疎開で守った「多摩川精機」の技術。
私財投げ打ち故郷・飯田へ。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130730/plt1307300742001-n1.htm
多摩川精機の本社工場=長野県飯田市
1938年、長野県飯田市出身の萩本博市氏が故郷の人々のためにという思いを抱きながら、最初に工場を建てた地が東京都大田区蒲田であったのは、まず東京に故郷の青年を集め将来の幹部社員を育てながら基盤を固めていこうという方針からだった。
そのために「まずは教育」だと、当初の多摩川精機には工場の一部を校舎に仕立てた学校も作られた。「多摩川精機青年学校」として自身の母校である青山師範学校などから講師を招き、社員のハイレベルな学力取得を目指した。
当然、仕事もするため、従業員は昼間は工場、夜間は勉強の生活だったという。生活指導も厳格で、「正義」「勤勉」「向上」をモットーに、立ち居振る舞いから寮の押入れの整頓に至るまで徹底していた。一方で、社員旅行や映画鑑賞などの時間もあり、団結力を養っていったようだ。
しかし、次第に戦局が悪化し、周囲の工場も次々に疎開していくようになった。多摩川精機も移転を余儀なくされる。そこで図らずも、故郷の飯田での工場設立が実現したのである。
疎開を急がねばならないのには理由があった。敵にとっては何としてもたたきたい技術、わが国にとってはどうしても守りたい技術がそこにあったのだ。
1941年12月8日、真珠湾攻撃により開戦となるが、実は博市氏はこの開戦前夜に出撃した特殊潜航艇のジャイロを手掛けていた。この時の乗組員9人は帰らぬ人となったが、米国に与えた衝撃は大きく、狙われる要素は十分にあった。
「まずは気流の調査だ!」
なぜ気流か? 軍需を担うからには疎開先でも攻撃対象になる可能性がある。そのため、最も気流の悪い場所を探したのだ。
地元の元結職人たちが權現山と笠松山の間を見上げて天候を判断していたことから、ここを詳しく調べてみると極めて気流が不安定であることが分かった。山間のまことに辺鄙(へんぴ)な地ではあったが、「ここだ」ということで決定され、工場の設備や資材一式の移転を急いだ。
博市氏はすでに家庭を持っていたが、生活のためのわずかな貯金を全て使い、幼い息子のために作っていた預金通帳も担保に差し出して銀行から融資を受け、とうとう飯田工場を建てたのだ。
そして1945年3月10日、東京大空襲で都市部は火の海となる。蒲田地区は狙い撃ちだった。あの撃沈された特殊潜航艇に搭載されていたジャイロを調べた米軍が、製造元をたたこうとしたとも言われる。これにより蒲田工場は焼失。しかしこの時、すでに多摩川精機は設備そして技術の担い手の全てを飯田に移していた。
■桜林美佐(さくらばやし・みさ) 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「誰も語らなかった防衛産業」(並木書房)、「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)など。