被災地を勇気づける陛下のお心。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








高崎経済大学教授・八木秀次




 天皇陛下は皇太子時代から、「日本人として忘れてはならない4つの日がある」として、終戦記念日(8月15日)、広島・長崎原爆投下の日(8月6日、9日)、沖縄戦終結の日(6月23日)を挙げられ、その日は戦没者の慰霊のためにお慎みになる。

 ≪忘れてならない5つ目の日≫

 平成6年の米国訪問で、サンフランシスコに到着されたのが日本時間で6月23日、ちょうど沖縄戦終結の日だった。渡邊允前侍従長は次のように回想している。

 「陛下は『ちょうど重なってしまうが、沖縄で慰霊式典が行われる時間はこちらでは何時ごろだろう』とお尋ねになった。調べたところ公式晩さん会の始まるころでした。『それでは少し遅らせてもらえないだろうか』とおっしゃって、両陛下はその時間にはホテルの部屋で黙とうをされていたようです」(2008年1月31日付日本経済新聞夕刊)

 4つの日はいずれも先の大戦に関わる日であるが、東日本大震災の起きた3月11日も陛下は同じように「忘れてはならない日」と考えておられるに違いない。いや、その当日だけではない。陛下は皇后陛下とともに2万人を超す死者、行方不明者、また被災者にずっと心を寄せ続けておられる。

 11日に行われた政府主催の東日本大震災2周年追悼式でも、被災者の身の上を案じながら、「この人々のことを、私どもはこれからも常に見守り、この苦しみを、少しでも分かち合っていくことが大切だとの思いを新たにしています」と述べられている。

 両陛下は震災の起きた平成23年3月末から5月にかけて、7週間連続で1都6県にわたって被災地・被災者を見舞われた。瓦礫(がれき)の前や海に向かって黙祷(もくとう)され、避難所では正座されたり床に膝をつかれたりして被災者一人ひとりに声を掛けられ、話を聞かれた。

 お出ましはいずれも、車や航空自衛隊輸送機、ヘリコプター、ミニバスを乗り継ぐ日帰りの強行軍で、往復7時間という長時間のドライブもあった。御所への到着は夜8時を過ぎることもあり、天皇陛下はその夜もご公務をなさったという。過密なご公務の中での被災地ご訪問であった。

 ≪悲しみの「気」を擁しつつ≫

 川島裕侍従長は、ご訪問に随行した感想を以下のように綴(つづ)っている。

 「穏やかに人々に対されていても、こうした人々の悲しみを受け止められる両陛下御自身も、悲しみの『気』を心の中に擁したまま、その後の生活を続けておられるものと思う。そしてまた御二人の中には、被災者の悲しみを、被災しなかった者が理解できるのかという恐れにも似た控えた気持ちが常におありになるようだ。それ故に、慣れるということの決して出来ない辛いお仕事を、それでも、そこに行って、その人たちの側にあることを御自分方の役割としてなさっているように拝察している」(文芸春秋2011年8月号)

 天皇皇后両陛下のご長女の黒田清子さんがご結婚前に、皇后陛下がこれまで体現されてきた「皇族のあり方」の中で深く心に留めているものとして、「皇室は祈りでありたい」というお言葉と、「心を寄せ続ける」という変わらないご姿勢を挙げられたことがある(平成15年4月18日のお誕生日に際しての文書回答)。

 「皇室は祈りでありたい」-。「祈りである」と言い切り、しかし、それを周囲に押し付けるのではない。「祈りでありたい」と願いつつ、それができていないのではないか、とご自身を問う姿勢が、そこにうかがえる。「心を寄せ続ける」にも同様に、一時にとどまらず、ずっと心を寄せ続けているだろうか、その人たちの身の上を自分は本当に理解できているだろうか、というご苦悩がうかがえる。

 ≪被災少女への皇后さまの視線≫

 「心を寄せ続ける」ことは簡単ではない。一時はできても、続けることは難しい。しかし、両陛下はそれをなさっている。人々の悲しみを受け止め、その「気」を心の中に擁しながら生活をされている。しかも、果たしてそれができているのか、と「恐れにも似た控えた気持ち」でご自身を問われている。これがどれほど被災者の心を慰め、勇気付けるものになっていることだろうか。

 皇后陛下が平成23年の大震災後に発表された「手紙」と題する御歌がある。

 「生きてるといいねママお元気ですか」文(ふみ)に項傾(うなかぶ)し幼な児眠る

 宮内庁が付した解説には、「東日本大震災に伴う津波に両親と妹をさらわれた四歳の少女が、母に宛てて手紙を書きながら、その上にうつぶして寝入ってしまっている写真を新聞紙上でご覧になり、そのいじらしさに打たれて詠まれた御歌。なお、少女の記した原文は、『ままへ。いきてるといいね おげんきですか』」とある。

 両陛下とともに被災地に心を寄せ続けたい。(やぎ ひでつぐ)