核保有三原則。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





yohkan様のブログ・愛国画報FromLA より。




核兵器持って、作って、持ち込んで!

1945年8月6日、米軍の爆撃機が「新型爆弾」を投下して、広島市を焼き尽くした。直後に現地調査に駆けつけたのが仁科芳雄博士で、被害状況を一目見るや、コレは原爆だと断定した。はじめて使用された新型爆弾なのにそれが判ったのは、仁科博士こそ、わが国における原爆開発の父だったからだ。

1940年、帝国陸軍に原爆開発を提言したのが仁科博士で、同年、熱拡散法のウラン濃縮 に着手した。1942年、大東亜戦争開戦の年には、海軍でも遠心分離法による原爆開発が始まった。アメリカで始まったマンハッタン計画を開始したのは1943年だから、日本のほうがスタートは早かった。

残念なことには、原爆製造に要する充分なウランが採掘出来なかった。また仁科博士の弟子にあたる湯川秀樹氏や朝永振一郎氏など、飛び切りの秀才を集めながらも、研究体制は僅か20名、開発予算も当時の金額で僅か数千万円だった。同時期に大量のウランを確保し、しかも10万人以上、100億円以上のヒトとカネを注ぎ込んだ米国にあっと云う間に追い抜かれてしまった。

敗戦後、GHQ は日本の原爆研究施設を破壊した。サイクロトロン放射器はわざわざ東京湾 に放棄した。関連資料は全て没収し、幾人かの核科学者をアメリカの研究機関に連れ去った。如何に彼らがわが国の報復を怖れていたか判る。かくして、わが国の原爆研究は消滅した。戦後の原子力開発は、電力など「平和利用」と呼ばれる極めて狭い範囲に限定された。

さて、昨日、「原爆の日」を迎えた広島で、恒例の原爆死没者慰霊式が開かれ、核兵器廃絶が謳われた。地獄の体験を経た被爆国だからこそ、核兵器のない世界を実現する、と云ういつものスローガンだ。しかし「平和への祈り」を唱えたって核兵器は消えてくれない。

再び核攻撃を受ける悲劇を避けたければ、自ら核爆弾を保有して敵を抑止するしかないのは、子供でも判る理屈だ。法律でも条約でもない、過去の首相答弁に過ぎぬ「非核三原則 」など捨て去り、「核保有三原則」をぶち上げるべきではないか。即ち、「核兵器、持って、作って、持ち込んで」だ。




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70年前、現在よりずっと貧しかった時代に、帝国陸海軍と仁科博士をはじめとする優秀な科学者たちは、日本国民の命と国家の誇りや名誉を守るため、核武装に邁進したのだ。あの時はもう一歩及ばなかったが、今なら抑止力足り得る核兵器が製造出来る。さあ、われら国民が「核保有三原則」を提唱しよう。