7月25日・廊坊事件。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。



廊坊事件



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いまから76年前になります。
昭和12(1937)年7月25日に、北京近郊にある廊坊駅で、日本軍と蒋介石率いる国民党軍とが衝突する事件がありました。
「廊坊事件(ろうぼうじけん)」です。

この日、北京の南東約50kmにある廊坊駅で、日本軍の軍用通信回線に故障が発生しました。

そこで日本軍は、通信隊の修理班に歩兵1中隊(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)の一部を付けて、あらかじめ国民党側に通知したうえで、通信設備の修理のために、約100名を派遺しました。




部隊が廊坊駅に到着したのが午後4時半です。
そこには、国民党の第38師第132旅、第226団の合計約6000人の兵が駐屯していました。
日本の修理隊の中隊長五ノ井淀之助(ごのいよどのすけ)中尉は、国民党226団に折衝し、「許可を得た上で」廊坊駅内にある日本の通信用電線の修理を開始しました。

するとその修理の真っ只中の午後11時10分、国民党軍が突然、日本の修理隊に銃撃をしてきたのです。
しかも銃撃は、小銃による狙撃だけではありません。
なんと軽機関銃による乱射さえも加わったものでした。

いきなりの国民党軍から発砲されたのです。
それでも「応戦すれば戦闘になるから」と、修理隊の五ノ井隊長は、応戦を禁止し、とりあえず弾が当たらないように身を隠せ、と命令しました。

するとこんどは、廊坊駅北方300mにある国民党の兵営から、銃弾を避けて隠れている日本軍に、迫撃砲による砲火が加えられてきたのです。

こうなると、ほっておいたら全員、犬死です。
五ノ井隊長は、やむを得ず応戦開始を命令しました。
そして同時に、本部に応援を依頼しました。
これが25日の深夜0時頃です。

通報を受けた日本軍(支那駐屯軍)の本部は、慌てて第20師団に救援を命じました。
第20師団は即時、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させました。
さらに26日午前2時30分には、第20師団本体が、廊坊に向かいます。

けれど、深夜です。
鉄道は止まっています。
廊坊駅までは50kmです。
そこを一部はトラック、乗り切らない兵は徒歩で強行軍で廊坊に急行しました。
これだけでもたいへんな苦労です。

夜23時10分に銃撃を受けてから、明け方、救援部隊の第一陣が到着するまで、わずか100名の日本軍の通信施設修理隊は、6000人の支那国民党軍の大軍を相手に奮戦しました。

100人対6000人です。
しかも日中に行軍して、やっと廊坊駅にたどり着いたのです。
修理用の部品や道具、ケーブル類は、たいへんな重さがあります。
その重たい荷物を降ろして、ようやく修理を開始したと思ったら、突然の攻撃です。

時間的に考えれば、朝から仕事をして、夕方から急きょ遠方へ作業に向かうことになり、夜の23時くらいまで残業して仕事をしていたという状況です。
それだけでも、普通なら、もうクタクタです。
ところがそのタイミングで、日本側は銃撃を受けているのです。

以前にも書いたことがありますが、実際に傭兵をしていた方から直接、銃撃戦についてお話を伺ったことがあるのですが、普通、銃撃戦というのは、Ⅰ~2分で終わるものなのだそうです。
それでも感覚的には、1時間くらい銃撃戦が続けられていたような錯覚になる。
それくらい、たいへんな集中力が要求されるのです。

ですから銃撃戦が5分も続いたとなると、感覚的にはまる一日銃撃をしていたくらいの疲労になるそうです。
わずか5分の銃撃戦でさえ、「今日の銃撃は長かったねえ」と、後々まで話草になる。
それほどの極限状態となるのです。
それが、廊坊事件では、明け方近くまで連続した銃撃戦です。
どれだけ厳しい戦いだったか、想像するにあまりあります。

向こうは6000人の大部隊です。
交替しながら休憩もとれたかもしれません。
けれど日本側は、たった100名です。
ずっと戦いの緊張を強いられたのです。

日本軍の司令部は、26日の夜明けとともに、廊坊にむけて航空隊を差し向けました。
航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している。
眼下には、まるでゾンビの大軍のように、支那兵が円状に群がっていたそうです。

「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」
爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものがあったそうです。

「ざけんじゃねえ、コノヤロー!」と操縦士が思ったか、叫んだか。
いまとなってはわかりません。

けれど航空隊のパイロットは、上空から状況を掌握すると、まずは日頃の修練の業で、支那軍の迫撃砲をピンポイントで爆破しました。
そしてあたりにいる支那兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせました。

26日の午前8時、やっと丘の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えました。
一晩中、日本軍に弾を撃ち込んでいた6000人の支那兵は、丘の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えたとたん、算を乱して逃げ出したそうです。

支那兵たちが逃げた先にあるのが、通州です。
そして7月29日には、通州事件が起こったのです。

ちなみに、この廊坊事件について、支那国民党は次のようなステートメントを発表しました。
~~~~~~~~~~
7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、「電話修理」と称して同駅を占拠した。
廊坊を守備していた第38師第13旅の旅長である劉振三は撤退を要求したが、日本軍はそれを拒否した。
26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。
明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。
午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した。
~~~~~~~~~~

いちいちデタラメです。
事前にちゃんと断りをいれて廊坊駅に入ったのに、それを「占拠した」という。
ちゃんと了解をとって通信施設修理を開始したのに、それが「撤退を要求した」とすり替えられる。

実際には午前11時10分に支那国民東軍側から発砲していて、午前0時には迫撃砲まで撃って来たので、やむなく対抗したのに、「午前0時に日本軍から支那に発砲した」と、これまた大嘘です。
そして最後は、日本軍の増援がやってきたので、「撤退した」とはおそれいります。

はっきり言ってしまえば、さんざん挑発して、6000対100という圧倒的優位な状況にあり、しかも不意うちという卑怯な手段を用いながら、日本軍を壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら蜘蛛の子を散らすように、逃げ出したのです。
撤退などと、よく言えたものです。
勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。

そしてその「撤退した」という支那国民党兵が、その3日後に通州で何をしたのか。

事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、支那や共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。
客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。

それを、いかにも正当にみせかけてみせる。
状況のわからない者を、平気で騙そうとする。

みなさんによく覚えていただきたいことは、これは中山恭子先生もよくおっしゃられることですが、
「騙す者と騙される者がいたとき、
 私たち日本人は、騙す方が悪いと考えます。
 けれど世界では、騙される方が悪いと考える人たちの方が、圧倒的に多いのです」

さて、ではなぜ国民党は、廊坊で日本軍を襲撃しようなどと考えたのでしょうか。
また、そもそもどうして日本軍は、そのとき支那にいたのでしょうか。

簡単にこの二つについても述べておこうと思います。

まず、「どうして日本軍が支那にいたのか」です。
昭和12(1937)年当時に、日本軍が支那にいたという事実をもって、日本軍が侵略行為をするために支那に兵を派遣していたという、デタラメのプロパガンタがまかり通っています。

全然違います。

明治33(1900)年に、北京で義和団事件が起こりました。
義和団というのは、それを信仰すれば刀で斬られても死なない身体になれるという、当時の新興宗教団体です。
この新興宗教団体が母体になって、20万の暴徒が、北京の外国人居留区を襲ったのです。
いまでいったら、東京にある各国大使館が、いきなり暴徒によって襲われたみたいなものです。

襲われたのは、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、オーストリア、イタリア、ベルギー、スペイン、オランダ、日本の11カ国です。
日本人、柴五郎大佐(コロネル・シバ)を中心とした勇敢な戦いによって、義和団は鎮圧されますが、この事件をきっかけに、各国が清朝政府との間で、「北京議定書(ぺきんぎていしょ)」を交したのです。

そしてこの議定書に基づいて、日本は各国と同様、民間人居留民保護のために、支那に兵を派遣していました。
ですから、日本が当時支那に兵を派遣していたことは、ちゃんとした国際条約に基づく、正当な行為です。
それを侵略などと呼ぶのは、事実の捏造です。

さらにいえば、この廊坊事件においても、支那国民党側は、迫撃砲まで用意した6000人の大部隊です。
そこを日本軍が「侵略」するのに、どうしてわずか100名なのか。
数の上からも、日本侵略説は明らかに、失当です。

次に、「なぜ国民党が、日本軍を襲撃しようとしたのか」です。

実はこの廊坊事件が起こった同じ月の7月7日、北京郊外の盧溝橋で、国民党軍と日本軍の衝突事件が起こっています。
この事件は、その後の史料によって、日本軍と国民党軍を争わせることを目的として、支那共産党が仕組んだということが明らかになっています。

ところがこの盧溝橋事件も、兵力差は、国民党軍は15万の大軍、日本側はわずか5600名です。日本側に争そおうなどという意思はまったくありません。

ですから、共産党の暗躍で、両軍は一触即発の状況にまで追いつめられはしたものの、7月11日は現地で停戦協定が成立し、しかもその協定の中で、国民党側は、自分たちが悪かったと率直に認めているのです。

盧溝橋事件について、この「現地停戦協定」が結ばれていたことは、昨今の左翼系の近代史観では、まるっきり無視されています。
そして支那事変の始まりは、まさにこの盧溝橋事件が発端だったなどと、まことしやかな嘘がまかり通っています。

しかし、盧溝橋事件では、間違いなく、事件勃発の4日後に、この「現地停戦協定」が結ばれ、事件は、ここでいったん解決しているのです。
念のため、原文を次ぎに掲げておきます。

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【松井・秦徳純停戦協定 (盧溝橋事件現地協定)】
第二九軍代表ハ日本軍二対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス
中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ盧溝橋城廓及龍王廟二軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス
本事件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導二胚胎スルコト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且ツ取締ヲ徹底ス
以上各項ハ悉ク之ヲ承諾ス
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この当時、支那共産党は、支那国民党軍によって、ほぼ壊滅寸前まで追いつめられていました。
そこで支那共産党は、なんとかして国民党と日本軍を戦わせることで、再起を図ろうとあらゆる工作をしかけていました。

そのひとつが、まさに盧溝橋事件だったわけですが、これは現地であっという間に解決に至ってしまった。
そこで、次の手だてとして仕組まれたのが、7月25日の廊坊事件だったわけです。

けれど、ここでも、共産党の目論みは、簡単に潰えてしまいました。
そこで、さらに日本軍を挑発するために仕掛けられたのが、7月29日の通州事件だったわけです。

通州事件については、また後日、記載します。

ただ、今日、この廊坊事件を通じてはっきりと申上げたいのは、世界には、このように意図的に乱を招こうと画策するとんでもない害虫が存在する、ということです。

そして今年2013年7月14日には、中国海軍の艦艇5隻が北海道とサハリンの間の宗谷海峡を初めて通過し、また今月24日には、中国軍哨戒機Y8が、沖縄本島と宮古島の間を通過して太平洋に向かっています。
沖縄本島と宮古島の間を通過したというのは、明らかな日本の領空侵犯行為です。
他人の家の中に、武器を持って入ってきたのです。
即時、迎撃され、撃ち落とされても文句は言えない。
つまり、明らかな日本に対する挑発行為です。

世界には、このように、武力にものを言わせて、他国に露骨な挑発行為をするとんでもない国が、現に存在するのだ、ということを、私たちは忘れてはならないと思います。

そういう挑発行為がエスカレートした事例としては、明治19年の「長崎事件」があります。
「長崎事件」については、明後日の記事で詳述したいと思います。

私たちは、私たちの先人達が、大東亜戦争だけでなく、支那事変においても、どれだけの苦労をして戦ってきたのかを知る必要があります。

廊坊事件もそのひとつですが、常に味方を10倍する圧倒的な軍勢を前にして、私たちの先人達は勇気をもって戦いました。
そして同時に、可能な限りの我慢をしました。

盧溝橋、廊坊、通州、上海それぞれの事件において、日本は、断固として徹底した報復を行うという選択もできたはずです。
それこそ通州事件で日本側が受けた仕打ちを、10倍にして支那にお返しし、全支那人民を恐怖のルツボに陥れることもできたはずです。
そして、そうしていれば、日本は被害を防げた事でしょう。
けれど日本は、それをしませんでした。

このことは、先人達ほどの強いものではありませんが、私自身、とてもよくわかる気がするのです。
ものすごく小さな話になってしまって申し訳ないのですが、何年か前、私はこのブログを通じて、たいへんなバッシングに遭いました。
私を叩いた連中は、なんと私が暴力団員だと言って囃し立てました。

けれど、もし私が本当に暴力団員だったら、彼らは恐ろしくて、そんな囃し立てたりということをしていません。
なぜなら、ホンモノの暴力団員を前に、ネットイジメのような集団暴行をすれば、必ず報復され、おそらく彼らのイノチは、すでにこの世にない可能性があるからです(笑)。
つまり彼らは、私が絶対に暴力団員などではない、と確信をもって思っていたからこそ、私を暴力団員だといって、囃し立てたわけです。

たとえは悪いですが、それと同じだと思うのです。
なぜ、支那国民党や支那共産党が、支那に派兵していた国は、日本以外に10カ国もあったのに、日本だけを戦乱に巻き込もうとしたのか。

それは、日本なら、徹底報復や殲滅的報復、あるいは、加害者となった共産党員らに対する非道な拷問を、絶対に加えないと、彼らが確信をもっていた、つまり日本軍がそれだけ、彼らから見ても「信頼に足る」存在だったからこそ、日本を挑発し、日本人に非道を働き、長引く支那事変を彼らはひき起こしたのです。

こういう歴史の、いわばパラドックスを、私たちはもういちど、しっかりと見直してみるべきといえるのではないでしょうか。

歴史は繰り返すといいますが、英霊たちへの鎮魂というのは、静謐ばかりを意味しません。
「彼らの苦しみを経験を後の世にしっかりと活かす」
そして二度と、同じ思いをすることがないようにする。
それこそが、もっとも大切な鎮魂だと思うのです。