西郷隆盛自刃・明治10年9月24日 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。



征韓論





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すこし日にちはさかのぼりますが、9月24日は、西郷隆盛が自刃し、西南の役終わった日です。
明治10(1877)年のことです。

西南の役(西南戦争)といえば、西郷隆盛を盟主として「征韓論」をめぐって不平士族が反乱を起こした明治初期の戦いとされています。
いまどきの多くの人が「征韓論」を「朝鮮を征伐にいく論」と受け止めています。
けれどそれは間違いです。
なぜならそれはあくまで現代語的解釈でしかないからです。


当時、ようやく開国して新政府を築いた日本にとって、最大の脅威はロシアの南下でした。
英米仏欄などが、主として海路を通じて海軍の派遣しかできないのに対し、ロシアは大人数の陸軍で南下しているわけです。これは脅威です。

このロシアの南下に対して我が国を防衛するためには、李氏朝鮮国にも、軍隊その他の近代化を促進してもらうしかない。いつまでも猿山のボス猿が、国家の境界線さえも曖昧なまま君臨しているだけの中世的国家では、ロシアの脅威に、太刀打ちできないわけです。
このままいたら、朝鮮半島は簡単にロシアに蹂躙されてしまうし、そうなれば次は日本が蹂躙される。
それが当時の国際情勢を知る士族の一般的な知見です。

ですから、できたばかりの明治新政府は、再三にわたって李氏朝鮮に使いを送っています。
ところが清国の属国である朝鮮王は日本を馬鹿にして首を縦に振らない。
そこで起きたのが「征韓論」です。

征韓論の「征」の字は、「正しきを行う」です。
ですから「征韓論」というのは、朝鮮の近代化を促進する(正しきを行う)ことで、ロシアの南下を防ぎ、東亜の、ひいては我が国の自存独立を図ろうじゃないか、という論です。

こういう字句のイメージからくる認識の違いというのは、度々発生しています。
たとえば、授産所と聞けば、いまどきの人なら、ほぼ100%、出産所をイメージすると思います。
ところが明治初期でいう授産所は、「産を授けるところ」という意味で、いまの職業訓練所を意味します。
征韓論に対する認識の誤りも、これと同じです。

ですから西郷隆盛自身、朝鮮に軍事出兵しようなどとは言ってません。
彼は自分が朝鮮王に特使として交渉に出向こうとしていました。
彼自身の手で、朝鮮国を訪問し、彼の国を説得して朝鮮半島の近代化促進に力を尽くしたいと考えていたのです。
もちろん、日本政府の要人として西郷隆盛が出向くとなれば、そのための警護は必要です。

この警護というのも、いまどきの「数人のガードマンが政府要人の警護にあたる」というのとでは、意味合いが違います。
大名行列にあるように、中世的社会は体面を重んじますから、それなりの大物が出向くとなれば、それなりの行列を組まなければなりません。

なにせ相手は、儒教国家なのです。
なによりも体面を重んじる。
この点、同じ政府使節でも、遣欧使節団のように欧米に向かった使節団は、少数でOKです。
欧米には、儒教国家にあるような「体面」という思想がないからです。

ところが儒教国では、「体面」がなにより優先します。
もし日本が清国や朝鮮に、政府の公式訪問団を少数で訪問すれば、相手は、自分たちの国が「軽く見られた」と判断し、それだけで言うことを聞きません。
ですから公式使節団は、その国力に応じた、士族の相当な大行列である必要があったのです。

士族というのは、日本では武士団を意味しますが、儒教国では士大夫(しだいふ)です。
要するに特権階級の要人が、大行列を為す。
そしてその大行列は、大きければ大きいほど、相手側は、自国が尊重されたとなるし、自国側は、その大行列を受け入れてもらえるだけの重んじられた存在ということになるわけです。
実にやっかいな話ですが、それが儒教国の中世的社会の基本的構造です。

もうひとついうならば、この士大夫の大行列は、江戸時代の大名行列の江戸入りや、同じ時代の朝鮮から日本への朝鮮通信使と同じように、軍事侵攻を意味しません。
あくまで体面を重んじるという意味合いのものです。

江戸時代の朝鮮通信使では、李氏朝鮮の使節団は、平和時でありながら、派遣使節団は800名の大軍です。
ならばロシア南下という非常時における日本からの派遣は、国威を示す意味においても、数千人規模にしなければならない。
そしてその使節団の経費は、大名行列がそうであるように、訪問する側、つまり日本側がその経費を全額負担です。
それが儒教社会における常識的判断であったわけです。

「征韓論」と聞くと、あたかも日本が武力で朝鮮を征伐し、征服しようとしたなどと、ありもしない妄想を膨らませる学者などがいますが、とんでもないことです。
わずか数千の大名行列で、一国の征服などできる筈もありません。

そしてこの数千人規模の使節団は、古式にのっとって、数ヶ月かけて朝鮮を訪問します。
そうなると、これは誰が考えてもわかることですが、その経費は莫大です。
ほんの少数をヨーロッパやアメリカに派遣するくらいなら、出来立ての明治政府にも、その費用は捻出できるけれど、たとえ隣国とはいえ、数千人規模の隊列を、数ヶ月養うだけの経費となると、明治政府にしてみれば、これは財政面からすれば、ものすごく難題です。

「それでもやらなければならない」
西郷は、これに旧士族を同道しようと考えていました。
そうすることで、身分を失った旧士族たちの一時的にせよ雇用ができるし、海外派遣手当は金額も張るので、帰国後は、そのときの給金をもとに、士族たちが独立してお店を営んだりするだけの手持ち資金ができるわけです。
そして、朝鮮半島の近代化の促進は、ロシア南下への大きな防御壁になる。
一石が二鳥にも、三鳥にもなるのです。

ところが当時の政府には、カネがない。
ただでさえ、カネのかかる欧州派遣使節を出している最中です。
それだけでもたいへんな経費なのに、さらに朝鮮半島に数千人規模の使節を派遣するなど財政的には、まさに無理難題といってもよいくらいの大問題です。

ちなみに、この国防が優先か、財政が優先かというせめぎ合いは、旧帝国政府内において、その後もずっと続くせめぎ合いです。
そして財政優先にした結果、明治政府は西南戦争を引き起こしてしまうし、さらに山縣有朋内閣のときに国防力強化のために歳費の7割を陸海軍の増強に遣うという提案もしりぞけられ、結果として日清戦争を招いています。
目先の予算をケチることで、結果として、多額の費用と人命を失っているのです。

大東亜戦争も、実は同じです。
日本が開戦前に、多額の予算を計上して、それこそ圧倒的軍事力と支那国民党張りの国際宣伝活動を展開していたら、もしかしたら戦争は防げたかもしれない。

要するに帝国主義の時代というのは、「力こそすべて」だったわけで、弱い国とみなされれば、いかに蹂躙されても文句さえいえない。
それが世界の常識だったわけです。

現に日本は、大正10(1921)年のワシントン軍縮会議、次いで昭和5(1930)年のロンドン軍縮会議に同意し、財政優先で日本の海軍力を低下させました。
その結果日本は、日英同盟を破棄され、世界の二強(英国、日本)という地位からまたたく間に転落し、東亜の弱国とみなされるようになったわけです。
その結果何が起こったかといえば、通州で大量に邦人が殺され、支那事変が起こり、大東亜の戦いにまで進むことになってしまいました。

早い話、米ソ冷戦の時代においても軍縮は時事人々の話題に上ったし、そのための動きはありましたが、米国はついに軍縮を実現せず、軍事強国を貫きました。
その結果、米国はソ連と戦争することなく、米国民の安全は守られ、逆に盛んな工作を仕掛けていたソ連の側が自滅しました。
それが国際政治の力学というものです。

日本は、第一次世界大戦の終結処理を行うバリ講和会議で、人種の平等を高らかに謳い上げましたが、大航海時代に始まる帝国主義の時代にあって日本が真に自存独立と東亜の平和、そして人種の平等を願うなら、日本は断固として世界最強の東亜における軍事強国であり続けなければならなかったのです。

綺麗ごとを言い、目先の財政にとらわれることが、結果として国の存立そのものを危うくさせる。
悲しいことですが、それが今も昔も変わらぬ世界の真実なのです。

昨今の尖閣問題や、竹島も同じです。
我が国が圧倒的な軍事力を持っていて、どうあがいても支那や韓国には敵わないだけの力があれば、両国は人本をあなどれず、勝手な領有もできません。

歴史を振り返れば、豊臣政権が崩壊したのも、和平のためと偽って大坂城の外堀を埋められてしまったことによります。
結果は、城内にまで攻め込まれ、大坂城は炎上し、豊臣政権は完全崩壊に至りました。
こういうことは、歴史の教訓として、私たちがしっかりと学ぶべきことだと思います。

なにやら話がぜんぜん違う方向に脱線してしまいましたが、ともあれ西郷隆盛は、ロシアの南下に脅威を感じ、これによって朝鮮半島までロシアによって征圧されてしまうことをおそれ、朝鮮半島の近代化の手助けをすべきと考えたわけです。

ところがこのことが、できたばかりの明治新政府の意向と対立してしまった。
そこへ身分を失った旧士族の不満、資金不足から給料の値下げをした明治政府への不満が重なった。
そしてこんどは、西郷隆盛暗殺未遂事件などがこれに追い打ちをかけます。

身の危険から薩摩に帰った西郷隆盛のもとには、明治新政府への不満を募らせた旧士族が集まり、そこへ西郷暗殺への怒りが重なる。
旧士族たちは、最早決起止む無しと立ち上がり、大西郷を盟主に押し立てて西南の役へと発展するわけです。

ちなみに冒頭の絵は、フランスのニュース紙に掲載された西郷隆盛とその仲間たちの肖像画です。
明治10(1877)年のものですが、ここに描かれた西郷隆盛の肖像画は、後年描かれた西郷像とは、ずいぶんと雰囲気が違います。

それにしても・・・・もし大西郷の意向が実現し、共揃えをしっかりと充実させた使節団が、朝鮮半島に赴き、そこで李氏朝鮮が胸襟を開いて日本と同じような近代化を推進していたら、東亜の歴史はどのように変化して行ったでしょうか。

どうなったかは、想像するほかありませんが、ただひとつ言えそうなのは、朝鮮半島は、明治43(1910)年の日韓併合ではなく、遅くとも明治20(1887)年頃には日本に併合されていたであろうということです。
それは朝鮮半島の近代化を早くに促したでしょうし、また、日本の統治期間が35年でなく、台湾と同じく50年以上に渡る期間となることによって、半島の日本化を目覚ましく推進したかもしれません。

けれど、八百万の神々の御心は計り知れないものですが、ただひとついえそうなのは、神々は、大西郷の命を奪ってまで、それをお認めにならなかった、ということです。
このことは、歴史から学ぶ、重要なポイントといえると思います。



神風連の乱は1876年に熊本市で起こった明治政府に対する士族の反乱

http://youtu.be/UhW4svBxKd0