橘周太中佐と遼陽戦
橘中佐
8月31日といえば、軍神・橘周太(たちばなしゅうた)陸軍中佐が、日露戦争における遼陽の首山堡の戦いで戦死された日です。
明治37(1904)年のことです。
遼陽の戦いは、明治37(1904)年8月24日から9月4日まで行われた満州の遼陽での陸戦です。
この戦いは、帝国陸軍とロシア陸軍の主力部隊が、はじめて正面衝突した戦いとしても記憶されます。
この時代、ロシア陸軍といえば、彼のナポレオンを破った世界で唯一の軍隊であり、自他ともに世界最強といわれていた軍隊です。
すこし補足しますと、ロシアは義和団事件のあと、満州に勝手に兵を進め、満州地方を勝手に軍事征圧しています。
すでに、満州を軍事的に征圧しているのです。
もっと簡単にいえば、すでに満州を支配下においていたわけです。
その満州に、ナポレオンを破ったロシア陸軍の最精鋭部隊を送り込んできたわけです。
ここまでくれば、理由は明白です。
ロシアは、支配下においた満州から、さらに領土的野心を燃やして、南下しようとしていたのです。
最近の学者や評論家などで、「当時のロシアには南下の意図などなく、侵略国で軍国主義の日本が勝手に戦争を仕掛けたのだ」などと世迷いごとを言っているのを見かけます。
誰とはいいませんが、あまりにくだらない説です。
ならば、なぜロシアはそのとき満州にいたのでしょうか。
なぜ最精鋭部隊をわざわざ満州に送り込んだのでしょうか。
さて、遼陽の戦いにおける日露双方の兵力は、
ロシア側兵力は、15万8000人、
対する日本軍は、12万5000名です。
つまり遼陽の戦いは、両軍合わせて28万の兵が激突した、世界の戦史に残る壮絶な陸軍の大会戦です。
時間を追ってみてみます。
日露戦争が勃発したのは、明治37(1904)年2月9日です。
日本陸軍は朝鮮半島北東にある仁川に上陸し、同時に海軍が旅順港を封鎖して、黄海の制海権を確保しました。
そして乃木大将率いる第三軍が、旅順要塞の攻略に向かい、
黒木為楨(くろき ためもと)大将が率いる第一軍が朝鮮半島の大同江に上陸して、5月1日には、鴨緑江渡河戦(おうりょくこうとかせん)で、2万4000人のロシア軍鴨緑江守備隊を打ち破っています。
さらに5月5日には、奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第二軍が遼東半島の塩大澳に上陸し、ロシア軍の立てこもる旅順要塞を孤立化させるために南山攻略を行い、続いて大連を占領する。
そして5月30日には東清鉄道に沿って北進し、得利寺、大石橋などでロシア軍と戦闘を繰り返しつつ、連戦連勝で北進して、遼陽を目指しているわけです。
また、野津道貫(のづみちつら)大将率いる第四軍は、大弧山から上陸して柝木城を攻略したあと、やはり遼陽へと進撃しています。
こうして8月中旬までには、日本軍は、黒木大将の第一軍、奥大将の第二軍、野津大将の第四軍が、それぞれ遼陽に集結しました。
遼陽を死守しようとするロシア軍は、15万の主力部隊をここに集結させ、万全の備えをひいて、日本軍を待ち受けていました。
そして8月30日、戦闘の火ぶたがきって落とされたのです。
この日第二軍は、前日来の豪雨で全員びしょ濡れになりながら、陣地の中堅の首山堡(しゅざんほ)を目指しました。
敵の中核陣地です。
この戦いで戦死されたのが、後に軍神となられた橘周太(たちばなしゅうた)中佐です。
どのような戦いだったのか、また、なぜ橘中佐がこの戦いで軍神といわれるようになったのか、その様子を見ていきたいと思います。
橘中佐はこの戦いで、第二軍、歩兵第三四連隊所属の第一大隊長でした。
出身は長崎で、生まれは慶応元(1865)年です。
この戦いのときは、39歳になられていました。
たいへんな部下思いの人で、26日の遼陽の豪雨では、露営した全員がずぶぬれとなったことに、「兵卒の苦労察せられ落涙せり」と日記に書いておられます。
ちなみに橘家は、敏達天皇の皇子である難波皇子の玄孫の橘諸兄の直系で、楠正成と同族なのだそうです。
楠正成の弟の正氏が和田姓を名乗り、その子孫の和田義澄が肥前国島原領千々石村(後の長崎県雲仙市)に移って城代となり、橘中佐の先代から橘姓を名乗っていました。
その橘中佐率いる第一大隊に、敵の中核陣地である首山堡攻略の命が下りました。
第一大隊は、30日の夜明け前のまだ暗いうちに総攻撃を仕掛けました。
白兵突撃です。
攻撃に気付いた敵は、これに猛然と機銃の弾を浴びせてきました。
たちまち先頭の数名が敵弾を浴びて斃れる。
部下を殺された橘中佐は、まさに怒髪天を衝きます。
そして「予備隊、続け~!!」と叫ぶと、愛刀の関の兼光を抜き、先頭をきって猛然と敵塁に駆け上ったそうです。
その姿に大隊の兵士たちも、敢然と吶喊攻撃を仕掛ける。
いっきに敵塁に達した橘隊長は、降り注ぐ敵弾をものともせず、敵塁に猛然と飛び込むと、たちまちのうちに数名のロシア兵を斬り伏せます。
そこに決死隊の数百名が、さらに飛び込んできて、敵兵を倒す。
敵味方入り乱れた白兵戦の中、大柄のロシア兵たちは、砦を奪われまいと必死に抵抗したけれど、第一大隊の戦意は敵をはるかに凌駕しました。
そしてついにロシア兵は撤退し、第一大隊が砦を奪い取ります。
砦には高らかに日の丸が掲げられ、全員で「万歳」を唱和しました。
これで首山堡を奪うことができたと、喜んだのもつかの間、こんどはこんどは砦を奪い返そうと、敵兵がときの声をあげて突撃してきたのです。
さらに砦に向かって雨のような十字砲火を加えて来ました。
首山堡は、小さな丘の上にある砦です。
ここに立てこもる第一大隊の兵士たちは、この砲火によって、占領の喜びもつかの間、たちまちのうちに、死屍累々の屍の山を築いてしまう。
壕の中は、味方の兵たちの鮮血で真っ赤に染まってしまいます。
そして橘中佐のすぐ近くにいた腹心の部下の川村少尉も、このとき敵弾によって喉を撃抜かれて斃れる。
「このままではやられる!」
橘中佐は川村少尉を壕の物陰に運び、傷を受けた喉に包帯を巻き終えると、再び憤然と立ち上がって、日本刀を引き抜くと、擲弾の唸る前線に飛び出されました。
まさに敵弾降り注ぐまっただ中です。
敵弾は、たちまちのうちに橘中佐の手にした刀の鍔を打ち砕いて指を吹き飛ばし、さらに中佐の腕の肉を削り取ります。
さらに腰にも敵弾が命中する。
ふつうなら、それだけで腰を抜かしかねない大怪我です。
けれど橘中佐は、自身の怪我をものともせず、決然と立ちあがると、
「いまこそ雌雄を決するときだぞ!この地を敵に奪われるな!敵を打ち払え!」と天にも届く大音声で味方の兵を励ましたのです。
日頃から敬愛する大隊長が、敵弾を受けながらも、一歩もひるまずに自分たちを励ましてくれているのです。
その姿を見て奮起しない者はいません。
部下たちは、まさに火の玉、鬼神となって敵を迎え撃ちます。
そしてあまりの日本側の抵抗の激しさに、さしものロシア軍も総崩れとなりました。
ところがそのとき、橘中佐の近くで炸裂した敵の砲弾の破片が、橘中佐を直撃しました。
どうと倒れる中佐。
中佐は、「おのれ、無礼者め」と、歯を食いしばって立ち上がろうとするけれど、立ち上がれない。
くやしいことに敵弾は中佐の腰骨を砕いていたのです。
近くにいた内田軍曹が、「隊長、傷は浅いものではありません。しばらくこちらに」と橘隊長を壕の物陰に運びました。
「そんなことはない。見よ内田。たいしたことはない」と、戦場に戻ろうとする橘隊長だけれど、軍服を脱がせ、傷口を見ると、腰から鮮血が湯水のようにほとばしっている。
普通ならこれでは助からないと、あきらめるところなのだけれど、橘中佐は、あきらめません。
ままよとばかり声を励ますと、
「隊長の俺はここにいる。受けた傷は深いものではない。諸氏は日本男児の名を思い、命の限り戦い防御せよ」と隊員たちを励ましたのです。
寄せては返し、また寄せる、戦いはまだまだ続きます。
橘大隊は、敵の新手を打ち返すのだけれど、いかんせん、味方の兵は少なく、さらに敵襲の度毎に、味方の兵力は次々と失われて行きます。
このままではせっかく奪い取った首山堡を、ふたたび敵に奪い返されるのも時間の問題です。
すると橘中佐は、看病をする内田軍曹に、「軍曹、味方の残兵は少ない。俺は大丈夫だから、君も銃をとって戦え」と命令しました。
寡兵となりながらも、猛然と戦う第一大隊。
ひいては押し、押しては引くロシア軍。
いくどかの戦いの後、辛くも敵を打ち払ったけれど、もはや味方の兵は少なく、この地を占めることは困難となりました。
内田軍曹は、敵を打ち払ったこの隙にと、橘中佐のもとに戻りました。
そして、いまのうちになんとかして隊長を後方の野戦病院に送ろうと、橘隊長を背負い、屍を踏み分け、壕を飛び越え、刀を杖にして岩を超え後方に下ろうとしました。
ところがそのとき、7発の敵弾が、橘中佐の背中に命中したのです。
そのなかの数発は、貫通して内田中佐の胸を破りました。
こうして橘中佐は、遼陽の首山堡の露となり、この世を去られました。
その翌々の9月1日、首山堡でみせた日本軍のあまりの壮絶な攻撃ぶりに恐れをなしたロシア軍は、後方の奉天に撤退し、日本軍は、遼陽入城を果たしました。
この戦いで、日本側は2万3615名を失いました。
(ロシアは1万7900人が死亡)
けれど、戦いは日本の勝利となました。
橘中佐が、亡くなる直前のことです。
中佐は次の言葉をお残しになりました。
========
残念ながら天はわれに幸いしなかった。
とうとう最期が来たようだ。
皇太子の御誕生日である最もおめでたい日に敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の本望だ。
ただ、残念ながら多くの部下を亡くしたのが、申し訳ない。
========
最後の最後まで、部下を気遣っておいでだったのです。
戦闘のあと、内田軍曹は「橘少佐の神霊に拝告」と題した書簡で、次のように述べています。
========
翌々日に至り、遼陽は全く我が軍のものとなり、遼陽街の中国人の家の軒には日章旗がひるがえり、日本軍を歓迎する情は、至れり尽くせりのすばらしいものでした。
けれど、ここに遼陽の陥落の報告をなしたいと思っても、もうすでに隊長殿はこの世におられません。
遼陽の歓迎ぶりがどんなにすばらしいものであったか、語ろうと思いましてもこの世におられません。
私が今日まで隊長殿の部下として光栄に浴してより、まだ日は浅いのですが、隊長殿から受けた親愛の情は誠に深く、まるでずっと昔からの部下であったように接してくださいました。
私はおかげさまで、いつも勇み励み、愉快な軍務に服することが出来ました。
崇拝、敬慕して止まない私たちの大隊長
故陸軍歩兵少佐橘周太殿
ご神霊にご報告しなければならないことがいっぱいありますが、眼は涙に曇り、胸ははりさけんばかりで、思うがごとく述べ切れません。
ただ、願わくば、ご神霊を拝み、いつの日にか、再び地下において部下としての光栄をいただく時を待つだけであります。
========
そして橘少佐は、死後特進して中佐となり、軍神となりました。
なぜ橘中佐は、軍神となられたのでしょうか。
それは、どこまでも戦いをあきらめない敢闘精神に加えて、なによりも部下を大切にするその気持ちと責任感の強さにあります。
世界中どこでも、軍というのは上下関係で構成されています。
上官の命令には絶対服従、それが軍というものです。
けれど、そういう軍にあっても、いや、そういう世界だからこそ、部下を大切に思う。
それが日本人の日本の軍隊です。
世界中どこでも、上下関係というのは、上に立つ者にとって、下の者は「動産」と同じであることを意味します。
早い話が、米国企業では、ボスが「お前はクビだ」と言ったら、その瞬間に、その人はクビです。
その人の持ち物(私物)と同じで、捨てようが壊そうが、そのモノの日常がどうなろうが関係ありません。
部下の日常も業務上も、すべては上に立つ者の思うがままです。
それが世界における上下関係です。
下からみたとき、上に立つ者は、常に支配者そのものとなる。
これに対し日本における上下関係は、あくまでも役割分担として認識されます。
業務上の上下関係があっても、それはあくまで業務上の役割分担であって、人としては対等です。
それが日本古来の公民主義(皇民主義)です。
橘中佐が軍神とされたのは、ともすれば上下の支配と隷属の関係と誤解され易い軍隊において、なお、日本人としての公民の心を忘れない、部下を人間としてあつかうことを忘れない橘中佐の心を、日本国が、国として誇りにおもい、また、大切に思ったからこそです。
もちろん、軍人ですから、いざとなれば戦場に赴かなければなりません。
その「いざというとき」に怖じ気づいたら、自分が殺されるだけですから、それはもう徹底した厳しい訓練が行われます。
往復ビンタもあたりまえです。
なぜなら、実戦では敵弾が飛んで来るのです。ビンタどころの話じゃない。
けれど、訓練は厳しくても上官と部下の間には、人として対等な温かい心の交流がある。
そして上官は部下を思い、部下は上官を尊敬し引き立て、みんなで部隊を盛り上げて行く。
それが日本における共同体意識というものです。
ボスひとりが全権を握る大陸風とは、ここが異なる。
そういう意味で、橘中佐は、立派な帝国軍人とされ、軍神として讃えられたのです。
ちなみにいま、陸上自衛隊第34普通科連隊は、橘連隊と呼ばれています。
橘中佐の遺徳は、こうしていまでも引き継がれています。
すでに、満州を軍事的に征圧しているのです。
もっと簡単にいえば、すでに満州を支配下においていたわけです。
その満州に、ナポレオンを破ったロシア陸軍の最精鋭部隊を送り込んできたわけです。
ここまでくれば、理由は明白です。
ロシアは、支配下においた満州から、さらに領土的野心を燃やして、南下しようとしていたのです。
最近の学者や評論家などで、「当時のロシアには南下の意図などなく、侵略国で軍国主義の日本が勝手に戦争を仕掛けたのだ」などと世迷いごとを言っているのを見かけます。
誰とはいいませんが、あまりにくだらない説です。
ならば、なぜロシアはそのとき満州にいたのでしょうか。
なぜ最精鋭部隊をわざわざ満州に送り込んだのでしょうか。
さて、遼陽の戦いにおける日露双方の兵力は、
ロシア側兵力は、15万8000人、
対する日本軍は、12万5000名です。
つまり遼陽の戦いは、両軍合わせて28万の兵が激突した、世界の戦史に残る壮絶な陸軍の大会戦です。
時間を追ってみてみます。
日露戦争が勃発したのは、明治37(1904)年2月9日です。
日本陸軍は朝鮮半島北東にある仁川に上陸し、同時に海軍が旅順港を封鎖して、黄海の制海権を確保しました。
そして乃木大将率いる第三軍が、旅順要塞の攻略に向かい、
黒木為楨(くろき ためもと)大将が率いる第一軍が朝鮮半島の大同江に上陸して、5月1日には、鴨緑江渡河戦(おうりょくこうとかせん)で、2万4000人のロシア軍鴨緑江守備隊を打ち破っています。
さらに5月5日には、奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第二軍が遼東半島の塩大澳に上陸し、ロシア軍の立てこもる旅順要塞を孤立化させるために南山攻略を行い、続いて大連を占領する。
そして5月30日には東清鉄道に沿って北進し、得利寺、大石橋などでロシア軍と戦闘を繰り返しつつ、連戦連勝で北進して、遼陽を目指しているわけです。
また、野津道貫(のづみちつら)大将率いる第四軍は、大弧山から上陸して柝木城を攻略したあと、やはり遼陽へと進撃しています。
こうして8月中旬までには、日本軍は、黒木大将の第一軍、奥大将の第二軍、野津大将の第四軍が、それぞれ遼陽に集結しました。
遼陽を死守しようとするロシア軍は、15万の主力部隊をここに集結させ、万全の備えをひいて、日本軍を待ち受けていました。
そして8月30日、戦闘の火ぶたがきって落とされたのです。
この日第二軍は、前日来の豪雨で全員びしょ濡れになりながら、陣地の中堅の首山堡(しゅざんほ)を目指しました。
敵の中核陣地です。
この戦いで戦死されたのが、後に軍神となられた橘周太(たちばなしゅうた)中佐です。
どのような戦いだったのか、また、なぜ橘中佐がこの戦いで軍神といわれるようになったのか、その様子を見ていきたいと思います。
橘中佐はこの戦いで、第二軍、歩兵第三四連隊所属の第一大隊長でした。
出身は長崎で、生まれは慶応元(1865)年です。
この戦いのときは、39歳になられていました。
たいへんな部下思いの人で、26日の遼陽の豪雨では、露営した全員がずぶぬれとなったことに、「兵卒の苦労察せられ落涙せり」と日記に書いておられます。
ちなみに橘家は、敏達天皇の皇子である難波皇子の玄孫の橘諸兄の直系で、楠正成と同族なのだそうです。
楠正成の弟の正氏が和田姓を名乗り、その子孫の和田義澄が肥前国島原領千々石村(後の長崎県雲仙市)に移って城代となり、橘中佐の先代から橘姓を名乗っていました。
その橘中佐率いる第一大隊に、敵の中核陣地である首山堡攻略の命が下りました。
第一大隊は、30日の夜明け前のまだ暗いうちに総攻撃を仕掛けました。
白兵突撃です。
攻撃に気付いた敵は、これに猛然と機銃の弾を浴びせてきました。
たちまち先頭の数名が敵弾を浴びて斃れる。
部下を殺された橘中佐は、まさに怒髪天を衝きます。
そして「予備隊、続け~!!」と叫ぶと、愛刀の関の兼光を抜き、先頭をきって猛然と敵塁に駆け上ったそうです。
その姿に大隊の兵士たちも、敢然と吶喊攻撃を仕掛ける。
いっきに敵塁に達した橘隊長は、降り注ぐ敵弾をものともせず、敵塁に猛然と飛び込むと、たちまちのうちに数名のロシア兵を斬り伏せます。
そこに決死隊の数百名が、さらに飛び込んできて、敵兵を倒す。
敵味方入り乱れた白兵戦の中、大柄のロシア兵たちは、砦を奪われまいと必死に抵抗したけれど、第一大隊の戦意は敵をはるかに凌駕しました。
そしてついにロシア兵は撤退し、第一大隊が砦を奪い取ります。
砦には高らかに日の丸が掲げられ、全員で「万歳」を唱和しました。
これで首山堡を奪うことができたと、喜んだのもつかの間、こんどはこんどは砦を奪い返そうと、敵兵がときの声をあげて突撃してきたのです。
さらに砦に向かって雨のような十字砲火を加えて来ました。
首山堡は、小さな丘の上にある砦です。
ここに立てこもる第一大隊の兵士たちは、この砲火によって、占領の喜びもつかの間、たちまちのうちに、死屍累々の屍の山を築いてしまう。
壕の中は、味方の兵たちの鮮血で真っ赤に染まってしまいます。
そして橘中佐のすぐ近くにいた腹心の部下の川村少尉も、このとき敵弾によって喉を撃抜かれて斃れる。
「このままではやられる!」
橘中佐は川村少尉を壕の物陰に運び、傷を受けた喉に包帯を巻き終えると、再び憤然と立ち上がって、日本刀を引き抜くと、擲弾の唸る前線に飛び出されました。
まさに敵弾降り注ぐまっただ中です。
敵弾は、たちまちのうちに橘中佐の手にした刀の鍔を打ち砕いて指を吹き飛ばし、さらに中佐の腕の肉を削り取ります。
さらに腰にも敵弾が命中する。
ふつうなら、それだけで腰を抜かしかねない大怪我です。
けれど橘中佐は、自身の怪我をものともせず、決然と立ちあがると、
「いまこそ雌雄を決するときだぞ!この地を敵に奪われるな!敵を打ち払え!」と天にも届く大音声で味方の兵を励ましたのです。
日頃から敬愛する大隊長が、敵弾を受けながらも、一歩もひるまずに自分たちを励ましてくれているのです。
その姿を見て奮起しない者はいません。
部下たちは、まさに火の玉、鬼神となって敵を迎え撃ちます。
そしてあまりの日本側の抵抗の激しさに、さしものロシア軍も総崩れとなりました。
ところがそのとき、橘中佐の近くで炸裂した敵の砲弾の破片が、橘中佐を直撃しました。
どうと倒れる中佐。
中佐は、「おのれ、無礼者め」と、歯を食いしばって立ち上がろうとするけれど、立ち上がれない。
くやしいことに敵弾は中佐の腰骨を砕いていたのです。
近くにいた内田軍曹が、「隊長、傷は浅いものではありません。しばらくこちらに」と橘隊長を壕の物陰に運びました。
「そんなことはない。見よ内田。たいしたことはない」と、戦場に戻ろうとする橘隊長だけれど、軍服を脱がせ、傷口を見ると、腰から鮮血が湯水のようにほとばしっている。
普通ならこれでは助からないと、あきらめるところなのだけれど、橘中佐は、あきらめません。
ままよとばかり声を励ますと、
「隊長の俺はここにいる。受けた傷は深いものではない。諸氏は日本男児の名を思い、命の限り戦い防御せよ」と隊員たちを励ましたのです。
寄せては返し、また寄せる、戦いはまだまだ続きます。
橘大隊は、敵の新手を打ち返すのだけれど、いかんせん、味方の兵は少なく、さらに敵襲の度毎に、味方の兵力は次々と失われて行きます。
このままではせっかく奪い取った首山堡を、ふたたび敵に奪い返されるのも時間の問題です。
すると橘中佐は、看病をする内田軍曹に、「軍曹、味方の残兵は少ない。俺は大丈夫だから、君も銃をとって戦え」と命令しました。
寡兵となりながらも、猛然と戦う第一大隊。
ひいては押し、押しては引くロシア軍。
いくどかの戦いの後、辛くも敵を打ち払ったけれど、もはや味方の兵は少なく、この地を占めることは困難となりました。
内田軍曹は、敵を打ち払ったこの隙にと、橘中佐のもとに戻りました。
そして、いまのうちになんとかして隊長を後方の野戦病院に送ろうと、橘隊長を背負い、屍を踏み分け、壕を飛び越え、刀を杖にして岩を超え後方に下ろうとしました。
ところがそのとき、7発の敵弾が、橘中佐の背中に命中したのです。
そのなかの数発は、貫通して内田中佐の胸を破りました。
こうして橘中佐は、遼陽の首山堡の露となり、この世を去られました。
その翌々の9月1日、首山堡でみせた日本軍のあまりの壮絶な攻撃ぶりに恐れをなしたロシア軍は、後方の奉天に撤退し、日本軍は、遼陽入城を果たしました。
この戦いで、日本側は2万3615名を失いました。
(ロシアは1万7900人が死亡)
けれど、戦いは日本の勝利となました。
橘中佐が、亡くなる直前のことです。
中佐は次の言葉をお残しになりました。
========
残念ながら天はわれに幸いしなかった。
とうとう最期が来たようだ。
皇太子の御誕生日である最もおめでたい日に敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の本望だ。
ただ、残念ながら多くの部下を亡くしたのが、申し訳ない。
========
最後の最後まで、部下を気遣っておいでだったのです。
戦闘のあと、内田軍曹は「橘少佐の神霊に拝告」と題した書簡で、次のように述べています。
========
翌々日に至り、遼陽は全く我が軍のものとなり、遼陽街の中国人の家の軒には日章旗がひるがえり、日本軍を歓迎する情は、至れり尽くせりのすばらしいものでした。
けれど、ここに遼陽の陥落の報告をなしたいと思っても、もうすでに隊長殿はこの世におられません。
遼陽の歓迎ぶりがどんなにすばらしいものであったか、語ろうと思いましてもこの世におられません。
私が今日まで隊長殿の部下として光栄に浴してより、まだ日は浅いのですが、隊長殿から受けた親愛の情は誠に深く、まるでずっと昔からの部下であったように接してくださいました。
私はおかげさまで、いつも勇み励み、愉快な軍務に服することが出来ました。
崇拝、敬慕して止まない私たちの大隊長
故陸軍歩兵少佐橘周太殿
ご神霊にご報告しなければならないことがいっぱいありますが、眼は涙に曇り、胸ははりさけんばかりで、思うがごとく述べ切れません。
ただ、願わくば、ご神霊を拝み、いつの日にか、再び地下において部下としての光栄をいただく時を待つだけであります。
========
そして橘少佐は、死後特進して中佐となり、軍神となりました。
なぜ橘中佐は、軍神となられたのでしょうか。
それは、どこまでも戦いをあきらめない敢闘精神に加えて、なによりも部下を大切にするその気持ちと責任感の強さにあります。
世界中どこでも、軍というのは上下関係で構成されています。
上官の命令には絶対服従、それが軍というものです。
けれど、そういう軍にあっても、いや、そういう世界だからこそ、部下を大切に思う。
それが日本人の日本の軍隊です。
世界中どこでも、上下関係というのは、上に立つ者にとって、下の者は「動産」と同じであることを意味します。
早い話が、米国企業では、ボスが「お前はクビだ」と言ったら、その瞬間に、その人はクビです。
その人の持ち物(私物)と同じで、捨てようが壊そうが、そのモノの日常がどうなろうが関係ありません。
部下の日常も業務上も、すべては上に立つ者の思うがままです。
それが世界における上下関係です。
下からみたとき、上に立つ者は、常に支配者そのものとなる。
これに対し日本における上下関係は、あくまでも役割分担として認識されます。
業務上の上下関係があっても、それはあくまで業務上の役割分担であって、人としては対等です。
それが日本古来の公民主義(皇民主義)です。
橘中佐が軍神とされたのは、ともすれば上下の支配と隷属の関係と誤解され易い軍隊において、なお、日本人としての公民の心を忘れない、部下を人間としてあつかうことを忘れない橘中佐の心を、日本国が、国として誇りにおもい、また、大切に思ったからこそです。
もちろん、軍人ですから、いざとなれば戦場に赴かなければなりません。
その「いざというとき」に怖じ気づいたら、自分が殺されるだけですから、それはもう徹底した厳しい訓練が行われます。
往復ビンタもあたりまえです。
なぜなら、実戦では敵弾が飛んで来るのです。ビンタどころの話じゃない。
けれど、訓練は厳しくても上官と部下の間には、人として対等な温かい心の交流がある。
そして上官は部下を思い、部下は上官を尊敬し引き立て、みんなで部隊を盛り上げて行く。
それが日本における共同体意識というものです。
ボスひとりが全権を握る大陸風とは、ここが異なる。
そういう意味で、橘中佐は、立派な帝国軍人とされ、軍神として讃えられたのです。
ちなみにいま、陸上自衛隊第34普通科連隊は、橘連隊と呼ばれています。
橘中佐の遺徳は、こうしていまでも引き継がれています。