内閣には図っていただきたいと思います。
同時に、企業交際費の非課税化、累進所得税率のアップ(元に戻すこと)も、実現していっっていただきたいと思います。
とりわけ、防衛力強化並びに日本の武器産業の育成は、日本の技術力を一躍させるものであるだけに、これは日本が普通の国になるためにも、是非、実現していただきたいと思います。
日本の武力こそ、文字通りの平和のための武力だからです。
江戸時代、剣術には「影流(陰流)」という流派がたくさん登場しました。
柳生新陰流、直心影流などといったものが、それです。
戦国時代の剣術が、攻撃重視だったのに対し、影流というのは、相手の攻撃を受けてからこれをかわし、防ぐことを目的とした流派です。
戦国武者は攻撃型ですが、江戸武士は防衛型といっても良いかもしれません。
同様に、その世界が求めているのは、一部の中共政府や、堂々と日本を攻撃するためと公称して海軍力を強化している韓国のようなとんでもない国に対する自国防衛力の強化であり、それができる真の実力を持った国は、実は日本しかない。
まさにいま、世界が求めているのは、軍事影流なのです。
そしてこれを日本が徹底強化し、輸出産業にまで育て上げることは、日本の産業競争力を強化するだけでなく、日本の教育制度や徳育教育までをも変えうるインパクトを持ちます。
是非、実現いただきたいことです。
以下は、ほんとうのひとりごとです。
無視していただいても結構です。
人類史というのを、ときどき考えるのです。
人類が、武器を手にして他国を蹂躙しはじめたのは、いったいいつ頃のことからでしょうか。
他国というのは、いまでは国家をさしますが、古代の昔では、国というのは、都市国家であったり、あるいは村そのものをさす言葉でした。
最初は、もめ事があったら、揉めた本人が喧嘩をしていたことでしょう。
けれど自分が戦えば、自分が怪我をします。
いつの頃からか、人類には権力者が生まれ、その権力者が自己の権益を護るために、兵を集めて人に戦わせるようなりました。
そうなると、戦いによって傷つくのは兵であり、権力者自身は、常に傷つくことがありません。
こうして村ごと、あるいは都市国家ごと支配したりされたりという歴史がはじまりました。
それは「殺し合い」の歴史でした。
そんな状態が、かれこれ人類史において、もう4000年も続いています。
ところが、不思議なことがあるのです。
古事記、日本書紀を読むと、なるほど同様に集落ごとの戦いはあるのです。
けれど、日本の古代における戦いは、常に天皇御自ら、あるいは天皇の皇子様ご自身が兵を率いられ、戦われています。
そしてたとえばヤマトタケルノミコトでも、兄上が命を落とされています。
さらに初代天皇であらせられる神武天皇は、「六合開都八紘為宇(りくごうをかねてもってみやこをひらき、あめしたをおおひていえとせむ)」と日本建国の詔を発せられました。
「八紘為宇」というのは、四方八方を覆う屋根、つまり全国民がひとつの家族なのだ、と宣言されたのです。
つまり民衆を、天皇の家族とされたのです。
そして政治権力者は、天皇が親任する者が行い、天皇ご自身は祭祀をつかさどられる。
民衆が政治権力者の私有民(私物)となるということと、民衆が権力者以上の最高位の存在の家族という位置を与えられるのとでは、その結果はおおいに異なります。
いわば、究極の民主主義(=皇道主義)が、日本のカタチとなったわけです。
そして我が国の天皇は、古代においても諸国を力で屈服させるというのではなく、それら諸国の神事や信仰はそのままお認めになり、我が国を立国されました。
ですから我が国は、いまでも世界最大の多神教国家です。
多神教と一神教の違いというのは、これは単一の価値観しか認めない社会ということと、さまざまな価値観を認める社会という違いをもたらします。
日本は、民衆こそ第一とし、多様な神々の存在を認める社会を2700年もの間すごしている世界に希有な存在なのです。
けれど世界は違いました。
政治権力者がそのまま最高位の君主であり、民衆は私有民(私物)とされ、戦いに狩り出され、収奪され、まさにモノとして使役の対象となりました。
神は一神教であり、自国の持つ単一の価値観しか認めず、他の神を信じる他国は異教徒として弾圧、征圧、蹂躙の対象となりました。
世界には、キリスト教文明国やイスラム教圏、仏教圏等があり、また共産主義も宗教否定と言いながら、共産主義以外の価値観は一切認めない点は、これまた排他的一神教というべきものといえます。
そしてそれら宗教的あるいは文化的価値観の対立の構造は、いまもなお、国家群の根深い対立として、世界の民衆を危険にさらしています。
けれど、そうした世界の対立を終わらせることができる観念が、せかいにひとつあります。
それは世界最古の観念です。
日本です。
日本は、様々な価値観を認める多神教国であり、古来、民衆こそ宝とされてきた国です。
その日本を取り戻すということは、私は、世界がもしかしたら4000年の争いの歴史に終止符を打ち、人々の真の共存共栄を図ることができる新たしい世界秩序の構築にさえもつながるものなのではないかと感じています。