夕刻の備忘録 様のブログより。
臓器提供はすれども「名」は譲らぬ
新聞社が自らの「報道の意義」とやらを、その周辺に住む連中に色々と言わせて、勝手気ままな暴論を、天下御免の正論に変えようと必死に画策している。今時、元最高裁の判事だからといって身構える人も居なければ、東京大学の教授だからといって尊敬する人も居ない。にも関わらず、この人選である。虚仮威しも甚だしい。
東大出身の政治家達、その体たらくをみれば、卒業生もそこに残った教授連も大してレベルは変わらないだろうと誰もが思っている。既にバレているのである。何しろ、昔から東大の学生は、「遙か未来の原発事故まで見渡せるエスパー」なのである。グーグルアースを愛し、友愛を説き、火焔瓶を投げ、法を犯し逮捕されたにも関わらず、しっかりと法曹界に逃げ込む。そんな連中を育てた場だと、国民は既に知っているのである。
余りにもグダグダと長いので、途中を省略をしようと思ったら、全部略すことになってしまった。社名と論者の肩書きを見れば、多くの方は記事内容を読まずとも、我田引水の提灯対談だと予想されるだろう。事実その通りである。被害者のみならず、被害企業にまで、マスコミに協力せよ、組織として協力しないのはオカシイ、とヤクザ紛いの因縁を付ける連中である。
先ずは冒頭、「メディアスクラムの定義」からしてよく分からない。過熱しようがしまいが、各メディアが独自の見識を持つことをせず、徒党を組んで一方的な報道に一致団結することが問題であり、それがまさに「スクラム」の意味ではなかったのか。何時からスクラムが「過熱」に限定されるようになったのか。
「メディアフレンジー」などという、さらにどうでもよい言葉まで用意されているようだが、過熱が許されない最大の理由は、それが完全に無意味だからである。過熱の結果、スクープ狙いの結果、人を押しのけても手柄を立てたい浅ましい連中の、その結果によって各社が独自の報道内容を持つのなら、まだ救いはある。被害者にその人生を左右するほどのダメージを与えておきながら、過熱の末の結論は、各社右に同じの、揃いも揃っての「同一内容」ではないか。
★ ★ ★ ★ ★
連中の妄想に付き合っている暇はない。こちらはこちらで防衛するしか他に手はない。人権問題とやらを専門とする弁護士は、金の臭いに敏感な弁護士連中は、これを商売にしたらどうか。「被害者として実名報道されることを拒否する署名」を、法的に有効なものとして確立してくれれば、手間賃を払うつもりはある。それを携帯していれば、どんな事件・事故に巻き込まれても、実名を挙げられないという保証があれば、金を払ってでも購入したいと考える。
また、臓器提供のドナーカードに追記させて貰えないだろうか。この「サービス」があるだけで提供者は増えると考えるが如何だろうか。
「如何なる内容であれ報道されることを拒否します」と。
「家族、親族への取材も絶対に認めません」と。
そう追加してくれるだけでいいのだ。
何かといえば、人権人権と五月蠅く言う連中が、この件に協力しないのは矛盾である。遺産相続や、著作権の問題が大袈裟に論じられるその一方で、故人の名誉や、名を秘匿するという些細な希望までが簡単に踏みにじられている。
彼等は現実の生だけに価値を見る。それが左翼の左翼たる所以である。要するに「生き残った者勝ち」だと考えている。それが加害者であろうと「生き残れば保護の対象」であり、それが被害者であろうと死んだ人間には何の興味も持たない。言葉巧みに言い逃れはするが、彼等の認識では「負け犬」なのだ。故人の名誉など毛ほどにも考えないからこそ、「現世利益の人権教の教祖」になれるのである。
何故に、こんな連中の餌になる必要があるのか。誰にも知られず、静かに死ぬ権利はあるはずだ。死後の家族を護ること、その最初の最初が、理不尽な取材攻勢を堂々と、しかも法的に阻止することではないか。我が身は朽ち果てても、名まで捨てる気はない。名は譲らんと強調しておく。馬鹿の屁理屈に最期を穢される謂われはないのである。
東大出身の政治家達、その体たらくをみれば、卒業生もそこに残った教授連も大してレベルは変わらないだろうと誰もが思っている。既にバレているのである。何しろ、昔から東大の学生は、「遙か未来の原発事故まで見渡せるエスパー」なのである。グーグルアースを愛し、友愛を説き、火焔瓶を投げ、法を犯し逮捕されたにも関わらず、しっかりと法曹界に逃げ込む。そんな連中を育てた場だと、国民は既に知っているのである。
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201303030327.html犠牲者の氏名伝える意義は 朝日新聞「報道と人権委員会」
朝日新聞社の「報道と人権委員会」(PRC)は2月20日、「アルジェリア人質事件の犠牲者氏名の公表問題」をテーマに定例会を開いた。政府が日本人人質全員の氏名を非公表としていた時点での犠牲者氏名の報道の是非や、メディアの集団的過熱取材(メディアスクラム)対応などについて意見を交わした。
藤田博司委員(元共同通信論説副委員長)
宮川光治委員(元最高裁判事)
長谷部恭男委員(東京大学法学部教授)
以下略
余りにもグダグダと長いので、途中を省略をしようと思ったら、全部略すことになってしまった。社名と論者の肩書きを見れば、多くの方は記事内容を読まずとも、我田引水の提灯対談だと予想されるだろう。事実その通りである。被害者のみならず、被害企業にまで、マスコミに協力せよ、組織として協力しないのはオカシイ、とヤクザ紛いの因縁を付ける連中である。
先ずは冒頭、「メディアスクラムの定義」からしてよく分からない。過熱しようがしまいが、各メディアが独自の見識を持つことをせず、徒党を組んで一方的な報道に一致団結することが問題であり、それがまさに「スクラム」の意味ではなかったのか。何時からスクラムが「過熱」に限定されるようになったのか。
「メディアフレンジー」などという、さらにどうでもよい言葉まで用意されているようだが、過熱が許されない最大の理由は、それが完全に無意味だからである。過熱の結果、スクープ狙いの結果、人を押しのけても手柄を立てたい浅ましい連中の、その結果によって各社が独自の報道内容を持つのなら、まだ救いはある。被害者にその人生を左右するほどのダメージを与えておきながら、過熱の末の結論は、各社右に同じの、揃いも揃っての「同一内容」ではないか。
★ ★ ★ ★ ★
連中の妄想に付き合っている暇はない。こちらはこちらで防衛するしか他に手はない。人権問題とやらを専門とする弁護士は、金の臭いに敏感な弁護士連中は、これを商売にしたらどうか。「被害者として実名報道されることを拒否する署名」を、法的に有効なものとして確立してくれれば、手間賃を払うつもりはある。それを携帯していれば、どんな事件・事故に巻き込まれても、実名を挙げられないという保証があれば、金を払ってでも購入したいと考える。
また、臓器提供のドナーカードに追記させて貰えないだろうか。この「サービス」があるだけで提供者は増えると考えるが如何だろうか。
「如何なる内容であれ報道されることを拒否します」と。
「家族、親族への取材も絶対に認めません」と。
そう追加してくれるだけでいいのだ。
何かといえば、人権人権と五月蠅く言う連中が、この件に協力しないのは矛盾である。遺産相続や、著作権の問題が大袈裟に論じられるその一方で、故人の名誉や、名を秘匿するという些細な希望までが簡単に踏みにじられている。
彼等は現実の生だけに価値を見る。それが左翼の左翼たる所以である。要するに「生き残った者勝ち」だと考えている。それが加害者であろうと「生き残れば保護の対象」であり、それが被害者であろうと死んだ人間には何の興味も持たない。言葉巧みに言い逃れはするが、彼等の認識では「負け犬」なのだ。故人の名誉など毛ほどにも考えないからこそ、「現世利益の人権教の教祖」になれるのである。
何故に、こんな連中の餌になる必要があるのか。誰にも知られず、静かに死ぬ権利はあるはずだ。死後の家族を護ること、その最初の最初が、理不尽な取材攻勢を堂々と、しかも法的に阻止することではないか。我が身は朽ち果てても、名まで捨てる気はない。名は譲らんと強調しておく。馬鹿の屁理屈に最期を穢される謂われはないのである。