中山恭子先生のこと、そして沖縄報告。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





西村眞悟の時事通信 より。




 六月三十日は、堺の泉ヶ丘センタービルで私と参議院議員の中山恭子先生の国政報告集会をさせていただき、
大勢の同志、仲間そして熱い思いの皆様のご参加を頂いた。
 まことにありがとうございます。
 
 国政報告は、何故必要であったのか。
 それは、国家の将来のために、
 参議院議員である中山恭子先生が、
どうしても必要であるということを、参加者に得心し確信していただくためであった。

 中山恭子先生は、大蔵省出身の財政と経済のエキスパートであり、官界における女性パイオニアである。
 しかし単に優秀な官僚であるというだけではない。

 十二年前、
 中央アジアでイスラム過激派に監禁され人質となった日本人鉱山技術者四名を含む七名の救出のために、
過激派の本拠に乗り込んで銃を突きつけられるなかで頭目と直接交渉し、ついに七人を救出した
 駐カザフスタン特命全権大使は中山恭子先生であった。
 
 その時の外務省の訓電は、キルギス政府に全ての交渉を委ねよ、であったが、中山大使は、その訓電通りすれば、人質の命は危ないと判断し、命をかけて身に寸鉄を帯びず自ら虎の穴に乗り込んだのだ。
 
 私は中山先生に質問した。
「キルギス政府に交渉を委ねよという外務省の訓電に従っておれば人質はどうなりましたか」
 答え。「殺されてました」
 さらに私の旭川の同志が中山先生に質問した。
「イスラム過激派との直接交渉が失敗したら先生はどうなったのですか」
 答え。「私も殺されてました」

 十年前の十月、
 北朝鮮に拉致されて長年抑留されていた五名の被害者が帰国した。五人を平壌に迎えに行ったのが中山先生であった。
 その時、驚くべきことに外務省は、帰国できた五人を一週間から十日後には、北朝鮮に送り返すという約束をしていた。
 我々拉致議連幹部は、外務省の五人を送り返すという方針に反対だと言った。外務省幹部は唇を振るわせて「国家間の約束だから送り返さねばなりません」と我々に言った。
 その時、政府側から優しい声で一人の女性が言った。
「我が国は、国家として帰国した五人を北朝鮮に返さない。これでいいですね。」
 振り向けば、これを言ったのが中山恭子先生だった。
 そして、彼女は言うだけではなく、たった一人で頑として国民を守るという信念を貫き通し、五人は送り返されずに祖国に留まることができたのだ。
 この時の情景を私は忘れ得ない。
 
 五人が日本に今も住んでいるのは、政府側に中山恭子先生がいたからだ。
 仮に、中山先生の頑張りがなければ、五人は北朝鮮に送り返され、「主席様のもとに戻れて幸せです」という日本向けの記者会見をさせられ、五人だけではなく他の数百名にのぼる全拉致被害者とともに永遠に祖国に戻れなかったであろう。

 現在、我が国を取り巻く内外の情勢はきわめて厳しく、祖国を愛する心ある日本国民は、「強い日本」を構築しなければ、領土も国民も国家も守ることができないと認識し、それを実践する政治の建設を求めている。
 
 我々は、この祖国の歴史的要請に応える人材を、選出しなければならない。
 従って私は、参加の同志と共に、中山恭子先生を堺に来ていただいて国政報告をさせていただいた。
 重ねて、参加者各位に感謝し、より一層のご支援をお願い申し上げます。

 翌七月一日、私は沖縄に行き、講演すると同時に中山恭子先生のお願いをした。
 七月一日の午後、普天間基地にてオスプレイが離陸するところを見学した。そして、浦添市のホールで、
「誇りを持て!沖縄県民は英雄の子孫だ!」
 という演題で講演させていただいた。

 講演会は、国歌斉唱と仲村俊子沖縄初代防衛協会婦人部長の開会のあいさつで始まった。

 人は、死を覚悟したとき真実を言う。
 自決前の大田実海軍少将の決別電こそ、沖縄戦の実相を伝えている。戦場における軍司令官の決別電は、敵の状況と部下の奮戦の状況を述べるべきであるが、大田少将は、敢えてそれをせず、冒頭次の通り述べる。

「沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には通信力なく、三十二軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、之に代わって緊急御通知申し上ぐ」

 そして鉄の暴風と言われるすさまじい敵の攻撃の中での沖縄県民の姿を語り、最後に、
「糧食六月一杯を支えるのみなりという、
 沖縄県民斯く戦へり、県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを」
 と結ぶ。
 この大田少将の電文にある沖縄県民の姿は、決して逃げまどう「被害者」ではなく、男女を問はず、戦士であり勇士であった。屈辱の生よりも栄光の死を選んだ人々であった。さらに状況に決してへこたれる人々ではなく、困難な状況の中で、「黙々として雨中を移動する」人々であった。

 私は、この大田少将の決別電を演壇で朗読し、
 そして、この沖縄県民の姿は、我々が目の当たりに見た世界に感銘を与えた二年前の東日本大震災における被災した東北の人々の「黙々として秩序と思いやりを失わず苦難に耐える姿」と同じだと述べた。
 六十八年前の沖縄と二年前の東北は、ともに巨大な苦難に襲われたが、その中で、同じ日本人の血に根ざす姿が顕れていたのだ。

 世界の諸民族を支えるものは、苦難に耐えた先祖の叙事詩である。例えば、現在のイスラエルは、二千年目に数万のローマ軍と戦い、マサダの砦で玉砕した千名のユダヤ人を心の支えとしている。
 同様に、六十八年前の沖縄県民の戦いの姿は、日本の誇りであり日本民族を支える偉大な力を宿している。

 この我ら日本民族の力の源泉である沖縄が、今再び既に戦場になっている。
 それは、自虐史観と中国共産党の仕掛けるプロパガンダの戦場である。そして、中国共産党は、この宣伝戦で勝利して沖縄を呑み込もうとしている。

 のっぴきならない事態が今沖縄で進行しているのだ。
 沖縄が敵に呑み込まれれば、六十八年前と同様に全日本が屈服するのである。
 その意味で、沖縄は日本の一地方ではなく、全日本そのものである。沖縄は日本であり、日本は沖縄である。

 沖縄を守り抜くには、即ち、全日本を守り抜くには、
今、この戦場で勝たねばならない。
 つまり、自虐史観を払拭し、誇りある民族の叙事詩である沖縄戦と大東亜戦争の大義を取り戻さねばならない。
 そして、これをなす事によって、強い日本が生まれる。
 このことを為せる者は、党派ではない。
 河野洋平官房長官談話も村山富市道理大臣談話も、ともに自民党が与党の時に発せられている。
 従って、今こそ、人物を選ばねばならない。
 志ある人物を主体にした政界の再編期が来ているからだ。
 私は、このことを知っていただくために、
 中山恭子先生の経歴を書いたパンフレットを会場の参加者に配っていただき、中山恭子先生の「人物」をご紹介させていただいた。

 以上が、六月三十日から本日七月二日までのご報告である。
 諸兄姉、私の切に言わんとすることをお酌み取りいただき、
 私と共に国家の運命を背負う思いで、
 中山恭子先生に、圧倒的な国民の支持が集まることが、
 対外的に我が国の大きな抑止力になること、
 同時に、
 我が国政界の真の再編を実現させることになると、確信して、
 御奮闘いただかんことを!







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