【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】(9)
「八甲田山の惨劇」はなぜ
■ロシアに備え雪の行軍
青森県のほぼ中央にそびえる八甲田山(1585メートル)は冬、日本海から吹き付ける季節風により豪雪に閉ざされる。
今年の2月末には、西麓の温泉地、酸ケ湯(すかゆ)で5・5メートルを超すという想像を絶する積雪を記録した。強い寒波が重なったためで、現在観測を続けている地点としては国内新記録だったという。
実は明治35(1902)年1月末の八甲田山も、北海道の旭川で氷点下41度という日本の最低気温を生んだ寒波に襲われた。そしてその酷寒の地で日本の山岳史上や軍事史上に残る惨事が起きた。山麓を「雪中行軍」していた将兵199人が死亡したのである。
遭難したのは陸軍第8師団に所属し、青森市に駐屯していた歩兵第5連隊の将校、下士官、兵卒ら210人の雪中行軍隊である。屯営を出発したのは1月23日の朝だった。東側の山麓を抜け、三本木(現十和田市)まで約50キロの道を3日間で踏破する予定だった。
だが山麓に入るや、ほとんど前も見えない猛烈な吹雪に遭い、道を失う。2日目にようやく青森へ帰る決断をするが、深い雪と寒さで隊員は次々と倒れる。
26日朝、行軍隊が三本木についていないことを知った第5連隊が救助隊を送り、2月2日までに生存者17人を救出した。しかしうち5人は病院収容後に死亡、責任者の少佐は自決、わずか11人だけが助かるという悲劇となった。
実は第5連隊が出発する前の1月20日、同じ青森県の弘前に駐屯する第31連隊の雪中行軍隊も八甲田山方面に向かっていた。こちらは取材のための地元紙記者を含め38人の小編成だった。
弘前から十和田湖畔を抜け、三本木から第5連隊とは逆コースで青森市へ向かう計画だった。9日後に全員が無事、青森郊外に到着し行軍を成功させた。
31連隊の場合、雪道をよく知った地元民を案内人に雇った上、その助言を受け入れて途中無理をしなかったことが、生還に結びついた。逆に5連隊は案内人を付けなかったことや、天候の不順に対応できなかった指揮系統の乱れなどが惨事を招いたとされた。
だが31連隊も猛吹雪に遭っていた。八甲田山麓を通った日が5連隊とわずかにずれていただけで、こちらも命からがらだったことに間違いなかった。
両連隊とも、所属する第8師団司令部の意向で行軍を行った。では師団はなぜ、無謀ともいえる訓練をさせたのか。事件を扱った新田次郎氏の小説『八甲田山死の彷徨(ほうこう)』や、同じ青森に司令部を置く陸上自衛隊第9師団が当時の資料を精査した『陸奥(むつ)の吹雪』によれば、それは実際に2年後に始まることになるロシアとの戦いに備えるためだった。
第8師団は日露開戦となれば、ロシア艦隊が冬季、津軽海峡から青森の陸奥湾を封鎖、攻撃してくるケースを想定していた。ロシア軍は艦砲射撃により、海沿いや平野部を走る鉄路や道路を破壊するだろう。猛吹雪であろうと、八甲田山を通って青森市と三本木や弘前とを結ぶルートを確保しなくては戦えないと考えたのだ。
さらに戦場が満州(現中国東北部)で、しかも冬季に戦う場合、日本軍が「寒さ」に耐えうるための訓練という意味もあった。
実際の日露戦争では、日本海軍がロシアの旅順艦隊の封じ込めに成功、さらに大西洋からインド洋を回ってきたバルチック艦隊を日本海で破り、ロシア軍が陸奥湾に攻め込むことはなかった。
しかし想定通りとなった明治38年1月の満州・黒溝台(こっこうだい)の会戦では第8師団が雪中行軍を指揮した31連隊の福島泰蔵大尉らを失いながらも奮戦し、勝利の一因をつくった。八甲田山の悲劇で指摘された酷寒の地に向かない衣服や靴などの不備を克服、戦いに備えたことが功を奏したのだ。
この時期、ロシア軍が満州に居座り続けたことで日本中が「開戦やむなし」に動いていた。軍も国民もそのことを意識して必死に生きていたのであった。(皿木喜久)
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【用語解説】日本のスキー
日本でのスキーは明治44(1911)年1月、新潟県高田市(現上越市)の陸軍歩兵第58連隊で、陸軍の要請を受けたオーストリアのレルヒ少佐が隊員14人に教えたのが始まりとされる。
目的はあくまで軍事用で競技やレジャーのためではなかった。9年前の八甲田山雪中行軍遭難事件で、冬の山岳地帯などでの戦いではスキーが必要なのを陸軍幹部が感じ、軍隊への導入を決めたという。日露戦争には間に合わなかったが、愛好者2000万人ともいわれるその後のスキー普及のきっかけとなった。