昭和20年8月20日樺太
真岡郵便電信局事件と九人の乙女たち。
九人の乙女
ある映画の冒頭のナレーションをご紹介します。
~~~~~~~~~~~~~
いまはソ連の支配下にあり「サハリン」と呼ばれているこの島は、ともすればもう、人々の記憶から遠ざかろうとしている。
だが、今日もこの海の向こうに見えるあの樺太は、多くの人々にとっては、いつまでも懐かしく心を去らない故郷(ふるさと)である。
また、ある人々にとっては、父や母や子供を失った悲しみの土地でもある。
その思いをとどめようとするために、ここ北海道稚内市稚内公園に、ひとつの門が建っている。
この白御影石を使用した十メートルあまりの二本の塔。
その下に、厳しい樺太の風土に耐えて生き抜いた人々をあらわす女人像。
これは「氷雪の門」と呼ばれている。
この碑文には、次の言葉が刻まれている。
===============
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。
戦後はその門も固く閉ざされた。
望郷の念止みがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、
この塔を建つ
===============
またその近くに、いっそうの屏風のように形作られた九人の乙女の碑。
===============
皆さんこれが最後です。さようなら
===============
この言葉の意味を知らない人は多い。
また、初めてこの碑の存在に気付く人も。
そして傍(からわ)らの碑文を読む人は、これが樺太西海岸真岡町、真岡郵便局電話交換手九人の、最後の言葉であることを知るだろう。
~~~~~~~~~~~~~
九人の乙女の碑
もうお気づきの方もおいでのことと思います。
このナレーションは、映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の冒頭です。
昭和48(1973)年に撮影され、翌昭和49(1974)年に上映開始予定となったこの映画は、同年3月7日、モスクワで、モスフィルムという会社の所長がたったひとこと、
「非常にソビエトにとって面白くない映画が日本で公開されようとしているのは理解に苦しむ」
と言っただけで、予定されていた全国での映画配給が、いきなり中止になったものです。
上映されたのは、北海道と九州の一部の映画館が、わずか2週間ほど公開しただけで、映画はお蔵入りとなった。
真岡の郵便局で、尊い命を捧げた9人の乙女たちの命より、
「人類の理想の国家ソ連」への礼賛が、戦後反日左翼主義者たちには大事だったのです。
彼らが礼賛したソ連。
それがどういう国だったのか、ソ連崩壊を目の当たりにしてきたいま、世界中の人が、その事実を知っている。
そんなソ連を大絶賛し、ソ連にひれ伏し、日本の亡国に一役買った反日左翼主義者たちは、いまではなんと日本の与党になっている。
ありえないことです。
こんなものを認めた日本人は、猛反省をしなければならない。
ついでに申し上げると、第二次世界大戦のとき、ヒットラーの率いるドイツがソ連に侵入した際、初戦で快進撃をしたドイツは、スターリングラードの戦いを契機に、突然、敗退をしていますね?
多くの日本人は、これは「ドイツが冬将軍にやられたせいだ」と思いこまされています。
とんでもないです。
冬将軍は、ソ連軍にもドイツ軍にも、両方に均等に襲いかかってきた。
なにもドイツだけに冬が来たわけではない。
では、なぜ、ドイツが敗退したのかというと、実は経済の問題です。
当時のソ連は、まだロシア革命から日も浅く、内乱が繰り返されていた時期です。
スターリンが国富を独占し、独裁権を振るっているだけで、まともな経済運営なんてありません。
だからドイツが攻めてきたとき、ソ連はこれに対抗するために必要な軍備さえなかったのです。
氷雪の門のことを書くはずが、話がソ連に脱線しています。
ここまで書いてしまったので、もうすこしソ連の話を続けます。
そもそも、貴族の持つ土地などの社会資本を、政府が強制的に接取して一般大衆に配るというのが、社会主義の基本理念です。
ところが「権力による富の強制接取」というのは、金儲主義、権力主義、独裁主義者には、実によい隠れ蓑となったのです。
スターリンが、社会主義者、共産主義者であったことは、ただの一度もありません。
彼は、単に自己の贅沢と限りない欲望のために活動したにすぎない。
富を生まず、育てず、ただ強奪し収奪し、個人の贅沢に費消するだけの体制で、まともな国内産業など育つはずもありません。
つまり第二次世界大戦がはじまった頃の時点では、ソ連は、まだまだ世界の貧乏国でしかなかった。
戦車や戦闘機などの近代兵器を整えるのに必要なカネがない。
ソ連軍の装備はひどいものだった。
新型の兵器を整えたドイツ軍と、粗末な軍備しかないソ連軍。
闘いの初戦で、ドイツが圧勝したのは、あたりまえすぎるくらい、あたりまえのことです。
ところが、このままドイツがソ連を奪えば、ヨーロッパは、ことごとくドイツのものになってしまう。
このことをもっとも危惧したのが、英国のチャーチルです。
そしてチャーチルは、米国のルーズベルトに、打開策を依頼した。
ルーズベルトは、ここでなんと115億ドルという途方もない金額をソ連に貸し付けたのです。
115億ドルといえば、1ドル=360円だった昔の為替相場で4兆1000億円です。
当時の貨幣価値に換算すれば、いまのお金にして100兆円を超える大金を、ソ連はアメリカから調達したのです。
日本の自衛隊の国防費が、年額で4兆円程度しかないことを考えれば、その額がどれだけすさまじい金額か、おわかりいただけようかと思います。
カネだけではありません。
ルーズベルトは、アメリカが巨費を投じて開発した戦車や戦闘機などの設計図面から、それらを造るための技術者までソ連に派遣した。
おかげで短期間でソ連は超近代的戦闘兵器を造り上げ、軍備を整えます。
そしてその軍備をもって、スターリングラードに釘付けにしておいたドイツ軍と対峙し、これを打ち破った。
ドイツにしてみれば、青天の霹靂です。
旧式の軍装しかないはずのソ連軍が、いきなり超近代兵器の大軍を前線に繰り出してきたのです。
ドイツは、ソ連の領土から敗退する。
ソ連はこれを追いかけ、ついにはベルリンまで制圧した。
このとき、ソ連は、街や村を占領したら、その土地の女性を強姦して良いというお触れを、兵士達に出しています。
おかげで、当時、ベルリンの女性の5割が強姦被害に遭っている。
こうして第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を制したソ連は、新たに造った兵器と、新たに雇ったソ連軍兵士達が、大量に余ります。
で、その余った兵力をもって、今度は東・・・つまり満洲、樺太、千島列島に進攻してきたのが、ソ連の対日参戦です。
このときソ連が動員した兵力は、戦車5千輌、兵力157万人です。
ひらたく言えば、157万人の飢えたケダモノが、満洲、樺太、千島列島に乱入してきたのです。
ソ連の軍事行動は、まるごと戦争犯罪そのものです。
こういうのを「人類の恥」という。
さらにいうと、戦争が終わったあとのソ連も最悪です。
アメリカは、ソ連に115億ドルを「貸した」のです。
借りたものは返さなければならない。
あたりまえのことです。
ところが、スターリンは、この115億ドルを軍備のために遣ってしまっている。
しかも国内には産業がない。
要するにアメリカに返すお金がない。
あるのは、157万人もの飢えた強姦魔集団だけです。
で、何をはじめたかというと、アメリカと対峙し、冷戦をひき起こして借金の踏み倒しを図った。
まさに泥棒国家です。
そういう国を、日本の左翼は、理想の大国と絶賛し、日ごろ口先だけで「人の命は地球より重い」などと能書きを言っていながら、真岡の9人の乙女たちの死より、ソ連礼賛を優先したわけです。
愚劣極まりないとはこのことです。
さて、そういうソ連が、日本との間の日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、昭和20年8月9日、突然、日本に攻め込みます。
満州国境を侵略し、千島列島の国境を越えてきた。
当時の樺太は、南半分が正当な日本の領土です。
そこを平気で蹂躙しにきたわけです。
日本は、ソ連の侵攻を知ると、8月13日には、樺太でも緊急疎開を開始しています。
15日正午には、玉音放送が流れ、大東亜戦争は、終結した。
それでも、ソ連が進攻している以上、とにもかくにも樺太に残留する邦人を、特に女子供を優先して本土に疎開させなければならない。
実際、同日には樺太全土にいる婦女子にたいし、本土への帰還命令が出されています。
この疎開用の輸送船を狙って、ソ連の潜水艦が攻撃をしかけた。
無防備な輸送船を撃沈するというのは、明白な戦時国際法違反です。
しかもその国際法を作ったのは、旧ロシアのニコライ二世です。
歴史、伝統、文化を踏みにじる共産主義者、社会主義者というのは、こういう自国の先人の誇るべき遺志すらも、平気でふみにじる。
この攻撃によって、疎開しようとしていた1700名の日本人乗員が殺害されています。8月22日のことです。
集団疎開は23日まで続くけれど、危険な航海です。
いまどきの組合系の飛行機会社や船会社なら、船長や乗務員の安全のためにとか言って、船出そのものを拒みそうです。
しかしこの頃の日本船舶の乗員たちにはまだ覇気があった。
危険な航海であることを知りながら、それでも約87000人を北海道へと輸送し、脱出させています。
実に勇敢な行為です。
そして、こうした輸送を成功に導くために、絶対に欠かすことができないのが、本土との通信連絡網の確保です。
当時、樺太と日本本土の間には、電話線が引かれていた。
そしてその電話は、郵便局にいる電話交換手の女性たちが、手作業で回路の接続業務(電話交換業務)をしていたのです。
電話交換手がいなければ、いつ輸送船が樺太に来るのか、いつ出発するのか、いつ本土に到着するのか、わからない。
8月16日、樺太の真岡市にあった真岡郵便局で、朝礼が行われました。
その朝礼で、交換手の主事補だった鈴木かずえさんが、部下の女性交換手たちにこう話します。
~~~~~~~~~~~
政府から、特に女性たちを優先して緊急疎開させるようにと、疎開命令が出ています。
でも、その疎開を効果的に実現するためには、電話交換業務を継続しなければなりません。
そこで、残って交換業務を続けてくれる人を求めます。
ただし、すぐに返事は聞きません。
全員、一度家族と相談したうえで、返事を聞かせてください。
~~~~~~~~~~~~
かずえさんのこの言葉に、その場にいた女性交換手全員が手を挙げ、
「私は残ります」
「私も残ります」
「私も残らせて下さい」と声をあげたそうです。
みんな、17歳から24歳の、若い女性たちです。
かずえさんは、みんなのその気持ちが嬉しく、しかしみんなを危険にさらさせるわけにいかず、目に涙を浮かべながら、こう言います。
~~~~~~~~~~~
みなさん、今日は、希望者は募りません。
家に帰り、一度家族と相談してから、残るかどうかを班長に伝えてください。
~~~~~~~~~~~
ソ連軍が来たら、何をされるかわからないのです。
もはや命はない。
「残る」ということは、最後は「自害する」という選択しかないことを意味するのです。
だから、自分ひとりで決めちゃいけない。あくまで家に帰って、親と相談してから、あらためて希望者は名乗り出てください、とした。
斉藤春子さんという方がいます。
妹の斉藤美枝子さんと、ふたりで、電話交換手として働いていた。
斉藤姉妹は、二人とも、残留を志願した。
しかし母親は、真岡郵便局長の上田さんに電話をかけています。
「娘二人とも預けたままでは、引き揚げられない。
だから、どうしてもひとりだけでも連れて帰りたい」
母親の血の出るような叫びが聞こえてくるようです。
18日、上田局長は、斉藤姉妹を呼び出し、母親からの電話のことを伝え、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げた。
姉妹は互いに、自分が残ると押し問答を繰り返したといいます。
そして言い合いの後、姉が母と帰ることになった。
そんな姉妹の姿を黙って見ていた上田局長は、残留の決まった妹の美枝子さんを、そっと母と姉の乗る復員船の出航に間に合うように、帰しています。
こうして最終的に、真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残った。
8月19日の朝、人数の少なくなった真岡郵便局は、電話交換手を平常の三交代制から、非常勤務体制である二交代制に体制を組み替えます。
電話交換手の女性たちは、上野班と高石班の二つに分けられた。
午後7時に、最初の夜勤当直班として、高石班11名が勤務に付いた。
この時点で、真岡郵便局にいたのは、平井茂蔵電信主事他、男性職員6名、女性職員が14名です。
そして、電話交換業務を行う奥の建物で、高石班11名が業務に就きます。
翌朝7時33分、ソ連の軍艦が真岡付近にやってきます。
港に近づいたソ連軍艦は、なんの布告もなく、いきなり猛烈な艦砲射撃を繰り広げた。
同時にソ連軍の上陸用艇が、真岡に上陸した。
南京のことがよく取り沙汰されますが、南京城攻略の際、総大将の松井石根大将は、南京城を包囲したあと、なんと1週間もの間、城内に向かって、降伏と軍人以外の一般市民の退去を呼び掛けを行い、その間、一切の攻撃をしなかった。
戦いに際し、一般人への被害を極力少なくしようとする、これが日本軍人の姿勢です。
便衣兵などと呼ばれ、女子供まで一般服に身を包みながら、日本軍が近づくといきなり発砲して日本兵に損傷を負わせる。
そんな卑怯なルールを無視した支那兵に対してでさえ、日本は出来うる限りの温情をかけ、一般人の被害が出ないよう最大限の配慮をした。
米軍でさえ、艦隊が近づいてきて、その集合体制が出来上がるまで、一定時間は、砲撃をしていなません。
これに対し、真岡にやってきたソ連軍艦は、近づくや否や、いきなり艦砲射撃を一般人に向けて行ったのです。
多くの真岡市民は、防空壕に入る間もなくこの艦砲射撃で命を失っている。
どうにか艦砲射撃を逃れた真岡郵便局の高石班長は、上田郵便局長他、局幹部に電話で緊急連絡を行い、職員全員に非常招集をかけます。
本土への応援(救援)の依頼等に際して、電話交換業務が混みあうことが予期できたからです。
(地震や台風などで被災するとすぐに回線がパンクするいまどきの日本の特定携帯電話会社とはえらい違いです)
局員たちは、急いで郵便局に向かった。
ところが、その頃には、もうすでに、ソ連兵が市内に上陸し、動くものを見れば片端から銃撃しています。
そして武器を持たない丸腰の日本の民間人たちを、見つけ次第殺し、屋内に侵入しては強姦や略奪を始めていた。
混乱の中で、郵便局に出勤途上の上野班の電信受付の折笠雅子さんも、ソ連兵によって射殺されています。
他にも艦砲射撃やソ連兵の銃撃を避けて、途中の防空壕に避難した職員が、壕の中に手榴弾を投げ込まれて次々爆死しています。
そのときの様子を、混乱の中でからくも助かった上野班の藤本照子は、後に「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした」と語っています。
上田郵便局長も郵便局へ向かうけれど、手当たりしだい一般市民を虐殺するソ連兵の前に、とりあえず付近の建物に避難します。
その建物には、局長の他5~6名が、避難していた。
建物内に郵便局長の姿を見つけた真岡署の木村巡査部長は、局長らを救出しなければならないと、建物に向かって走り出します。
そして、あと一歩で、建物にたどり着くというときに、ソ連兵の銃弾によって、後ろから撃たれてしまう。
自分たちを助けようとしにきた木村巡査部長です。
上田局長は、なんとか彼を建物の陰に引きずり込もうと、路上に飛び出した。
すぐあとを同僚の局員が続いた。
その二人をみつけたソ連兵が、また発砲します。
上田局長は、左手に貫通銃創を負い、もうひとりは右足に盲管銃創を負って倒れてしまう。
血だらけになった局長の姿を見て、一緒にいた若い男が、棒の先に白布を縛り付け、ソ連兵に降伏の意思表示をし、その場の全員がただちにソ連兵によって拉致されてしまう。
一方、高石班の残る真岡郵便局は、平屋建ての本館と、2階建ての別館があったけれど、本館は艦砲射撃で破壊され、そこにいた全員が死亡。
高石班がいる別館だけがからくも残っています。
そして、そこに11名の女子電話交換手が取り残された。
彼女たちは、ソ連の攻撃が始まってからも、各方面からの電話交換業務を1時間以上もし続けます。
しかし、はじめのうち遠くにあったソ連兵の銃撃の音が、どんどん間近に迫ってくる。
もはやこれまで、と悟ったとき、彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送ります。
「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」
そして、11名全員で、足を縛り、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを一斉に口にした。
ソ連兵が電話交換室に乱入してきたとき、そこに裾が乱れないように足を縛り、きれいに並んで死んでいる11名の乙女たちの姿があった。
その凄惨さに、さしものソ連兵にも人の心が息を吹き返します。
ひとりひとりの状態を丹念に調べ、まだ息のあった女性二人を救出する。
残りの9名は、そのまま還らぬ人となっています。
このことから、戦後、アホな学者などが、真岡郵便局の女性たちは、何も死を選ぶ必要がなかった。なぜなら2名の女性は、ソ連兵によって救助され、命を永らえているではないか、彼らは悪魔ではない、などといい加減な議論をしている者もいるそうです。
そういう学者たちは、通化事件その他、満蒙で起こった事件に敢えて眼をつぶっているだけのことです。
ロシア人にとって強姦は戦利品のようなものです。
ただし、彼らは生きている者しか強姦しない。
これに対し、朝鮮人は平気で屍姦をするし、支那人は強姦後に性器をえぐり取るなど、およそ人の振る舞いとは思えない残酷さを発揮する。
青酸カリを飲んで、仮死状態になっている女性では、ソ連兵にとっては戦利品となりえなかったというだけ、というのが実際の話です。
いささか残酷なことを書き過ぎているように思われるかもしれないけれど、それが事実です。
ちなみに、大正9年5月に、いまではロシアのニコライエフスクと名前を変えた尼港で起こった尼港事件では、露・支・韓人の混合パルチザンが、日本人の民間人121名を殺害しています。
ここでは、日本人は生きたまま両目を抉り取られ、5本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されて殺された。
そして金歯があるものは、生きたまま顎(あご)から顔面を裂かれて、金歯を抜き取られ、女は裸にされ、死ぬまで(あるいは死後さえも)何度も凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されています。
このとき、酸鼻をきわめた現場の壁には、血痕や毛のついた皮膚などがこびりついています。
≪参考:尼港事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-542.html
こういう危険が間近に迫ったとき、真岡郵便局がとった自害という方法以外に、彼女たちにとって、人としての尊厳を守るための方法に、他にどういう選択肢があったというのでしょうか。
彼女たちのご冥福を祈り、昭和天皇と香淳皇后は、御製を残されています。
【昭和天皇 御歌】
樺太に命を捨てし たおやめの
心思えば 胸せまりくる
【香淳皇后陛下 御歌】
樺太につゆと消えたる おとめらの
みたまやすかれと ただいのりぬる
真岡郵便局でお亡くなりになった九名の乙女たちです。
可香谷シゲ 23歳(主事補)
高石ミキ 24歳
渡辺照 17歳
松崎みどり 17歳
沢田きみ 18歳
吉田八重子 21歳
高城淑子 19歳
伊藤千枝 22歳
志賀晴代 22歳
~~~~~~~~~~~~
【碑文】
8月20日、ソ連軍が真岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった9人の乙女らは、死をもって己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険。
今はこれまでと死の交換台に向かい
「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
の言葉を残して、静かに青酸カリを飲み、夢多き若き花の命を絶ち、職に殉じた。
~~~~~~~~~~~~
樺太でお亡くなりになった皆様のご冥福をお祈りいたします。
【参考】≪映画「氷雪の門」オフィシャルサイト≫
http://hyosetsu.com/index.html
映画「氷雪の門」(1/13)
http://youtu.be/f4aSf9XEITI