こりゃあ閑話2 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





西村眞悟の時事通信 より。




本通信で少年工科学校生徒十三人が、昭和四十三年七月二日、訓練中に殉職したことを書いた。
 その中で、その殉職をきっかけに歌われるようになった
「僕らは、腰まで、泥まみれだが・・・」という歌詞の歌にふれた。どんな題の歌か、誰が歌ったのかも知らないが、寮の一室で寮生がギターを弾いて歌っていた。その記憶がある。

 すると、京都の絵描きの中尾新也さんからメールが来て、
あの歌は、アメリカのピート・シガーの歌で、フォークシンガーの中川五郎が訳して「腰まで泥まみれ」という題で歌っていた、と教えてくれた。
 そして、「なつかしい唄が出てきて頭があの当時に帰りました」と書かれていた。

 新也さんより早く頭があの当時に帰っていたのは、十三名の殉職を書いていた私だった。
 そこで、本会議までの待機時間である今を利用して、あの当時の行状を「こりゃあ閑話2」として書くことにする。
 
 中川五郎の「腰まで泥まみれ」の最後のほうの歌詞は、
「僕らは、腰まで、泥まみれだが、隊長は言った、進めー・・・、
僕らは、腰まで、首まで、泥まみれだが、馬鹿は言った、進めー・・・馬鹿は言う、進めー・・・」だった。
 僕は、やっぱり左翼系の歌詞だなー、最後は殉職者をちゃかすのか、と自分を包んでいる学生界の風潮に少々不満だった。

 同年代の少年兵が、横須賀の基地で軍事訓練を日々繰り返しており、殉職者を出している。
 その同じ頃、京都で僕は、何とも言えない学生生活を送っていた。
 その時期は、「二十歳にして既に心朽ちたり」とまでは言わないが、「青春がすばらしいなどとは誰にも言わせない」という一文に共感できるものであった。
 二度と繰り返したくないが、この時期がなければ今の僕がない懐かしい時期だった。
 それで、自己紹介がてらに、せっかく頭があの当時に帰ったのだから、この時期がなければ今の僕がないこの時期のことを、閑話としてここに記しておくことにする。
 
 学生時代の僕は、はじめは、北白河に下宿し、次に、銀閣寺近くの学生寮に入り、最後は修学院の鷺の森神社の参道横に下宿した。
 とはいえ、前半は大学紛争で授業はなかった。後半の修学院下宿時代は、入学同期生はほとんど卒業して京都を離れていたので、しみじみと孤独の日々だった。この中間の「海の星学寮」という学生寮に住んだ時代が一番長く賑やかだった。
 その頃の下宿は、民家の二階のフスマで区切られた畳み四畳から六畳の部屋を借りる。紙のフスマを隔てた向こうは別の学生が住んでいる。
 今の学生は、ほとんどワンルームマンションに住んでいるらしい。従って、このような下宿には住めないだろう。
 学生寮は、天井に照明設備のない古い木造三階建で、三十名ほどの寮生がいる。朝飯と晩飯が付いていて寮費は月五千円くらいだった。下宿にはご飯は付いていないのでいつも外にぶらぶらと食べに行った。

 寮の食堂では、はじめの頃、手で食べているやつがいた。後に箸で食べていたので、単に箸がなかったのでめんどくさいから手で食べていたのだろう。
 また、行く先々の下宿を追い出されて寮にきたやつがいた。
群馬出身の理学部数学科の学生だった。
 彼は、用を終えたあとの便所に水を流す習慣がなく、いつもこんもり湯気がたっているものを、そのままにするので、いやがられて下宿を追い出されるのだった。
 
 そのとき面白かったのは、深夜、近くの法然院や真如堂の釣鐘を鳴らしにいくことだった。酒を飲んでいて、日付が変わった頃、誰からともなく鳴らしに行こかということになる。
 真如堂は、門も扉もなく、ゴーン、ゴーンと鳴らし放題だった。
 お坊さんに気の毒なことをした。
 法然院は門があり扉を閉めてある。それで、忠臣蔵のように、一人が塀を乗り越えて門の扉を開いて鐘のところに行き、ゴーンとやる。
 すると、資金力のあるお寺なんだろう。数名の若い坊さんが木刀を持って追いかけてくる。そういうことのために、いつも柔道部を連れて行く。京大の柔道は寝技専門だから木刀で少々どつかれてもアルマジロのようになって平気だ。
 一昨年、真如堂を訪れ、学生時代には観れなかった東山を借景にした庭園を観せてもらった。その庭園があまりに見事だったので、親切に案内してくださったお坊さんに、「どうも、すいません、四十年ほど前に、深夜によくここの鐘をならしました」と白状した。

 この頃の数年間、ほぼ毎日、大文字山に登った。特に春から秋までの雨や台風の日は、喜び勇んで登った。
 台風の日に大文字山の頂上から京都の市内を眺めると、街が湖の底に沈んでいるように見えた。
 また、雨の日に登ることは、下着の洗濯にもなる一石二鳥だと思う。下着から汗臭さが抜けるからだ。
 
 この頃の僕の体力は、山岳兵でも勤まったと思う。農学部グランドから走り始めて大文字山に駆け上り、駆け下りて哲学の道を南下し、南禅寺裏山に登り、南禅寺山門で腕立て伏せと柔軟体操をし、そしてまた大学に帰った。

 寮に、二年先輩で鹿児島出身の文学部の学生がいた。体は非常にひ弱で、体重は四十キロちょっとしかなかった。そのくせ、口では難しいことを言う。
 つまり、なんか、からかいたくなるタイプだった。
 彼は、いつも寒そうにポケットに手を入れて歩くので、寮の近くの精神病院の病棟の窓から、女の患者さんが鉄格子を握って、その先輩に「お兄ちゃん、がんばって」と叫んだ。
 どういうきっかけか忘れたが、彼がカエルを目の前に置かれたら気を失うほど嫌いだということを知った。
 ある日、大文字山から降りてくると、山道に大きなガマガエルがいた。それをポケットに入れて寮に帰り、彼の顔の上に載せた。ぎゃー、と言って体が硬直し手をわなわなふるわせた。

 その彼にも北白河の通りを話しながら肩と肩を並べて歩いてくれるガールフレンドができた。と、彼は思った。
 ともかく、彼と一緒に歩いてくれる女の人ができたのは確かだった。
 しかし、彼は彼女を奪われたのだ。彼にとって確実に人生で一度しかできないガールフレンドを彼から奪ったのが、左系の学者になり、後に左系の防衛大学学長になった男だった。
 彼は、今、産経新聞の論説委員室特別記者で、体重は学生時代より三十キロ増えて時々すばらしい論考を書いているが、今でもあの前防衛大学長を恨んでいる。
 とにかく、彼はガールフレンドを奪われたと思いこんでいるのだ。
 女にもてる男から女友達を奪うのは許せるが、彼のように、絶対もてない男が天からの恩寵のように授かった人生でたった一人の女友達を奪うのは許せない。
 武士道に反する。従って、そんなやつは、防衛大学校学長にふさわしくない。

 京都を離れる年の修学院に下宿していた雪の日、寮で一緒だった数学科の水洗便所を知らない男と司法試験受験生の三人で、きらら坂から比叡山に登った。
 比叡山の北側は日本海性気候で凍傷ができるほど寒かった。
 その寒い風の吹く雪の原野に、小さな石のお地蔵さんがポツンと立っていた。その姿が忘れられない。
 そして、大きな石に彫られた「鎮護国家」の文字が瞼に残る。

 左大文字山の思い出は尽きない。
 あの頃、「腰まで泥まみれ」の唄とともに、
「おお、ちんちん」という唄もはやった。
 学生飲み屋で、女の子が大声で歌っていた。
「雪のうえに絵をかいた・・・、おお、ちんちん、おおちんちん、あのちんぽこよ、どこいった・・・」
 
 あるのどかな日差しの日に大文字山に登ったとき、一緒に登った男が、「おれらのちんぽ、いつも日陰におる。ひなたぼっこさせたらなかわいそうや」と言った。
 それで、ひなたぼっこをした。喜びよったでー・・・。
 
 ピート・シガーと中川五郎を教えてくれた中尾新也が、女性の読者もおるんやから、あまりけったいなこと書いたらあかん、と言うので、今回の閑話はここで止めます。