「お白石持ち」のありがたさ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





西村眞悟の時事通信 より。





 この度の、伊勢神宮式年遷宮に際し、伊勢大湊のお世話を頂き、神領民として、内宮と外宮の「お白石持ち」に参加させていただいた。
 
 「お白石持ち」とは、内宮と外宮の正殿のまわりに敷きつめられる手の平にのる大きさの白い石を一日神領民となり、一人が一ついただいて正殿のまわりに置く行事である。
 何万人の一日神領民が静かに長い列をつくって順番に正殿のまわりにお白石を一つ一つ置いてゆく。
 そしてそれから次の遷宮までの二十年間、置いた人はそこへ入ることはできない。
 
 ただそれだけの素朴な行事である。

 しかし、この式年遷宮における「お白石持ち」の行事に、
日本と日本人の太古から今に続く静かな深層水のような民族の自我が顕れていると思える。
 従って、ここに書きとめておきたい。

 私は、炎熱の八月九日に内宮の「お白石持ち」を、小雨と曇りの九月一日に外宮の「お白石持ち」をそれぞれさせていただいた。
 炎熱であっても小雨であっても、何万の人々が正殿に向けて石を運び、それを一人一つずつ手に取って正殿のまわりに置いてゆく。それが何日間も続く。
 この作業が、二十年ごとに、千数百年行われてきた。
 古代の民も、車とクーラーで過ごしている現在の民も、皆同じである。
 
 日本とは、奥深いとてつもない国だ、これほどの自然で変わらぬ一貫性と連続性を湛えている民族は日本人だけだ、まずこう思う。
 
 そして、この類い希な民族の一貫性と連続性の要は、
 万世一系の天皇の存在であり、
 その万世一系の始祖の神を祭るのが伊勢神宮だ。
 
 伊勢神宮は、すごいなあ、と思う。

 日本は、巨石の文化ではない。
 小さな石が寄って大きな巌(いはを)となる「さざれ石」を尊ぶ文化である。
 巨大古墳も巨石は土で覆って見えなくしてあくまで土と小石で造る。明日香村の石舞台は、現在は巨石が露出しているが、はじめは土で覆われていた。
 私が住む堺の最大の前方後円墳である第十六代の仁徳天皇陵も何万の民が何年もかかって小石を並べ土を固めて造った。
 この仁徳天皇陵を造営した民は、奴隷ではないので強制されてしたのではない。
 つまり、伊勢神宮の昨日の「お白石持ち」と同じ光景が仁徳天皇陵の造営にも見られたのである。
 
 仁徳天皇の、減税をして民と苦楽を共にされる「民のかまどの仁政」は有名だが、減税と同時に、天皇は、大規模な土木工事により灌漑の為の堤を造営し飛躍的なコメの増産を実現された。
 この土木工事にたずさわった民も、昨日の「お白石持ち」の民である。

 日本は、一人一人が労力を持ち寄って何かを成し遂げることを尊ぶ文化である。
 第四十五代の聖武天皇は、
「廬舎那佛金銅の大像を造り給ふの詔」を発せられ、
そこで庶民に、
「一枝(し)の草一杷(は)の土を持ちて造像を助けむと情願する者あらば、之を許せ」と伝えられた。
 庶民も枝の一本や一握りの土を持ってきて造像を手伝えと呼びかけられたのだ。
 そして、同時に、国郡らの司に、大仏造造のことに因り、「百姓を侵(おか)し、みだりに強いて収斂せしむることなかれ」と命じられ、協力を強制してはならんと云われた。
 つまり、聖武天皇も、大仏造像の為に、昨日の伊勢神宮のような「お白石持ち」をしてくれるように民に呼びかけられたのだ。

 以上の通り、実際に「お白石持ち」をさせていただいて、仁徳天皇陵造営や大仏造営の状況が実感できた。
 
 私が、内宮の「お白石持ち」をさせていただいた翌日の八月十日、二年前の東日本巨大地震の際の日本人の姿を見て、「このような人々と共に生き、共に死にたい」と日本に帰化したドナルド・キーンさんが、「お白石持ち」をされたという。
 あの暑さの中で、九十歳を過ぎて内宮にお白石を置かれたドナルド・キーンは何を感じられたのだろうか。聞いてみたいと思う。

 さて、実際にお白石を渡され、
 それを手の平にのせて正殿に歩み始めるとき、
 どのような心境になるか。
 
 「ありがたさに 涙 こぼるる」状態になる。

 次に、人々の列が進んで、
 遂に、正殿のねきにお白石を置いた。
 二度と再びここにはいることはできないが、
 これから二十年間、このお白石はこの聖地にある。

 そして、次のことを心に誓った。
 次の式年遷宮に生きているかどうか分からないが、
 次の式年遷宮までの間に、
 尊皇愛国のため、最後のご奉公を成し遂げる、と。





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