西村眞悟の時事通信 より。
私が、いわゆる慰安婦問題に関して発言してから、
当時の人のことばが不意に浮かんでくるようになった。
そのことばは、私の魂に入り込むように浮かんできた。
それは、戦いに臨む軍人のことばであった。
また、戦地で慰安婦がひとときを過ごした兵隊にかけたことばだった。
これらはともに、本当の情から発することばだった。
そして、このことばほど、現在、我が国の内外から我が国の歴史に対して投げかけられる非難とはかけ離れているものはない。
これらのことばは、真実の我が民族の姿を清流が地下から甦ったように示している。
明日の生死も知れないあの時の人々のことばには魂がある。
それゆえ、いわゆる慰安婦問題を持ち出して日本を貶めようとする国際的謀略に対して、ただ物的な観点からの反論だけではなく、目に見えない魂の領域で、既に謀略は真実とかけ離れていると決着が付いていることを実感しようではないか。
このようなことばを発する人々が生きた時こそ、我が民族の真に誇りある時である。
私の魂に浮かんだことばを四つ、次に書いておく。
既にご紹介した長野修身海軍軍令部総長のことば。
昭和十六年の開戦直前に、戦場に赴いた人々が等しく子孫に何を残そうとしたのかを示している。
「戦はざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやも知れぬ。しかし、戦はずして国滅びた場合は、
魂まで失った亡国である。
しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活を見いだしうるであろう。
戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した
日本精神さえ残れば、
我らの子孫は再三再起するであろう。
そして、一旦戦争と決せられた場合は、我ら軍人は、ただただ大命一下、戦いに赴くのみである。」
昭和二十年四月二十二日午前八時半、台湾桃園飛行場で出撃を一時間半後にひかえた陸軍特別攻撃隊誠第百十九飛行隊の十八歳から二十四歳までの十四人が笑顔で口々に言った。彼らは、自分の魂が民族の中に生き続けることを実感していた。
「いまここで死ぬのが、自分にとって最高の生き方」
昭和二十年五月十一日、鹿屋基地にて神風特別攻撃隊第五筑波隊長として特攻出撃する西田高光中尉は、従軍記者であった山岡荘八の「この戦いを果たして勝ち抜けると思うか。負けても悔いはないのか」という質問に次のように答えた。
「学鷲は、一応インテリです。そう、簡単に勝てるなどとは思っていません。
しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・。
お分かりでしょう、我々の命は、講和の条件にも、
その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
・・・そう、民族の誇りに・・・。」
名も伝わらない慰安婦。彼女が、戦地でひとときを共にした兵士に言った。
「あんた、死んだらあかんよ」
兵士は、内地で「死んで帰れ」と送り出されてきた。
そして、戦地で初めて「死んだらあかん」と言われて泣いた。
我らの先代が護ろうとしたのは、
民族の魂だ。日本精神だ。民族の情だ。
そして、現在の謀略の本質は、この先代が命に代えて護ろうとした「魂」、「日本精神」、「情」を汚そうとしているのだ。彼らは、従軍慰安婦と称する老婆を道具としてそれを仕掛けている。
私は、もうすぐ発売されるWILLと正論に、慰安婦に関する論考を書いてきて、本日「正論」の最終校正を終えた。
そうすると、彼ら反日運動家の卑しい謀略の次元を越えて、情の民族である日本人として言いたくなった。
一言の感謝を。
あの時、彼女たちは、死に行く日本軍兵士を戦地で優しく慰めてくれた。
「あんた死んだらあかんよ」と。
兵隊はどれほどその優しさに慰められたことか。
その時、彼女たちは、兵士にとって本当の天使であり母に似た安らぎだったのだ。
いまは、名も伝わらない幸い薄くつらい境遇の優しい彼女たちに、心からありがとうと言いたい。
そして、心から彼女らのご冥福を祈る。