【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(18)
海底の潜水艇に残されたもの
呉軍港に浮かぶ六号潜水艇。その後海底に沈む悲劇を招いた(第六号潜水艇殉難者遺徳奉賛会提供)
今年4月、海上自衛隊の主力潜水艦「ずいりゅう」が、神奈川県横須賀基地に配備された。「そうりゅう型」と呼ばれる最新鋭艦である。全長84メートルで2950トン、乗員数は65人という偉容だ。そのニュースに、103年前の「潜水艇の悲劇」を知る人は感慨を覚えたに違いない。
悲劇が起きたのは明治43(1910)年4月15日、日露戦争の日本海海戦から5年近くたったときである。潜水艇は「六号艇」とだけ呼ばれていた。全長22メートル、57トンで、潜水艦より小さい潜水艇の中でもより小さかった。
艇長の佐久間勉海軍大尉ら14人を乗せた「六号艇」はこの日朝から、山口県岩国市の沖合2キロばかりの広島湾で、潜水訓練をしていた。ところが予定時間を過ぎた午後になっても浮上してこない。
近くにいて異常に気づいた水雷母艇「歴山丸」が掃海を始め、広島県呉市の呉鎮守府(ちんじゅふ)(海軍の指揮監督機関)も駆逐艦などを急派、必死の捜索を行った。
翌16日午後になりようやく、水深十数メートルの海底で、艇尾を泥に突っ込むようにして沈んでいる「六号艇」を発見した。17日になって起重機を使い引き揚げたが、佐久間艇長をはじめ14人全員の死亡が確認された。
この悲劇を克明に描いた片山利子氏の『職ニ斃(タオ)レシト雖(イエド)モ』(展転社)によれば、「六号艇」が進水したのは、その5年前の明治38年9月だった。
日露戦争開戦間もなく、ロシア艦隊を閉じ込めるための旅順港口封鎖作戦で、海軍は多くの艦艇を失った。その補充と各国の海軍が潜水艇を持ち始めていることから、急にその保有を決める。
37年6月、米国のエレクトリック・ボート社に5隻を発注し、これとは別に2隻の国産化を計画する。潜水艇の設計者として知られる米国のジョン・ホーランドから青写真を入手、神戸川崎造船所の手で建設された。これが六号艇と七号艇だった。つまり「六号艇」は国産第一号の潜水艇だった。
だが国産を急いだせいか「六号艇」は故障の連続で、水素ガスや燃料のガソリンの爆発事故が相次いだ。このため乗組員となることを嫌がる者も多い中で佐久間が艇長となり、訓練を繰り返しながら欠陥を直していく予定だった。
そうした中での沈没事故に、海軍や国民が受けた衝撃は大きかった。だが、引き揚げられた「六号艇」に入った佐久間の上官や同僚たちは別の感動を覚えた。まず14人の殉職の様子である。
それまで、英国など「潜水艇先進国」で、沈没事故が多発していた。引き揚げて見ると、乗組員が我先に脱出しようとしたり、殴り合いしたりした形跡があった。
ところが「六号艇」では佐久間艇長以下、全員が持ち場を離れず最後まで浮上するための努力をしながら息絶えていたのだ。
もうひとつは、司令塔の机の上でずぶ濡れになっていた手帳に認(したた)められていた佐久間の「遺書」である。呼吸が苦しくなっていく中で最後の力をふりしぼって書かれたものだった。
「小官ノ不注意ニヨリ」艇を沈め部下を死なせたことをわびる。艇員一同最後まで職を守り沈着に処したこと、今回の誤りで将来の潜水艇の発展に打撃を与えることを憂え、今後も研究に全力を尽くしてほしいことを記している。
このあと、事故のいきさつや考えるべき原因などを丹念に書き、最後に陛下(明治天皇)に対し、部下の遺族が生活に困窮しないよう懇願までしていた。
常人なら、うろたえるだけという状況だ。その中でこれほど冷静な「遺書」を残したことは、日本だけでなく海外の新聞でも伝えられ、大きな感動を呼んだ。
佐久間は福井県出身で海軍兵学校29期卒業で、日露戦争にも従軍していた。その壮絶な殉職は日露戦争後の国民を勇気づけたばかりでなく、その後の日本の潜水艦開発に大きな力となったことは間違いない。(皿木喜久)
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事故と与謝野晶子
佐久間艇長の行動に感動した歌人、与謝野晶子は佐久間を悼んだ歌12首を詠んだ。「瓦斯(ガス)に酔ひ息ぐるしくも記しおく沈みし艇(ふね)の司令塔にて」「武人(もののふ)のこころ放たず海底の船にありても事とりて死ぬ」などである。
晶子は日露戦争中に出征した弟を思う長詩『君死にたまふこと勿(なか)れ』で、戦後は「反戦歌人」の代表のように言われてきた。しかし当時の批判に自ら答えたように、弟の身を案じただけで、決して反戦思想家ではなかった。佐久間を悼んだ歌もこのことを示している。
世界に感動を残した佐久間勉艇長