◆堕胎手術直後に有本恵子さん拉致の驚き
惠谷 今の有本さんの拉致について、これまでだいたいのことは報道されていますが、私が整理して驚いたこと、手記にも出てきますが、6月27日に八尾がロンドンの有本さんに電話をかけて、「待ち合わせ場所がハンブルクからコペンハーゲンに変わったから7月15日にそこで会いましょうね」とザグレブから連絡します。
何と八尾恵は、その翌日か翌々日堕胎手術をします。そして7月15日にはもう拉致の作戦に復帰してるんですね。先ほどの「10の誓い」ではありませんが、工作員として2週間が十分なのか不十分なのか分かりませんが、その間に現場復帰をして現実に拉致をする。そういう意味では金正日に血の一滴まで捧げているという動きで、正直に驚きました。
その他には有本さんに関する新しい事実は出てこなかったんですが、改めて動きを見ていくと、有本さんの方は、新しい仕事でということで前向きで未来が明るい女性がいる一方、反対側の女性はとにかく忠誠を尽くして彼らの目的に向かっていくというその暗い動きがあまりに対照的で、正直に言ってショックを受けました。
八尾恵はザグレブの病院で手術をするんですが、彼女から見れば、平壌で手術するよりははるかに安心できるし、術後は大使館で療養しています。すると大使館員が果物など届けてくれる。なかなか出血が止まらなかったらしいですが、そういうことでも、その社会では親切にされたと彼女は思って、とにかく作戦に復帰しなければいけないという頭しかない。この驚きを今回改めて感じました。
◆拉致後は連絡部管轄に、2001年までは生存情報
西岡 連れていかれた後、有本さん、石岡さん、松木さんがどのようなことをさせられていたのか。
八尾さんの本などでは、有本さんたちはよど号犯グループから離されていたとあります。日本革命村の中で、自主革命党の党員には、表向きはなっていなかったように書いてあります。
別の情報として、我々救う会が中国で入手し、また自由北朝鮮放送にも同じ内容のものがきた元連絡部工作員のムン・ミョンナムという人の手紙によると、石岡さんと有本さんは連絡部のカン・ジェソクという指導員の下で、双鷹(サンメ)地区の招待所で、夫婦で、工作員としての訓練を受けた、と。自主革命党とは別
に連絡部の工作員としての訓練を受けた。
二人の子どもがいて、親が育てていた。92年から現職工作員として活動している。内容は分からない。そして2001年には平安南道平城(ピョンソン)市にある工作員専用の休養招待所で生活していた、という文書の未確認情報があります。
この情報はここでも報告しましたが、市川修一さんに関するもの、横田めぐみさんに関するものがあり、いくつか別の情報と一致するところがあり、一定程度信用できるのではないかと私は思っています。
有本さんについては、先ほどいったカン・ジェソクという人間が指導員だと言うんですが、別の情報によると、カン・ジェギルという男が指導員だというのがあって、「カン・ジェ」までは合っています。
少なくとも2001年まで有本さんが生存していたことはほぼ間違いないのではないかと思っています。この情報が出た少し後で、家族会にもお話しました。
惠谷 今の話にあった双鷹地区というのは金正日政治軍事大学の分校があるところで、平壌市の北東方向にあります。そこで教育を受けるというのは、双鷹地区、金剛(クムガン)地区、香山(ヒャンサン)地区、妙香(ミョンヒャン)地区の4つの地区の1つで、かつては双鷹地区は女性工作員が訓練していた地域です。
ところがご存知の金賢姫が自決に失敗して以降、金正日は「もう女性工作員は作るな、訓練するな」と言って、「その代わりに夫婦間諜(工作員)を訓練しろ」という命令を出した。
当時女性工作員の訓練地区だった双鷹地区を夫婦間諜の訓練地域にしたというのは、情報がぴたり合います。
◆グーグルアースで見られるよど号犯の事務所
西岡 最後に、よど号犯グループがいた日本革命村及び事務所について惠谷さんが資料を持ってきてくれましたのでお願いします。
惠谷 お手元の配布資料(日本革命村手書き地図、衛星写真、説明文)は、元はカラーですが、グーグルジャパンで見ていただけます。
まず日本革命村というのはよど号犯の連中がそう呼んでいるんですが、一方で重要なことは対外的に、例えば社会党が訪れるというような時は、「日朝親善の家」というのが対外名です。
この村にいつまでいたのかはっきり分かりません。今はここにはいないと思います。八尾恵が書いたスケッチを見ながら、グーグルで何十時間かけたか分かりませんが、やっとここに辿り着きました。本当にぴったりと合います。
「私のアパート」と書かれたところは今も残っています。4階建てで各フロアーが一家族というアパートです。貯水池の近くにある小学校はよど号犯の子どもたちだけの小学校です。左右に「対空陣地」とありますが、現在もあります。しかし、彼らが住んでいた頃にあったのかは確認できません。彼らが出た後に、もっと重要な施設として作り変え、対空陣地も備えたのかなと思います。
2ページ目の「よど号犯グループの事務所」は、産院通りと呼ばれる所にあり、左側の建物が平壌産院で、北朝鮮が自慢する産院です。1980年に完成しています。よど号犯の長男、長女はだいたい70年代末に生まれていますからここではないんですが、その後(第2子以降)は多分ここで生まれたと思います。おそらく有本さんもここで出産されたのではないかと思います。
この平壌産院前の道をはさんで反対側の少し上にあるのがよど号犯の事務所です。ここに日本のテレビ局や訪問者が行って、ニュース映像が撮られるところです。これは1993年に建設されたんですが、よど号犯に言わせると、本当かどうか分かりませんが、中古車両を輸入して中国に売る中継貿易などをして自分たちで稼いだ金で建てたビルということです。
北朝鮮では土地は国有ですから土地代はかからない。建設費がどのくらいだったか分かりません。
4階建てと6階建てがありますが、ビルを建てたころは30人も40人も働いていました。現在も使われていることは確認されていますが、指名手配をかけられていますので現在6人しか残っていません。他には事務所はないと思われますので、小西(隆裕)を筆頭として昼間はここで何かをしていると思っています。これは最新情報です。
もしグーグルで見たい方は、革命村のアパートの位置は北緯39度04分38.35秒、東経125度56分35.70秒、事務所は北緯39度01分34.00秒、東経125度46分57.73秒です。
西岡 惠谷さんが最新情報として引用した本、『拉致疑惑と帰国』は最近河出書房新社から出たんですが、この本はけしからん本でありまして、よど号の犯人たちが、「自分たちは拉致に関係していない」と言って本を出したものです。
森と黒田と魚本の3人がよど号犯に関わる拉致で指名手配されていますが、指名手配をした国に対して、「自分たちの名誉を傷つけた」と言って一人当たり500万円払えという裁判を起こしたんです。
犯人として指名手配されたら、それをけしからんと言っている。無実なのであれば帰ってきて、裁判所で無実が証明された後、名誉毀損で国家賠償を求めるなら分かりますが、指名手配されて外国に逃げていて、指名手配した国に賠償を求める裁判を外国で起こしているわけです。
そのことを、朝鮮労働とも当然許可してやらせています。隠したいことがあるからそういうことをやっているんではないか。その一番が日本革命テーゼではないかと思っています。
次に、有本明弘・嘉代子さんご夫妻と、斉藤文代さん、松木信宏さんに登壇していただき、今の話を聞いて感じられたこと、近況などをお話ください。
◆まず憲法を変えないと
有本明弘(有本恵子さん父)
みなさんこんばんは。遠いところから来られている方もおられると思います。ありがとうございます。
私はよど号犯のことは警察に任せておけばいいと思っています。話してもしょうがない。言っていることは嘘ばかり。支援者への便りとして月に1回、書いたものを送っていました。その中に、ヨーロッパで仲間を集めていたことは事実と言った時期がありました。しかし、いつのまにか、そんなことはやってないと言っています。こんなのを相手にしてもしょうがない。
警察は、帰ってきたら全部ひっくるめて裁判をやり直すと思っています。安倍政権は憲法改正、拉致の実行犯を返せと言っています。前の民主党政権は、拉致実行犯の引渡しの文言を外しました。安倍さんはそれを復活させています。
私は竹下さんの時から憲法改正のお願いをしています。安倍晋太郎さんにもお願いし、今の安倍さんともつきあいがずっと続いています。安倍さんは憲法改正を全面に掲げてまた総理になりました。この政治信条はすばらしいと思います。
参議院戦に勝ったら、これから5年、10年、安倍さんの腕の見せ所の政治ができます(拍手)。
◆「お宅の子どもさんだけではないですよ」と外務省
有本嘉代子(有本恵子さん母)
主人はこのことばかり言っています。今回も言うだろうなと思っていました(笑)。私は運動する中で色んな人と接触していますから、よど号犯のことはよく聞いています。
私が一番関心を持ったのは、『宿命』を書いた高沢皓司さんが家に来られた時に、色々と話してくださいましたが、(石岡さん、恵子さんからの)手紙が来た時(88年9月6日)に3枚の写真が入っていたんです。
その中に、「訳あって別々に行動していた者たちが今北朝鮮の平壌で力を合わせて暮らしております」とありました。その中に写真があったんです。恵子と北海道の石岡亨さんのと、それから子どもの写真が入っていたんです。
なぜ松木さんと石岡さんと恵子が行動をともにしているのに、松木さんはどうして(自分の)子どもの(時の)写真を持ち歩いていたのかなと思っていたんです。
高沢さんが尋ねてこられたのは、ちょうど地震があった1995年のまだ寒い頃でした。話してくださったのは、赤ん坊は石岡さんと恵子との間にできた子どもですよ、と。それでやっと納得したんです。それで子どもの写真が入っていたんだなということが分かりました。
だからあの子たちはどういう思いで手紙を出したんだろうなと思っていますけど、とにかく私は実物は見ておりませんが、非常に小さく、切手くらいに折ってあったそうです。だけどなぜ写真が入れられたのかなという疑問は今も持っています。
私たちのところは動きやすかったものですから、即動いたんです。だけどどこも相手にしてくださいませんでした。最初に外務省に行くべきだという思いがありましたので、県庁に用事があって行きました。こういう問題、とにかくどこに行ったか分からない、手紙が来るまで5年間全然音信がなかったわけです。
それで県庁の受付の方に、「娘が帰ってこないままかなり経つんですが、こういう問題はどこに相談に行ったらいいんですか」と聞きましたら、「一度外務省に電話をかけられたらいいですよ」と言って、親切に外務省の電話番号を調べてくださって、「ここに電話をかけられたら」と言われました。
家に帰って早速電話をかけました。そうしたら外務省は、「お宅の子どもさんだけではないですよ」とおっしゃったんです。かなりの方が出たまま、パスポートが切れているのに帰ってきていないそうです。「娘さんは若いんだから好きな人でもできて今頃は楽しく暮らしているのではないですか」というような応対でした。
◆よど号犯は「20人くらいは連れて入っている」と
一番最初に電話した時の外務省の応対がこれで、それからずいぶん後になり分かったことですが、『宿命』を書かれた高沢さんが来られた時に、「私はよど号ハイジャック犯の田宮さんと心安いので何度も北朝鮮に行っています。田宮さんから聞いたことによると、今3人だけとなっていますが、田宮さんが言うには(ヨーロッパから)20人くらいは連れて入っている」と言ってました。
外務省は「お宅だけじゃないんですよ」という話でした。私が後になって考えたのは、外務省があの時、「まだ帰ってきていない人がたくさんいる」ということと、これだったら合うなという思いでした。
だからかなり古くから拉致があったと思うんですが、私たちには分かりません。1990年9月に金丸さんと田辺さんが訪朝された。その時私たちは手紙をもっていき、「こういう状態になっていますので、北朝鮮に行かれましたらそういう問題が日本の国にあるということをきっちり言ってください」ということを石井一さんを通じてお願いしたんですが、帰ってきた時点で全然言った気配がなかったんです。
日本と朝鮮とで国交正常化の話があったようですが、その時、先ほど西岡さんが言われたように、警察が私たちのことを表に出してきたんだろうと思います。88年から90年までは、外務省が「黙っていなさい」というので、ずっと私たちはだまっていたんですが、1990年の終わりには、マスコミの方がたくさんやってきました。
このままで国交正常化になったら拉致問題は表に出ないままで死んでしまうので、これは大変なことだということで、多分警察が表に出されたと私たちは思っています。
国会議員も外務省も、とにかく拉致問題はほっといて国交正常化に走ろうとしていたんじゃないかと思います。今思うと本当に恐ろしいことでした。まだ前に進んでいませんが、何とかこの政権で、安倍さんも私の政権で拉致を解決するとおっしゃってくださっていますので、それに期待して、帰ってくるまでは元気にしていないといけないという思いで私たちは暮らしております(拍手)。
◆「日朝関係は軽々しく動かすな。拉致問題は深刻」と警察が海部総理に
西岡 今のお話を裏付ける情報を、私は一つ持っています。金丸訪朝の時、総理大臣は海部さんだったんです。2002年に、ある席で海部総理と一緒になって、海部総理を初めとする何人かの国会議員の人に、拉致問題のブリーフィングをしたことがあるんです。
当時、保守党という政党があり、小池百合子さんも保守党にいて、小池さんから話をしてくれと頼まれて行ったんですが、始まる前に海部総理とお茶を飲んでいたんです。まだ小泉訪朝の前ですが、拉致が議題なので、海部元総理が「私は拉致問題は詳しいんです」と向こうからおっしゃったんです。
「総理それはどういうことですか」と私が質問したら、「金丸訪朝の時に自分は総理だった。警察が自分のところに来て、『日朝関係は軽々しく動かさないでください。拉致問題は深刻です』と言われたんだ」と直接海部さんから聞きました。
他の人もいるのでそれ以上詳しいことは聞きませんでしたが、心の中で「何だこの野郎」と思ったのです。なぜなら、海部さんは当時、金丸さんに自分の手紙を預けたんです。書簡を。総理としてではなく、自民党総裁として。その書簡の中に拉致問題は書いてないんです。警察からブリーフィングを受けて、拉致が深刻だということを聞いていたと言ったのに、総理大臣の頭に拉致が入っていたのに、そしてそのことを金日成に直接伝える手紙という手段があったのに、書かなかったんです。
87年、88年は拉致のことが集中的に明らかになった年です。87年に寺越さんから手紙が来ました。88年に石岡さんから手紙が来ました。また87年に大韓機事件があり、その後金賢姫が自白し、88年3月に梶山(静六)答弁がありました。国会で拉致を認める答弁があったわけです。
その2年後に金丸訪朝があったわけですが、総理大臣は聞いていたのに取り上げなかった。曽我ひとみさんは平壌で、金丸さんが来たのをテレビで見たそうです。「日本の政治家が来たんだから、私のことが議題になっている筈だと心の中で期待していました」と言っていました。多分恵子さんもそうじゃないかと思い
ます。
しかし、取り上げなかったわけです。それで90年末に、警察がこういう写真があるとか、手紙が来ているということをリークしたのではないかという先ほどの嘉代子さんの話は、私も全くそうだと思います。
一つ聞きたいんですが、コペンハーゲンの空港での写真がありますよね。あれはいつ見せられたんですか。
有本嘉代子 あれはキム・ユーチョルが一緒に写っていたそうです。私たちに持ってきたのは恵子だけの写真でした。持ってきたのは1995年です。
西岡 ずいぶん後ですね。一目見て恵子さんだと分かりましたか。
有本嘉代子 分かりました。北朝鮮に入った時点の写真で不安そうな顔をしていました。格好の悪い服を来て、恵子のことを色々書いたところに張ってあったと思います。写真は、コペンハーゲンを経つ時と、髪の形が一緒なんですが、前髪がかなり伸びていました。2センチくらいです。眉毛に触れるくらいになってい
ましたから、あれは入ってすぐ撮られた写真だなと思いました。
西岡 今おっしゃったのは、北朝鮮から提供された写真のことですね。悲しい顔をしていた。髪を切ってなかったから数か月後ということですね。ありがとうございました(拍手)。
では斉藤文代さん、松木信宏さんお願いします。
(4につづく)
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担当:平田隆太郎(事務局長 info@sukuukai.jp)
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