自衛隊の装備品の品質を下げるような政治を許してはならない。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。





ある女性隊員の殉職。



自衛隊の女性隊員が事故のため殉職された。まだ二十歳であった。「服務の宣誓」をした彼等に、年齢を云々するのは大変失礼なことかもしれないが、切ないこの気持ちだけはどうしようもない。同じく事故に遭われた男性隊員の、一日も早い現場復帰を祈らずにはいられない。

ダンプのタイヤ破裂、重体の女性自衛隊員が死亡
 さいたま市北区日進町の陸上自衛隊大宮駐屯地の車両整備工場で10日、大型ダンプのタイヤが破裂し、頭を打つなどして重体だった1等陸士の女性(20)が13日、外傷性くも膜下出血で死亡した。
 同駐屯地の発表によると、女性は2等陸曹の男性(37)と2人で外したタイヤに空気を入れた際、チューブが破裂。吹き飛んだ直径約1メートル20、重さ約100キロのタイヤが2人を直撃した。

 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130413-OYT1T00870.htm?from=ylist

「担当大臣」には、この事故の原因究明を徹底的にやって頂きたい。しかし、これは果たして独り防衛大臣の問題か、ということである。タイヤの製造メーカーの問題、安全基準の問題、そして何より予算の問題。こうした数々の問題が複雑に絡み合って生じた事故だったのではないか。単なる防衛省対財務省の括りで解決出来る問題ではなかろう。政府全体を挙げて、取り組んで頂きたい。

自衛隊は国防の要である。我々の最後の砦である。その砦の実体は組織ではない、武器弾薬でもない。志ある人間である。人間の出来が悪ければ、砦はその意味を持たないのである。そしてその逆に、如何なる高い志を持った人達が集っていようと、装備が悪ければ、砦は極めて脆弱なものとなる。そこら中に開いた穴を、人間がカバーしていかねばならぬ不安定なものになる。志が無ければ砦にはならない。また、志だけでは護れるものも護れないのである。

日本の砦である。あらゆる装備が、日本最高の品質で充たされていなければならない。値段ではない、品質で議論すべき問題である。先ずは国産であることが絶対的な条件である。国民が誇りを持って作ったものを、誇りを持って使って貰う。国内に存在しない特殊なものでないかぎり、それは必ず国産であるべきだ。それが日本の誇りだ。

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しかし、ここで嫌なことを思い出す。
首無し&襟立てのコンビである。
あの事業仕分けである。

「政治主導とは政治パフォーマンスのことである」と考えた連中の、まさしくパフォーマンスのために、多くの事業が潰された。「無駄であるか否か」という真面目な議論は、ほとんどされなかったのである。長期的な議論は皆無であった。

そこで演じられたことは、「無駄に見えるか否か」という見掛けの問題のみを採り上げて、三角帽子を被せて吊し上げをする一場の劇であった。与党政治家による集団リンチに過ぎなかったのである。素人目に無駄に見えればそれでいい。それを如何に派手に切り捨てるか、その見栄の切り方だけを考えた政治ショーだったのである。

自衛隊の制服を「安価な輸入物にしろ」という議論まであった。制服とは彼等の誇りであると同時に、彼等個人を護る最後の砦である。肉体を外界の変化から護る最後の砦なのである。それを外国製の安物にしろ、予算が無駄だと言ってのけたのである。これは事実上の自衛隊解体宣言である。


そして、一人の自衛隊員が亡くなった。厳しい予算の中、遣り繰りだけで凌いできた現場の自衛官の努力を思えば、哀しみに暮れるよりも、憤りを感じる方が遙かに強い。しかしその一方で、パフォーマンスコンビは、ノウノウと生きている。反省することもなければ、振り返ることすら無い。自分が何を言ったかも覚えていないはずだ。

「二番じゃダメか」と言ってのけた輩は、「二番それ即ち、死を意味する世界」を知らないのだ。「最高の装備品だからギリギリで耐えられた、だからこそ助かった」という話は幾らでもある。ならば二番手の装備品なら死んでいたということになる。

一番か二番かが生死を分ける世界である。もちろん、現状で最高のものを揃えたところで、その限界を超える試練は幾らでもある。しかし、我々国民は、そうした事物の限界の、そのギリギリの線まで、安全に懸命に戦って欲しいと願い、そのための最高の環境を提供したいと思うのである。

国家の敵・民主党は余命三ヶ月である。
この夏、民主党は溶けて無くなる。
パフォーマーから政治を完全に取り戻すのだ。

今さらではあるが、我々は予算云々の問題で、自衛隊の装備品の品質を下げるような政治を許してはならない。制服やタイヤといった地味なところまで予算削減の魔の手が伸び、実際に削られているとすれば、それは我々が我々自身の手で、自らを護る砦に穴を開けていることになる。それが狂気の沙汰であることに、気付くべき時が来ているのである。殉職された方の死を無駄にしないためには、我々がこの自覚を持ち、長き眠りから目覚めることしかない。それなくしては如何なる弔いの言葉も、唯々空疎なだけである。