倒壊する支那の高層建物
先日テレビで興味深い番組がありました。
現代支那のことです。
支那ではいま、次々と、立派そうな高層マンションや、大規模なショッピングセンターが建設されているのですが、そのために、もともとその土地で農業をしていた人たちが追い出され、貧困生活を余儀なくされているというのです。
最初の用地買収の話が来た時には、田畑を失ってもちゃんと仕事を斡旋するから大丈夫という話だったらしいのです。
ところが実際に家を立ち退いて、工事が始まると、そこに住んでいた農民達は飯場みたいな粗末な家に押込まれ、与えられる仕事も、まる一日働いても数百円にしかならないようなものでしかないというのです。
そしてたまらずその飯場を抜け出して、橋の下などにテントを張って、そこでまるで乞食のような生活を余儀なくされている、というわけです。
ところが農地を失い、職までも失ったいま、もはや乞食のような生活しか残されていない。
棄民として死ぬしかないというところまで追いつめられているというのです。
なるほど中共ならありそうな話です。
ところが、さらにすごいことが報道されていました。
農民から農地を買収して、そこに大型のショッピングセンターや、巨大な集合マンションが出来上がります。
ところが、出来上がった大型ショッピングセンターは、いつまで経っても店が開かず、廃墟になっている。
そして並みいる大型の集合マンションは、入居者がほとんどゼロに近い、と、番組ではここまでが放送です。
何が起こっているのでしょうか。
単に買い手が着かない?
もちろん、それもあります。正しい答えです。
けれど、ちょっと不足です。
一般に買い手が着かないのは、値段の折り合いがつかないというのが、理由です。
けれど、問題の大規模商業施設や、集合高層マンションなどは、ただ買い手が着かないというだけではないのです。
どういうことかというと、この廃墟となっている建物群は、外見こそ立派そうに見えるけれど、内部はいつ崩落するかわからない危険な状態にある、ということなのです。
はっきり言ってしまえば、そこに人が住んだり、お店を開いたりすることを前提として建物が建築されていないのです。
つまりこれらの建物は、最初から「それらしい外見」を持っているだけで、「人が住めない」、いわばハリボテの建物なのです。
これは一般に考えれば、実におかしなことです。
マンションや商業施設は、出来上がった施設に人や店が入るから、つまりそこが「売れる」から、造った業者は儲かるのです。
誰も入居しないのでは、建物を建造する施主は、まる損です。
つまり、工事業者は、ちゃんとした建物を造るから、その建物が売れて、儲かるのです。
にもかかわらず、最初から入居できない手抜き建造物を建てるということは、建築業者自身が、出来た建物を「売る」ことを、前提にしていない、ということなのです。
これはいったいどういうことでしょうか。
出来た建物を売らなくてもカネになる。
建物を造った「フリ」だけしておけば、カネになる。
そんなことがあり得るのでしょうか。
実は、あるのです。
日本が関係しています。
日本から、様々な名目で中共政府にお金が渡っています。
たとえば日本政府から、都市開発基金として50億のお金をGETしたとします。
本気で、当該エリアにマンションや商業施設を造り、町づくりまでやったら、資金はもっとかかります。
けれど、カタチだけ、それらしい施設を造り、人が入らないようにしておく。
「なぜ誰も入居しないのですか?」と聞かれたら、鋭意努力して売っているけれど、なかなかむつかしい。原因は道路や鉄道にある。その道路や鉄道を引かないと、人は入居できない。だからもっとカネをくれ」
となるわけです。
そして施設そのものは、目一杯の手抜き工事をして、5億円くらいでカタチだけそれらしい施設を造っておく。
総額50億円から、工事費が5億、間を取り持ってくれた日本の団体や政党などへのキックバックが2割で10億、残りの35億が共産党幹部たちの取り分です。
ですから、施設工事など、単に日本からの援助金を得るための名目でしかありませんから、施設が完成する必要もないし、そこに商業者や居住者が入居してくれる必要さえない。
そしてこんな茶伴のために、支那の農家は、土地を奪われ、仕事を奪われ、まるで棄民扱いを受けている。
そして利権に群がる、ごくごく一部の者達だけが、いたずらに悪銭を稼ぎまくる。
これが、いま支那で行われている現実です。
なんのことはない、日本の経済協力金は、支那の民衆の生活を良くするどころか破壊しているのです。
「政治は誰のため?」
この問いは、人類の永遠の問いであろうと思います。
そして過去、多くの国において、ごく一握りの人々の利権のために、多くの名もない民衆が土地を奪われ、食を奪われ、職を奪われ、財を奪われ、そして命さえも奪われ続けてきました。
政治が常に「民百姓のため」という原点に忠実だった国は、世界の中で、もしかしたら、日本だけといえるかもしれません。
特に、支那、朝鮮においては、政治が民衆のためであった時代は、日本が統治したごく限られたわずかな期間だけです。
私たち日本の保守派の人たちは、おそらく誰もが政治は民衆の幸福のためと考えています。
けれど特アでは、古来、政治が一部の利権者のためだけに民衆を利用する方向に機能します。
日本に巣食う、反日左翼も同じです。
口先で何を言おうと、みせかけの綺麗ごとを並べるだけで、その本質は政治にかぶれて一部の利権者たちだけのための利得を図っているにすぎません。
慰安婦問題など、その典型です。
この世には、男と女しかいないのです。
若い性欲盛りの男ばかりの軍隊にあって、男たちが女性を欲しがるというのは、ある意味無理からぬことです。
ですから日本の軍隊は、戦地で現地の女性たちに万一の被害が出ないように、日本人の商売人の女性たちの施設が駐屯地の脇に設置されることを容認しました。
ソ連のベルリン侵攻や、支那人民解放軍のチベット侵攻、あるいはベトナムでの韓国兵などは、女性は現地調達です。というよりも、戦勝時における兵たちの報酬として、現地の女性たちを蹂躙することを、むしろ奨励していた節さえある。それこそ女性蔑視もいいところです。
これに対し、日本は、軍における性の必要性から、民間業者が商売の女性たちを連れて来ることを容認しました。
ただし、それは基本的に日本人女性です。そして当時、朝鮮半島は日本でした。
さらに軍は、女性を連れて来る女衒達が、非道な連行や拉致、騙して連れて来るような不正を厳しく何度も取締り、さらに実際に商売を行う女性たちについては、軍医によって性病等の感染症や健康管理について、細やかな健康診断を、しかも毎月実施しています。
綺麗ごとを言うなら、売春宿などないほうがいいとなるかもしれません。
しかし、たとえは悪いけれど、それは綺麗で清潔な室内環境を保つために、不潔なトイレは家屋に設置しない、といっているようなものです。
トイレのない生活が、現実に可能なのでしょうか。
同様に、人間からセックスを取り上げるということが、正しいことなのでしょうか。
そういうきれいごとではなく、現実のなかで、民衆の幸せを追求していく。それが政治の本質だと、日本人は誰もが思っています。
ところが、一部の偏向者、政治かぶれ、あるいは共産主義かぶれ、反日かぶれの人たちは、ごく一部の人たちの利権や利得のためだけに、政治を利用しようとします。
そしてその際、民衆を煽動するために、きれいごとを並べたがる。
思想のために人を殺すことを正義と考える、あるいは人に対して非道をなすことを正義と考える人たちがいます。
間違ってます。
思想は「人のため」にあるのです。
思想のために人があるのではありません。
中共政府の間違いは、ここにあります。
中共政府という思想体が大事であって、そこに民衆の幸福という概念がない。
そういう国家は、国家の名にさえ値しません。
単に、一定の地域を「◯◯党」という名前の暴力団が、勝手し放題してのさばっているだけの無法地帯です。
日本はいつまで、そんな暴力団と後生大事に付き合うのでしょうか。