国に対する熱情は腹の底に深く収めて生きていきたい。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。




ガス抜きはどちらか?




マスコミによって、間もなく「靖國参拝問題」が話題にされるであろうことを予測して、先んじてその不毛を、その見当違い振りを論じた。

この問題を勘違いしているのは、マスコミばかりではない。マスコミは利用、悪用しようというのが本音であり、その背後には「反日」の二文字しか見えないが、自称「保守派」もまた、これを別の意味で勘違いし、結局のところ左右両陣営が揃って時の首相を糾弾する、という珍妙な展開が毎年の恒例行事になっている。

より深刻な問題は後者である。靖國を大切に思い、英霊に尊崇の念を隠さない人達が、何故か「靖國を政治問題化させる行為」に鈍感なのである。そして、人に対する尊敬の気持ちというものは、具体的には「その人の生き方を真似よう」というところに出て来るはずであるのに、何故かそのように振る舞う人は少ないのである。

その一つの例として、前回は英霊と讃えられる人々は皆「不言実行の士」であったことを書いた。「批判精神」などという薄っぺらいものではなく、「国家を護る」の一念に徹して、是非を問わずに突き進んだ。それを盲目的であるなどと批判したい人は、その盲目的行為がこの国を救い、今なおその精神的な礎になっていることを考えるべきである。盲目的行為が国を救い、「健全な批判精神」とやらが国を危うくしている現実を知るべきである。

要するに、保守派を任じ、靖國に参拝し、英霊を尊崇する人々が、何故彼等がそうしたように「不言実行の士」になろうとしないのか。何故、この国難とも言われる季節に、是非を論じ、稚拙な批判ゲームに興じているのか。その心根が理解できないのである。「時代は変わった」とでも言いたいのだろうか。それこそが、靖國神社に対して最も相応しくない物言いであることを知らないのだろうか。

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保守派にすら「不言実行」を求めて得られない現代日本。
その典型例が、TPP問題である。
TPP参加には「もちろん」反対である。
加えて、基本的には「交渉参加」にも反対であった。

しかし、これに関しては条件が付く。何故「交渉参加」にまで反対であったか、それは交渉できる人物が、先の政権には存在しなかったからである。外交交渉力の欠如、いやいやその前に、常識的な普通の社会人としての振る舞いすら出来ない連中に、国家を代表させて、今後長く問題になるであろう「大交渉」をやらせるわけにはいかない。従って、「交渉」にもまた反対してきた。

そして、政権が変わり、「交渉参加」ということに相成った。今度は前の政権とは異なり、交渉力のある政治家もいる。また、その経験もある。基本的に反対であることに変わりはないが、前提条件が全く変わってしまった状態では、選択の幅がより広くなるのは当然であろう。第一、「交渉参加」を云々することそれ自体が、「交渉参加に参加するか否か」の交渉、というまるで同義反復のような無限ループに陥り、何処かで打ち止めにする以外に、他に方法の無い話になってしまう。

あらゆる交渉の事前交渉、その前段階も認めず、という主張は「事実上の鎖国宣言」になる。短絡的に鎖国を否定するものではなく、むしろ部分的には好ましいとさえ考えるが、それでもこの切り札を今ここで使う必要もあるまい。

ところが、この変化を一切認めず、頑なに「反対」のみを唱え、その勢いで政権批判へと突き進む極めて厄介な自称「保守派」の人達が存在するのである。繰り返しになるが、何故こういう人達は、「不言実行の士」となって耐えることが出来ないのか。尊敬する人達と同じ生き方をしようとはしないのか。全く謎である。

個人的にはTPP問題に関して、もうそれほど高くアンテナを張る必要は無くなったと感じている。その理由は極めて簡単である。より高感度、高性能のアンテナを手に入れたからである。

現政権には参与として藤井聡が入っている。そして同時に竹中平蔵にもそれなりのポストが与えられている。全く異なるこの両者が、互いに受け入れる部分が無いであろうこの二人が、共に安倍内閣にアドバイザーとして参加している。安倍も麻生も、そして谷垣も、実に信頼する足る政治家であることは、この辺りの人事の「腹黒さ」にある。

藤井と竹中、絶対に共存出来ない政策を主張しているこの二人の学者のどちらが「ガス抜き」なのであろうか。二者共存の建前は、異なる意見を広く採り上げる、というところにあるだろう。しかし、これは明らかに一方は、ガス抜きのための人事である。あるいは、野に放つよりは近くに置いた方が何かと安全である、と考えた末の人事である。

さてさて、どちらがガス抜きであるか。

容易に予想がつくのは、藤井がTPP問題を含む自らの見解を否定され、国土強靱化のための予算が骨抜きにされ、遂に居場所が無くなった時、その時は恐らく「抗議の辞任」をするだろうことである。一方、それが竹中の場合には、色々と文句を言いながらも辞任はしないだろう、ということである。

要するに、余程の事が無い限り竹中は職に留まる。藤井は意に沿わぬ場合には、直ちに京都に戻るだろう。これが先に述べた高感度のアンテナである。二人が共存している間は、何事も起きないだろう。藤井の動向、これに加えて西田昌司の発言を追い掛けておけば、TPPに関する状況が読めるのではないか。だからこそ、今は静かに見守るべきではないか、と主張しているのである。

麻生の腹は元々黒い。安倍の腹も麻生に負けじと随分と黒くなった。この二人の腹黒が居る限り、米側の思う通りにはならないだろう。そして、そもそも「米側の思い」なるものが揺らいでいる現状では、交渉参加のレベルでは、何ら騒ぐに値しないと考えるのが普通ではないか。

やはり尊敬する人達の後を追いたい。不可能とは知りながらも、「不言実行の士」として、国に対する熱情は腹の底に深く収めて生きていきたい。政治家ならざるこの身ゆえ、「その腹は白く」生きたいと思う。そして、自ら買って出て「腹黒く」生きている政治家の存在を有難く、また頼もしく思うのである。