拉致実行犯を初聴取。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








政府対策本部。未発覚、数十人規模か。





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80年代「若者連れ去り、残りは船ごと沈めた」


 脱北した朝鮮人民軍元幹部が軍の指令を受けて1980年代に日本海で漁船の日本人乗組員を拉致したと証言していることが判明し、政府の拉致問題対策本部が元幹部から事情聴取したことが27日、分かった。政府当局が拉致実行犯を名乗る脱北者から聴取したのは初めて。元幹部は、軍の工作機関による海上での拉致は60年代から80年代にかけて頻繁にあったとし、「若者だけを連れ去り、残る船員は船ごと沈めた」と証言した。事実なら、拉致・殺害の被害者は数十人規模に上る可能性があり、対策本部は調査を始めた。





 海上での韓国人拉致は知られているが、軍による海での日本人拉致についての具体的証言も初。

 元幹部によれば、青森県沖で80年代、5人前後が乗った漁船を襲い、30代男性を連れ去った。残りの船員らは船ごと沈めたという。

海上保安庁によると、70年代から80年代にかけて、日本海で行方不明になった漁船は記録が残っているだけで18隻。80年10月には青森県沖で30~70代の6人が乗った漁船が戻らず、遺体で見つかった1人を除く5人と船体が発見されない事案があった。対策本部は、元幹部の証言と、こうした事例との類似点を精査するなど調査を進める。

 元幹部によると、海上での拉致は「対日漁民作戦」と名付けられ、「対南(韓国)漁民作戦」と並行して、62~85年まで繰り返し実行された。日本海側の元山(ウォンサン)近くなどを拠点に計約120人の部隊が編成されていたという。

 作戦に使われた工作船は、船体に漢字で「○○丸」と書かれた日本の中型漁船を装ったもので、十数人の工作員が乗船していた。4月~10月末に青森から九州の日本海側で2~5人ほどが乗った中小漁船を標的にしたという。
手口は夜、無灯火で日本漁船に近づいて乗り移り、銃を突き付け船員を制圧。10~30代だけを工作船に連行し、高齢だったり、抵抗した乗組員は船倉や船室に閉じ込め、船ごと沈めて証拠隠滅を図ったという。

 元幹部は、「多い時期は年に3回、少ないときは2年に1回実行された」とし、事実なら拉致被害者は10人以上、殺害された人はその数倍に上る可能性がある。

 元幹部は「拉致した若者を教育し日本に再上陸させ情報収集などをさせる計画だった。被害者には大学を出た若者もいた」とも証言。81年に拉致し教育した日本人を日本に再上陸させたこともあったというが、いずれの被害者も消息は不明だという。

 元幹部によれば、拉致被害者を工作活動に従事させる計画は成果を得られず、85年には韓国に再入国させた韓国人被害者が警察に通報したため、対南、対日とも作戦を中止したという。




5人不明・青森の海難事故と酷似。



「青森沖で1980年代、漁船を襲い、30代男性を拉致した」。1980年代に日本海で漁船の日本人乗組員を拉致したという、朝鮮人民軍元幹部の証言と状況が似た「海難事故」があった。80(昭和55)年10月に6人を乗せた漁船が青森県沖で消息を絶ち、大しけで転覆したとして処理されていた。時期について、元幹部の記憶と若干のズレはあるが、現場や状況は重なっている。

 漁船は同年10月21日午後、船長=当時(36)=と50~70代の釣り客5人を乗せ、同県今別町から北海道側の小島に向け出港。深夜から大しけになり、翌朝、青函連絡船から下北半島沖で転覆し漂流する漁船らしきものが確認された。

 3日後に同半島で釣り客1人が遺体で収容されたが、船体や他の5人は見つからないまま捜索が打ち切られた。船を最後に見た男性(77)は「出港時はないでいたが、西南西の風が吹き、荒れると思った。今も海底に沈んでいるんだろう」と振り返る。青森海上保安部は当時、大しけで転覆したと判断した。
しかし無線連絡を絶った時刻や遺体で見つかった釣り客の死亡推定時刻から、本格的にしける前の21日夜には、今別から小島の間で何らかの原因で転覆する事態になった可能性が高い。

 元幹部は「出漁する日本漁船もまばらでこちらの船が見つかりにくく、風や波がある日の夜を狙った」と証言。「青森沖の島近くで襲撃した」ともし、漁船の形状や乗船者数、被害者の年齢層も証言と似ている。

 ただ、元幹部は「83年ごろ」とし、被害者の顔も覚えていないという。80年のケースを除いて証言に類似する漁船事故は海上保安庁の記録にない。脱北幹部を聴取した経験がある捜査関係者は「数年の記憶ちがいはこれまでもある」というが、捜索に当たった当時の海保職員も「はっきり覚えていない」と話している。

 船長の妻(63)は「遺体もなく、死んだという気持ちはなかったが、2週間後には葬儀を出した。割り切るしかなかった」。行方不明になった釣り客男性=同(53)=の長女(53)は「北朝鮮に連れて行かれたんじゃないかと家族で話すこともあった。あきらめるしかなかったが、父が亡くなった原因を知りたいという思いは今もある」と話した。




古屋担当相が報道内容認める「聴取方法などのコメントは控える」




古屋圭司拉致問題担当相は28日午前の記者会見で、政府の拉致問題対策本部が1980年代に漁船の日本人乗組員を拉致したと証言している朝鮮人民軍元幹部から事情聴取をしていた事実を認めた。古屋氏は「どうやって聴取したかということについてコメントは差し控えるのが適当かと思う」と述べた。

 拉致実行犯の聴取は28日付の産経新聞が報じた。脱北した元幹部によると、北朝鮮の軍の工作機関による日本付近の海上での拉致は60年代から80年代にかけて頻繁にあったという。政府当局が拉致実行犯を名乗る脱北者から聴取したのは初めてで、拉致問題の全面解決に向けて取り組みを強化していく方針。

 古屋氏は会見で「しっかり具体的な証拠に基づいて検討、捜査をすすめていくことが大前提だ」とした上で、「政府の認定の有無にかかわらず、北が拉致をした人間をすべて取り戻す。結果的に北朝鮮に拉致された人間はすべて対象だ」と述べた。

 一方、岸田文雄外相は記者会見で「捜査に関わる問題なので私の立場からコメントすることは控えたい」と述べた。菅義偉官房長官は「承知していない」と語った。





北、若い漁師を標的。髪形まね、腕時計まで日本製。




工作船で襲い「年いくつか」


 日本漁船を装い、持ち物まで日本製でそろえ、日本語も教え込まれた-。北朝鮮の朝鮮人民軍元幹部の証言からは「漁民作戦」の徹底ぶりがうかがえる。1962年に始まったという軍による日本人拉致の新証言で、これまで日本政府が認定している拉致被害は「氷山の一角」である疑いが改めて浮上した。





 「晴れ時々曇りです」「島に行ってきます」「エンジン故障です」…。元幹部が「対日漁民作戦」に参加する前に教え込まれた日本語だという。どの海域でどういった魚介が取れるかもたたき込まれた。

 偽装は細部まで徹底された。髪形は当時の日本人男性をまね、腕時計はセイコー製。服装は靴下から手袋、ボールペン1本まで日本製でそろえた。
80トン級の日本漁船を模した工作船だったが、中身は違った。米国やドイツ製エンジンが積まれ、約40ノット(時速74キロ)で航行。周囲約50キロを探知できるレーダーも搭載された。半日ほどで目的の海域に到達、翌日には北朝鮮に戻るヒットアンドアウェーの拉致が実行されたという。

 80年代には日本海で日本漁船に偽装した北朝鮮の工作船と韓国海軍が銃撃戦を行い、日本漁船が韓国軍に誤射される事件も起きた。日本海に出没する偽装工作船に韓国軍が神経をとがらせていた様子が浮かぶ。


作戦 暗闇で実行


 レーダーで日本漁船を捕捉。船員が「多すぎず、少なすぎない」中小型漁船に狙いをつけた。夜陰に紛れ、標的の船に工作船をぶつける。日本船はこうこうとあかりをともしているため無灯火の工作船に気づくことはなかったという。

「止まらないと撃つぞ」「1人ずつ船室に入れ」。工作船から6、7人が日本漁船に飛び乗り、銃などで日本人船員らを脅しながら「年はいくつか」といった最小限の言葉だけで拉致に見合う若者を選別。残る全員は船倉などに閉じ込め、機関室下の船底など特定箇所に工具で穴を開けた。

 「水柱が噴き上がり、数十分もすれば、船が海面に立ち上がるような格好で沈んでいった」

 船舶関係者らによると、証言通りの方法なら船は実際に沈没するという。

 作戦は暗闇で実行されたため、被害者の顔などはほとんど判別できず、北朝鮮への帰港まで見張りの工作員らが言葉を交わすこともなかったという。元幹部は「日本人という成果物が必ず求められた。空振りは許されなかった」と話した。


証拠は残らず


 「船を沈めれば証拠は残らない。船が戻らなければ遭難したと考える。それが船員拉致の最大の理由だ」

横田めぐみさん=拉致当時(13)=ら17人の政府認定の拉致被害者は70年代後半から80年代にかけて集中的に拉致されていた。「金日成(キム・イルソン)主席の後継者として朝鮮労働党の対外工作を握った金正日(ジョンイル)総書記が指令した」とされている。しかし船員拉致が開始されたとされる62年はそれ以前だ。

 元幹部は「70年代半ばからは、金正日総書記の承認を受けて実行された」としながらも「作戦は金日成時代から始まっている。政治犯収容所も金日成時代からある。金正日総書記は人権を無視したやり方を受け継いだ」と強調する。

 当時は命令通りに拉致の実行に加わったが、「同じ人間がやることではない」との後悔と「軍の拉致が闇に葬られる」との葛藤から重い口を開いたという。

 「部隊で目にした日本の映画の中の街は光があふれていた。北朝鮮は真っ暗なのに。これはなぜかという矛盾を抱き続けてきた」

 元幹部はそう話した。


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