黒沢登幾の寺子屋
黒沢登幾(くろさわとき)のことを書いてみようと思います。
日本で最初に小学校の教師になった女性であり、また、高い志(こころざし)で、時代を動かした女性でもあります。
「日本で最初に小学校の教師になった女性」という表現には、すこし注釈が必要かもしれません。
明治に入ってから学制がひかれ、全国統一的な小中学校ができたのですが、実はその前の日本には、こうした全国統一的な学校制度はありませんでした。
子供達の教育は寺子屋が担ったのですが、この寺子屋のおかげで江戸時代の日本人の識字率が9割近くもあったということは、みなさまご存知の通りです。
このことには、さらに注釈が必要なのですが、この文字の読み書きができるということについては、江戸時代の人たちは、草書体や行書体で書かれた筆字で、「読み」かつ「書く」ことができたわけです。
いまの私たちは、活字ばかり使用しています。
筆で書かれた書となると、実際のところ読めない人が多い。
ということは、江戸時代のレベルで言ったら、現代日本人の識字率は、果たして何%くらいになるのでしょうか。
寺子屋の教科書
この寺子屋ですが、寺子屋の先生は「お師匠さん」と呼ばれました。
生徒は「寺子(てらこ)」です。
お師匠さんは、だいたい6割が男性、4割が女性でした。
以外と女性のお師匠さんが多かったのです。
そういう意味では、明治に入ってからの学制に基づく小学校教師でも、黒沢登幾に限らず、もっとたくさんの女性教師がいてもいいように思うのですが、明治初期の一時期は、教師には、男性を多く登用しました。
これには理由があって、武士が失業して仕事にあぶれたたため、雇用創出という意味で、男性教師を積極採用したことにもよるようです。
つまり、一家の大黒柱とならなければならない人に、まず仕事を与えようとしたわけです。
ですからこれは、男尊女卑などという思想的理由とはまったく異なります。
あくまで経済的社会的合理性のうえから、そのようにしただけのことです。
ただし、学制の布告は、教師に男女の区別はないとしています。
現に、公的な学校以外の私塾では、昭和初期まで女性が塾長を勤める私塾はたくさんありますし、いぜんご紹介しましたが、頭山満翁を生んだ通称「にんじん畑塾」など、まるで女侠客のような女性塾長です。
さて、黒沢登幾に話をもどします。
黒沢登幾は、文化3(1807)年12月21日に、常陸国東茨城郡錫高野村、いまでいうところの、茨城県東茨城郡城里町で生まれました。
父は、将吉、母は総子で、登幾は長女です。
黒沢家は、もともと藤原一族の末裔で、一時は大名であったこともある家柄です。
江戸時代を通じて代々、修験道場と子供たち向けの寺子屋を営んで生計を立てていました。
ですからいわば教育家庭で育った登幾は、幼いころから学問好きで、たいへんに成績もよかったようです。
頭が良くて男勝(おとこまさり)の登幾は、19歳でお嫁に行き、20歳で長女久子、23歳で次女照子を生むのですが、登幾が24歳のときに、旦那がポックリと逝ってしまいます。
登幾は翌年、秋の収穫を終えたところで、2人の子を連れて実家に帰っています。
ところが登幾の実家の父と、祖父が、相次いで他界してしまう。
これも珍しいことではありません。
明治中期頃の日本人の平均寿命は、44~45歳です。
こうして登幾は、実家の修験道士を育てる私塾と、寺子屋のあとを引き継ぐわけです。
ところが、大人相手の修験道道場は、さすがに24歳の若い娘さんが師匠ということでは、なかなか、そのふさわしさというか、貫禄がありません。
また、子供向けの寺子屋にしても、まだ2歳にも満たない幼い二人の子の面倒をみながらでは、現実の問題として、授業はうまくまわりません。
そんなことから、結局登幾は修験道場も寺子屋も閉鎖せざるを得なり、やむなく登幾は、行商をはじめています。
江戸で、くしや、かんざしなどを仕入れ、これを行商して歩くのです。
記録によると、この時代、登幾は、なんと群馬県草津の湯元温泉方面まで、重たい荷物を抱えて行商に出向いています。
当時のことです。
もちろん、自動車も宅配もありません。
荷物は全部背中に担いで歩くわけです。
特に女性の場合、男性のように荷物を背負って着物の裾をまくり、足を出して歩くというわけにいきません。さぞかし大変であったろうと思います。
けれど、行商のおばさんでありながらも、知的で明るい登幾は、行く先々でお客さんにめぐまれ、結局登幾は、この行商の仕事を、なんと20年以上も続けながら、子供たちを育て、母親を養っています。
さて、嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船がやってきました。
日本はその翌年、日米和親条約を締結しています。
さらに大老・井伊直弼は、安政5(1858)年に、天皇の勅許を得ずに、日米修好通商条約を締結します。
これを知った水戸藩主・徳川斉昭は激怒して、江戸城に緊急登城するのですが、この緊急登城と、将軍への緊急の面会要求のことを「不時登城」といいます。
あってはならないことです。
この「不時登城」で、徳川斉昭は、将軍の面前で、大老、井伊直弼を激しく面罵するのですが、井伊直弼は、かわりに徳川斉昭を「不時登城」の罪に問い、なんと「重謹慎」処分を科してしまいます。
徳川斉昭は、仮にも徳川御三家の一角です。
方や井伊直弼は、大老職にあるとはいえ、彦根藩主です。
水戸藩の若手武士たちは、大挙して江戸城に押しかけ、「奸族斬るべし!」と、井伊直弼の命を奪おうとします。
これに対して、井伊直弼が行ったのが、勤皇派そのものを一網打尽にする「安政の大獄」です。
このころ、登幾は茨城郡錫高野村にいました。
ここは、れっきとした水戸藩です。
その年、54歳になる登幾は、なんとかして斉昭公の謹慎解除を求め、日本国の安泰を図らなければならないと真剣に悩み、女ならばこそできる何か方法があるはずだ、と登幾は考えます。
そして彼女は、なんと孝明天皇に、斉昭公の謹慎解除を直訴しようと思い立つのです。
これは、捕まれば死罪です。
たいへんな行為です。
それでも、登幾は、やると決めたら、やる。
彼女は、単身、京に向かいました。
登幾は、決して楽な生活をしていたわけではありません。
食うのがやっとの行商暮らしです。
蓄えがあるわけでもありません。
それでも彼女を動かしたもの、それは日本を守りたい、そのために斉昭公をお守りしたいという熱情だけです。
京に着いた彼女は、なんとかして公家のつてを探し求め、孝明天皇に宛てて、一首の和歌を献上することに成功します。
その和歌です。
~~~~~~~~~~
よろつ代を
照らす光の ます鏡
さやかにうつす
しづが真心
~~~~~~~~~~
水戸からわざわざひとりの女性が訪ねてきて、現代の世相を真心という鏡に映しています、という歌です。
「しづが真心」は、静御前の「しづ」と、賤い下賤の身の女性の「賤」をひっかけています。
わざわざ水戸から今日へ、女の身で上ってきたのですから、写っている光は、時からみて斉昭公のことでしょう。
その光を、民衆の真心が求めているという歌です。
歌に込められた登幾のメッセージは明快です。
あっという間に公家や孝明天皇に知れ渡る。
実はこれが大騒動になります。
お上に対する直訴は御法度です。
その直訴を、なんと女性が、あろうことか天子様に対して行ったわけです。
ただ、見方を変えれば、ただ歌を詠んだだけともいえます。
その歌は、直訴か文芸か。
直訴とすれば、磷付(はりつけ)獄門晒し首だけど、中味はただの歌です。
けれど、歌にしては、あまりにも政治的メッセージが濃厚です。
この微妙さがある意味、たいへん高く評価され、なんと登幾のメッセージは、たしかに孝明天皇にまで届けられてしまうのです。
当然、幕府の目付役たちにも知れ渡たる。
登幾は、幕府の役人によって大阪で捕えられました。
そして厳しい尋問を受けました。
斉昭謹慎解除の訴えが、登幾の単独行動ではなく、斉昭夫人である登美の宮の密使としての行動ではないかとまで疑われてしまうわけです。
尋問は凄惨を極めました。
石抱きといって、まな板のようなデコボコした台の上に正座で座らされ、重たい石を膝に乗せられるといった、拷問まで受けたようです。
けれど、登幾は白状しない。
白状できるはずありません。
登美の宮とは何の面識もない。
行動はあくまでも登幾の単独行動です。
登幾は大阪でまる二か月取り調べを受けたのち、江戸に送られ、さらに厳しい尋問を受けることになりました。
登幾は、重罪政治犯として、籐丸篭(とうまるかご:罪人を護送するための専用カゴ)に乗せられ、江戸まで護送されました。
すると途中の宿場町でも街道でも、女性の重罪人をひとめ見ようと、大勢の見物者が詰め掛けました。
ここもすこし解説が必要です。
江戸時代というのは、ものすごく犯罪の少ない時代でした。
幕末になって、浪士たちによる血なまぐさい事件が頻発するようになりましたが、それまで、たとえば将軍吉宗がいた享保年間など、伝馬町の牢屋に入れられた人自体がゼロです。
なぜここまで犯罪がすくなかったかといえば、江戸時代の日本人の徳性が高かったからで、この犯罪発生割合と民度徳性の高低は、ものすごく相関関係にあるものです。
昨今の日本では、犯罪はあってあたりまえというくらい多発していますが、では日本人の民度や徳性がそれだけ下がったのかというと、東日本大震災に明らかなように、実は日本人そのものの徳性は、さほど下がっていない。
にもかかわらず、これだけ犯罪が多発しているのは、要するに民度、徳性ともに極端に低い人たちが、通名などで日本人になりすまして、好き放題犯罪をしでかしているからです。
実際、刑務所収監者のほとんどは、在日外国人、在日永住者、在日帰化人です。
私たちは、この現実をしっかりと見据えなければならないと思います。
黒沢登幾の籐丸篭での江戸護送は、そういう意味で、そもそも街道筋の人たちは、籐丸篭自体、見たことがない。
まして女性の犯罪者なんてことになったら、前代未聞、驚天動地!というわけで、見物の野次馬は、まさに押せや押せやの大盛況になったわけです。
江戸に着いた登幾は、伝馬町の獄舎に入れられました。
先客がたくさんいます。
そのなかのひとりが吉田松陰です。
河合継之助もいます。
江戸でも登幾に対して厳しい取り調べがなされました。
このお取り調べは、多分に政治的なもので、事実があろうがなかろうが、基本、打ち首または切腹のお沙汰を前提としたものです。
ところが登幾は、いわゆる攘夷の志士ではありません。
まして歌を詠んだだけです。
これは幕府としても、罰しにくい。
幕府はついに、登幾の言葉を容れ、判決を言い渡します。
判決内容は、江戸日本橋から五里四方と、常陸国(水戸藩)への立ち入り禁止、というものでした。つまり自分の家に帰れない。
江戸でかんざしを仕入れて行商して生計を得ていたのです。
これでは、生計そのものがなりたたない。
ひらたくいえば、死ねと宣告されたようなものです。
やむなく登幾は、栃木県茂木町に仮住まいをするのですが、ほどなくて万延元(1860)年3月3日、井伊直弼大老が江戸城桜田門の外で、水戸浪士の襲撃を受けて亡くなります。
いま、警視庁が建っているあたりです。
これで幕府内に政権交替が起こり、登幾は無罪放免となり、この年の11月には、晴れて錫高野村の実家に帰っています。
とことが、こうなると水戸藩では、単身、ミカドにまで直訴に及んだ登幾は、英雄です。
女だからといって、そのままにしておくのはもったいないと、なんと登幾に、家業の寺子屋の再興話がもちかけられる。
そして父の代には、15~6人だった門人(生徒)が、登幾が再興した寺子屋では、なんと生徒数が80名を超す大盛況となります。
その登幾のもとに、錫高野村の村長から、小学校の教師をしてくれないかともちかけられたのが、明治5(1872)年のことです。
この年、明治新政府から新たな「学制」が発表され、全国に小学校が置かれることになったのです。
この明治5年の「学制」では、「小学教員ハ男女ヲ論セス」となっています。
つまり女性でも、教員になれるとしてあります。
男女同権なんて、言葉さえもなかった時代ですが、明治初期においても、我が国では、教職に男女の別を設けていなかったのです。
これは、世界でもめずらしいことだろうと思います。
錫高野村は、登幾の寺子屋を、そのまま小学校とすると決めます。
登幾の自宅の寺子屋が、江戸270年を経て、明治6(1873)年5月、正式に村立小学校となったのです。
このとき、登幾、68歳でした。
彼女は「日本で最初の小学校女性教師」となったのです。
登幾は、この学校で漢学を担当しました。
そして一年間、ここで教職を勤めたあと、翌年、近くに小学校舎が新築されたのを機会に、高齢を理由に、学校教師を辞任しました。
ところが・・・ここがおもしろいところです。
登幾は辞任したはずなのに、教えを請う生徒があとをたたないのです。
このため、一時は、公式な小学校よりも、登幾のいる元の小学校の方が、生徒数が多いなんていう事態まで起きています。
結局、登幾は、明治23(1890)年、85歳の高齢で亡くなるまで、自宅の私塾で、青少年に教鞭をとり続けました。
さて、登幾が歌を献上した孝明天皇は、明治天皇の父親です。
混乱の時代の中にあって、父に素晴らしい歌を献上した黒沢登幾に、明治天皇は、毎年10石の米を授けました。
陛下は、ちゃんと見ておいでなのです。
さて、未成年の頃の登幾は、家運もよく、頭もよく、学問もよくできる素晴らしい才女でした。
しかし大人になった登幾を待っていたのは、夫に先立たれ、女手一つで二人の子を育てるというたいへんな境涯でした。
そしてさらには、登幾から教育者としての地位も奪い、20年の長きにわたって、過剰な肉体労働を強い、体力を使い果たさせ、貧乏な暮らしの中で、餓えに苦しませ、その身を極貧暮らしにまで追い落すというものでした。
そして、意を決した京都行きでは、登幾の身柄は拘束され、拷問を受けたのみならず、籐丸篭で護送され、ようやく放免されても、家に帰らせてもらえない。
老いた母の顔も見れない、娘たちにも会えないという暮らしでした。
ところが、実に不思議なものです。
天は、最後には、登幾に、本来の教育者としての地位を与え、しかも天子様(天皇陛下)から、直接御米をいただけるという処遇を受けるようになったのです。
なぜでしょうか。
孟子の言葉に、「天の将に大任を是の人に降さんとするや」というものがあります。
天の将に大任を是の人に降さんとするや
必ず先づその心志(しんし)を苦しめ
その筋骨を労し
その体膚(たいひ)を餓やし
その身を空乏し
行ひその為すところに払乱せしむ。
というのです。
なぜそんなことを天がするかといえば、それは、大任を得た人が、
「心を動かし、性を忍び
その能はざる所を曾益せしむる所以なり」
と書かれています。
要するに、黒沢登幾は、20年という長きにわたり、天から薫陶を受け続けたわけです。
そしれそれだけの長い期間、行商人に身をやつしながらも、登幾は本来の教育者としての自覚と誇りと矜持を保ち続けたわけです。
そして最後に天は、登幾に、我が国初の女性小学校教師という役割を、与えています。
見えない世界のことは、私にもよくわかりません。
ただ、ひとついえることは、天はその人に、「絶対無理!乗り越えられない!」としか思えないような試練を与える、ということです。
いまの日本には、悩んだり、苦しんだりしている人はたくさんおいでだと思います。
黒沢登幾は、極限まで追いつめられ、そんな状態を20年も続けたのです。
けれど、あきらめない。くじけない。
スーパーマンや、バットマンなど、アメリカン・ヒーローは、はじめから全てを持っています。
三国志の関羽や張飛ははじめから強く、あるいは諸葛孔明は最初から天才です。
けれど日本のヒーローは、オオクニヌシにせよ、スサノオにせよ、アマテラスにせよ、神様自体が、最初は不完全で、いじめを受けたりしながら、様々な試練を経て、成長していきます。
牛若丸だって、カラス天狗に訓練を受けて、そこではじめて強くなる。
どんなに苦しくても、笑顔で顔晴る。
ただしい道を行く。
途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに顔晴る。
それが日本人のすごさなのだと思います。
生徒は「寺子(てらこ)」です。
お師匠さんは、だいたい6割が男性、4割が女性でした。
以外と女性のお師匠さんが多かったのです。
そういう意味では、明治に入ってからの学制に基づく小学校教師でも、黒沢登幾に限らず、もっとたくさんの女性教師がいてもいいように思うのですが、明治初期の一時期は、教師には、男性を多く登用しました。
これには理由があって、武士が失業して仕事にあぶれたたため、雇用創出という意味で、男性教師を積極採用したことにもよるようです。
つまり、一家の大黒柱とならなければならない人に、まず仕事を与えようとしたわけです。
ですからこれは、男尊女卑などという思想的理由とはまったく異なります。
あくまで経済的社会的合理性のうえから、そのようにしただけのことです。
ただし、学制の布告は、教師に男女の区別はないとしています。
現に、公的な学校以外の私塾では、昭和初期まで女性が塾長を勤める私塾はたくさんありますし、いぜんご紹介しましたが、頭山満翁を生んだ通称「にんじん畑塾」など、まるで女侠客のような女性塾長です。
さて、黒沢登幾に話をもどします。
黒沢登幾は、文化3(1807)年12月21日に、常陸国東茨城郡錫高野村、いまでいうところの、茨城県東茨城郡城里町で生まれました。
父は、将吉、母は総子で、登幾は長女です。
黒沢家は、もともと藤原一族の末裔で、一時は大名であったこともある家柄です。
江戸時代を通じて代々、修験道場と子供たち向けの寺子屋を営んで生計を立てていました。
ですからいわば教育家庭で育った登幾は、幼いころから学問好きで、たいへんに成績もよかったようです。
頭が良くて男勝(おとこまさり)の登幾は、19歳でお嫁に行き、20歳で長女久子、23歳で次女照子を生むのですが、登幾が24歳のときに、旦那がポックリと逝ってしまいます。
登幾は翌年、秋の収穫を終えたところで、2人の子を連れて実家に帰っています。
ところが登幾の実家の父と、祖父が、相次いで他界してしまう。
これも珍しいことではありません。
明治中期頃の日本人の平均寿命は、44~45歳です。
こうして登幾は、実家の修験道士を育てる私塾と、寺子屋のあとを引き継ぐわけです。
ところが、大人相手の修験道道場は、さすがに24歳の若い娘さんが師匠ということでは、なかなか、そのふさわしさというか、貫禄がありません。
また、子供向けの寺子屋にしても、まだ2歳にも満たない幼い二人の子の面倒をみながらでは、現実の問題として、授業はうまくまわりません。
そんなことから、結局登幾は修験道場も寺子屋も閉鎖せざるを得なり、やむなく登幾は、行商をはじめています。
江戸で、くしや、かんざしなどを仕入れ、これを行商して歩くのです。
記録によると、この時代、登幾は、なんと群馬県草津の湯元温泉方面まで、重たい荷物を抱えて行商に出向いています。
当時のことです。
もちろん、自動車も宅配もありません。
荷物は全部背中に担いで歩くわけです。
特に女性の場合、男性のように荷物を背負って着物の裾をまくり、足を出して歩くというわけにいきません。さぞかし大変であったろうと思います。
けれど、行商のおばさんでありながらも、知的で明るい登幾は、行く先々でお客さんにめぐまれ、結局登幾は、この行商の仕事を、なんと20年以上も続けながら、子供たちを育て、母親を養っています。
さて、嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船がやってきました。
日本はその翌年、日米和親条約を締結しています。
さらに大老・井伊直弼は、安政5(1858)年に、天皇の勅許を得ずに、日米修好通商条約を締結します。
これを知った水戸藩主・徳川斉昭は激怒して、江戸城に緊急登城するのですが、この緊急登城と、将軍への緊急の面会要求のことを「不時登城」といいます。
あってはならないことです。
この「不時登城」で、徳川斉昭は、将軍の面前で、大老、井伊直弼を激しく面罵するのですが、井伊直弼は、かわりに徳川斉昭を「不時登城」の罪に問い、なんと「重謹慎」処分を科してしまいます。
徳川斉昭は、仮にも徳川御三家の一角です。
方や井伊直弼は、大老職にあるとはいえ、彦根藩主です。
水戸藩の若手武士たちは、大挙して江戸城に押しかけ、「奸族斬るべし!」と、井伊直弼の命を奪おうとします。
これに対して、井伊直弼が行ったのが、勤皇派そのものを一網打尽にする「安政の大獄」です。
このころ、登幾は茨城郡錫高野村にいました。
ここは、れっきとした水戸藩です。
その年、54歳になる登幾は、なんとかして斉昭公の謹慎解除を求め、日本国の安泰を図らなければならないと真剣に悩み、女ならばこそできる何か方法があるはずだ、と登幾は考えます。
そして彼女は、なんと孝明天皇に、斉昭公の謹慎解除を直訴しようと思い立つのです。
これは、捕まれば死罪です。
たいへんな行為です。
それでも、登幾は、やると決めたら、やる。
彼女は、単身、京に向かいました。
登幾は、決して楽な生活をしていたわけではありません。
食うのがやっとの行商暮らしです。
蓄えがあるわけでもありません。
それでも彼女を動かしたもの、それは日本を守りたい、そのために斉昭公をお守りしたいという熱情だけです。
京に着いた彼女は、なんとかして公家のつてを探し求め、孝明天皇に宛てて、一首の和歌を献上することに成功します。
その和歌です。
~~~~~~~~~~
よろつ代を
照らす光の ます鏡
さやかにうつす
しづが真心
~~~~~~~~~~
水戸からわざわざひとりの女性が訪ねてきて、現代の世相を真心という鏡に映しています、という歌です。
「しづが真心」は、静御前の「しづ」と、賤い下賤の身の女性の「賤」をひっかけています。
わざわざ水戸から今日へ、女の身で上ってきたのですから、写っている光は、時からみて斉昭公のことでしょう。
その光を、民衆の真心が求めているという歌です。
歌に込められた登幾のメッセージは明快です。
あっという間に公家や孝明天皇に知れ渡る。
実はこれが大騒動になります。
お上に対する直訴は御法度です。
その直訴を、なんと女性が、あろうことか天子様に対して行ったわけです。
ただ、見方を変えれば、ただ歌を詠んだだけともいえます。
その歌は、直訴か文芸か。
直訴とすれば、磷付(はりつけ)獄門晒し首だけど、中味はただの歌です。
けれど、歌にしては、あまりにも政治的メッセージが濃厚です。
この微妙さがある意味、たいへん高く評価され、なんと登幾のメッセージは、たしかに孝明天皇にまで届けられてしまうのです。
当然、幕府の目付役たちにも知れ渡たる。
登幾は、幕府の役人によって大阪で捕えられました。
そして厳しい尋問を受けました。
斉昭謹慎解除の訴えが、登幾の単独行動ではなく、斉昭夫人である登美の宮の密使としての行動ではないかとまで疑われてしまうわけです。
尋問は凄惨を極めました。
石抱きといって、まな板のようなデコボコした台の上に正座で座らされ、重たい石を膝に乗せられるといった、拷問まで受けたようです。
けれど、登幾は白状しない。
白状できるはずありません。
登美の宮とは何の面識もない。
行動はあくまでも登幾の単独行動です。
登幾は大阪でまる二か月取り調べを受けたのち、江戸に送られ、さらに厳しい尋問を受けることになりました。
登幾は、重罪政治犯として、籐丸篭(とうまるかご:罪人を護送するための専用カゴ)に乗せられ、江戸まで護送されました。
すると途中の宿場町でも街道でも、女性の重罪人をひとめ見ようと、大勢の見物者が詰め掛けました。
ここもすこし解説が必要です。
江戸時代というのは、ものすごく犯罪の少ない時代でした。
幕末になって、浪士たちによる血なまぐさい事件が頻発するようになりましたが、それまで、たとえば将軍吉宗がいた享保年間など、伝馬町の牢屋に入れられた人自体がゼロです。
なぜここまで犯罪がすくなかったかといえば、江戸時代の日本人の徳性が高かったからで、この犯罪発生割合と民度徳性の高低は、ものすごく相関関係にあるものです。
昨今の日本では、犯罪はあってあたりまえというくらい多発していますが、では日本人の民度や徳性がそれだけ下がったのかというと、東日本大震災に明らかなように、実は日本人そのものの徳性は、さほど下がっていない。
にもかかわらず、これだけ犯罪が多発しているのは、要するに民度、徳性ともに極端に低い人たちが、通名などで日本人になりすまして、好き放題犯罪をしでかしているからです。
実際、刑務所収監者のほとんどは、在日外国人、在日永住者、在日帰化人です。
私たちは、この現実をしっかりと見据えなければならないと思います。
黒沢登幾の籐丸篭での江戸護送は、そういう意味で、そもそも街道筋の人たちは、籐丸篭自体、見たことがない。
まして女性の犯罪者なんてことになったら、前代未聞、驚天動地!というわけで、見物の野次馬は、まさに押せや押せやの大盛況になったわけです。
江戸に着いた登幾は、伝馬町の獄舎に入れられました。
先客がたくさんいます。
そのなかのひとりが吉田松陰です。
河合継之助もいます。
江戸でも登幾に対して厳しい取り調べがなされました。
このお取り調べは、多分に政治的なもので、事実があろうがなかろうが、基本、打ち首または切腹のお沙汰を前提としたものです。
ところが登幾は、いわゆる攘夷の志士ではありません。
まして歌を詠んだだけです。
これは幕府としても、罰しにくい。
幕府はついに、登幾の言葉を容れ、判決を言い渡します。
判決内容は、江戸日本橋から五里四方と、常陸国(水戸藩)への立ち入り禁止、というものでした。つまり自分の家に帰れない。
江戸でかんざしを仕入れて行商して生計を得ていたのです。
これでは、生計そのものがなりたたない。
ひらたくいえば、死ねと宣告されたようなものです。
やむなく登幾は、栃木県茂木町に仮住まいをするのですが、ほどなくて万延元(1860)年3月3日、井伊直弼大老が江戸城桜田門の外で、水戸浪士の襲撃を受けて亡くなります。
いま、警視庁が建っているあたりです。
これで幕府内に政権交替が起こり、登幾は無罪放免となり、この年の11月には、晴れて錫高野村の実家に帰っています。
とことが、こうなると水戸藩では、単身、ミカドにまで直訴に及んだ登幾は、英雄です。
女だからといって、そのままにしておくのはもったいないと、なんと登幾に、家業の寺子屋の再興話がもちかけられる。
そして父の代には、15~6人だった門人(生徒)が、登幾が再興した寺子屋では、なんと生徒数が80名を超す大盛況となります。
その登幾のもとに、錫高野村の村長から、小学校の教師をしてくれないかともちかけられたのが、明治5(1872)年のことです。
この年、明治新政府から新たな「学制」が発表され、全国に小学校が置かれることになったのです。
この明治5年の「学制」では、「小学教員ハ男女ヲ論セス」となっています。
つまり女性でも、教員になれるとしてあります。
男女同権なんて、言葉さえもなかった時代ですが、明治初期においても、我が国では、教職に男女の別を設けていなかったのです。
これは、世界でもめずらしいことだろうと思います。
錫高野村は、登幾の寺子屋を、そのまま小学校とすると決めます。
登幾の自宅の寺子屋が、江戸270年を経て、明治6(1873)年5月、正式に村立小学校となったのです。
このとき、登幾、68歳でした。
彼女は「日本で最初の小学校女性教師」となったのです。
登幾は、この学校で漢学を担当しました。
そして一年間、ここで教職を勤めたあと、翌年、近くに小学校舎が新築されたのを機会に、高齢を理由に、学校教師を辞任しました。
ところが・・・ここがおもしろいところです。
登幾は辞任したはずなのに、教えを請う生徒があとをたたないのです。
このため、一時は、公式な小学校よりも、登幾のいる元の小学校の方が、生徒数が多いなんていう事態まで起きています。
結局、登幾は、明治23(1890)年、85歳の高齢で亡くなるまで、自宅の私塾で、青少年に教鞭をとり続けました。
さて、登幾が歌を献上した孝明天皇は、明治天皇の父親です。
混乱の時代の中にあって、父に素晴らしい歌を献上した黒沢登幾に、明治天皇は、毎年10石の米を授けました。
陛下は、ちゃんと見ておいでなのです。
さて、未成年の頃の登幾は、家運もよく、頭もよく、学問もよくできる素晴らしい才女でした。
しかし大人になった登幾を待っていたのは、夫に先立たれ、女手一つで二人の子を育てるというたいへんな境涯でした。
そしてさらには、登幾から教育者としての地位も奪い、20年の長きにわたって、過剰な肉体労働を強い、体力を使い果たさせ、貧乏な暮らしの中で、餓えに苦しませ、その身を極貧暮らしにまで追い落すというものでした。
そして、意を決した京都行きでは、登幾の身柄は拘束され、拷問を受けたのみならず、籐丸篭で護送され、ようやく放免されても、家に帰らせてもらえない。
老いた母の顔も見れない、娘たちにも会えないという暮らしでした。
ところが、実に不思議なものです。
天は、最後には、登幾に、本来の教育者としての地位を与え、しかも天子様(天皇陛下)から、直接御米をいただけるという処遇を受けるようになったのです。
なぜでしょうか。
孟子の言葉に、「天の将に大任を是の人に降さんとするや」というものがあります。
天の将に大任を是の人に降さんとするや
必ず先づその心志(しんし)を苦しめ
その筋骨を労し
その体膚(たいひ)を餓やし
その身を空乏し
行ひその為すところに払乱せしむ。
というのです。
なぜそんなことを天がするかといえば、それは、大任を得た人が、
「心を動かし、性を忍び
その能はざる所を曾益せしむる所以なり」
と書かれています。
要するに、黒沢登幾は、20年という長きにわたり、天から薫陶を受け続けたわけです。
そしれそれだけの長い期間、行商人に身をやつしながらも、登幾は本来の教育者としての自覚と誇りと矜持を保ち続けたわけです。
そして最後に天は、登幾に、我が国初の女性小学校教師という役割を、与えています。
見えない世界のことは、私にもよくわかりません。
ただ、ひとついえることは、天はその人に、「絶対無理!乗り越えられない!」としか思えないような試練を与える、ということです。
いまの日本には、悩んだり、苦しんだりしている人はたくさんおいでだと思います。
黒沢登幾は、極限まで追いつめられ、そんな状態を20年も続けたのです。
けれど、あきらめない。くじけない。
スーパーマンや、バットマンなど、アメリカン・ヒーローは、はじめから全てを持っています。
三国志の関羽や張飛ははじめから強く、あるいは諸葛孔明は最初から天才です。
けれど日本のヒーローは、オオクニヌシにせよ、スサノオにせよ、アマテラスにせよ、神様自体が、最初は不完全で、いじめを受けたりしながら、様々な試練を経て、成長していきます。
牛若丸だって、カラス天狗に訓練を受けて、そこではじめて強くなる。
どんなに苦しくても、笑顔で顔晴る。
ただしい道を行く。
途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに顔晴る。
それが日本人のすごさなのだと思います。