【古典個展】立命館大フェロー・加地伸行
梅雨の季節である。テレビの天気予報はその様子を細々(こまごま)と伝えているが、気になることばがある。アナウンサーと気象予報士とのやりとりの中で、梅雨を「うっとうしい」とか、「じめじめしている」とかと、邪魔者扱いにしている。これはよろしくない。梅雨は邪魔者どころか、わが国にとって大歓迎すべきものではないのか。
なぜなら、この梅雨によって田植えができ、稲作が可能なのであり、必ず雨が降ってもらわなくてはならないからである。
稲からとれる米は日本人の主食である。米があれば、パンがあろうとなかろうと心配ない。米さえあれば、将来の食糧危機も乗り越えられる。マグロやウナギなどがなければ、イワシでいいじゃないか。牛・豚・鶏の肉などなくても、梅干しがあるじゃないの。
梅雨に加えて、9月上旬の台風による雨は、水力発電の源である。現代では、自然エネルギーの内、水力発電の比重は小さくなってしまっているが、昔は水力発電が中心であった。
この水力発電が盛んであったわけは、わが国が世界でも有数の森林を有し、それが保水し、多くの川流(せんりゅう)を作りだしていたからである。
しかし、そういう自然、すなわち日本列島の位置と雨との関係を忘れているのが都会人だ。そこから出てくることばが「うっとうしい」であり、「じめじめし」である。
話が逆ではないか。梅雨こそ恵みの雨であり、感謝すべきものなのに、「うっとうしい」と非難するのは、都会人が激増し、農村人口が激減しているからだ。
であるならば、都会地の学校では、わが国と梅雨との関係を教科の知識として教える一方、感謝するという道徳を身につけさせるのが教育というものではないのか。
英語会話を初等教育に取りこもうとしているが、そんなことよりも、日本人がこの日本列島において生きるとき、四季を貫く心構えを教え、例えば自然への感謝、ひいては畏怖と敬意とを身につけさせることが教育の在るべき姿ではないのか。ことばを進めて言えば、英語会話教育よりも、広い意味での道徳教育のほうが必要なのである。
と言えば、必ず日教組の連中が道徳教育反対と叫ぶ。価値観は多様であり、押しつけてはならないと。
愚かな話である。彼らは道徳の意味が分かっていない。
道徳の中心となっているものは、古今東西を問わず、人の世で必ず心がけねばならない在りかたである。例えば、借りたものは必ず返す、約束は守る、不要なゴミはその辺に捨てない…といった日常道徳に始まり、公共道徳に至る。
この道徳教育と教科教育との2つがそろって教育が成り立つ。価値観によって変わるもの、例えば白より赤がいいと押しつけて教えるわけではない。
梅雨は教育を反省させてくれる慈雨だ。『易』●卦(けいか)に曰(いわ)く「往(ゆ)いて雨に遇(あ)えば即(すなわ)ち吉(きち)」と。(かじ のぶゆき)
●=目へんに登の豆が天