台湾228事件 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。





草莽崛起:皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ。 




2月28日なので、台湾二二八事件のことを書いておこうと思います。
この事件は、終戦の二年後、昭和22(1947)年2月28日に、台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった大きな事件です。

この事件は、その後約40年間にわたって、台湾を「戒厳令」下におくという結果を招きました。
「戒厳令」というのは、戦争のない時に、法を停止し、行政権・司法権の全部または一部を軍隊の司令官に委任する命令です。国家緊急権の制度といわれ、軍が政権を担う制度です。
そして228事件は、台湾大虐殺事件とも呼ばれています。



この事件を通じ、国を失うことの過酷さを少しでも感じていただけたらと思う次第です。

歴史を失った民族は滅びるといいます。
国民が大切に守らなければ消えてしまうことがあるのが、国家なのです。

地球上に過去200年間に存在した南太平洋の島々を除く国は、 210カ国です。
そのうち60カ国が消滅しています。
10数カ国は自発的に他国と合併して無くなり、 残る51カ国は近隣諸国からの軍事侵略 によっての消滅しています。

一昨日、補正予算案が参院を通過しましたが、たった1票差でした。
この補正予算に関する審議で、民主党など野党の質問を観ていて感じたのは、彼らのあまりの国家観のなさでした。
国なんてのはなくなったっていい、そういう理念がチラチラするのです。
私などからすると、とてもまともな国のまともな国会議員とは思えない。

世界市民を希求する、なんて綺麗ごとの理想論を本気で信じている人もいるようですが、すくなくともいまの世界の諸国は、日本ほど安心して住める国ではありません。

ご存知の通り戦前の台湾は、いまの九州や四国と同じく日本の一部でした。
もちろん教育も政治体制も、すべてが日本本土と同じ体制です。
当時の台湾の人々は、日本人そのものであったし、実際、自分たちは日本人と思っていました。

終戦によって日本と台湾は切り離され、日本には米軍が進駐し、同様に台湾には支那の蒋介石率いる国民党政権が占領軍として進駐してきました。
この支那進駐軍と、台湾人(旧日本人)との間に起こった大規模な抗争事件が、二二八事件だったわけです。

ことの起こりは、昭和20(1945)年8月15日にさかのぼります。
日本のポツタム宣言受諾により、台湾には、連合国軍の委託を受けた蒋介石国民党が、進駐しました。

当時、少なからぬ台湾人が、台湾の「祖国復帰」を喜んだといいます。
で、大陸から来た国民党政府の官僚や軍人らを港で大歓迎したのです。

実際に、この国民党が台湾にはじめてやってきた日のことを、台湾の楊素秋(ようそしゅう)さんがその著書で述べていますので、すこし引用してみます。

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中学校二年生の時、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので、早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。
しかし、先生も生徒も中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、ちんぷんかんぷんで全く分かりませんでした。
ただ、先生の発音を真似して歌っているだけでしたので、私はずいぶん年をとった後も、その歌の内容が分かりませんでした。

国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。
しかし、国軍はいつまで経っても来ませんでした。
それで、午後一時に来るから十時に再度集合ということになりました。
ところが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。

そこで、昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、全然来る様子はありません。
更に待つこと二時間、結局来た時には時計の針は五時を指していました。

日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく社会全体の雰囲気でした。
その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これが初めての「中国時間」の洗礼でした。

敗戦でシナ兵(中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。
私たちは『キング』や『少年クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来るシナ兵のイメージがものすごく強かったのです。
シナ兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いでこうもり傘を背中に差して裸足、というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。

不安な気持ちで一杯でした。

そういうシナ兵が潜在意識に植え込まれてはいましたが、本当に見た途端に、もうガックリしました。
これはヒドイ!と思ったのです。
出迎えに来ていたみんながみんな「うわー」と言ったのです。
恐ろしい光景に見えました。

それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いてピシッとしているものだと思っていました。
それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。
中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。

まるで乞食の行列でした。
そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。
今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。

女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。
台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。

(楊素秋著「日本人はとても素敵だった」)
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ところが、ことは身なりだけにとどまらなかったのです。
それ以上に、彼らの腐敗の凄まじさに、台湾の人々は驚きました。
軍人や官僚による、強姦・強盗・殺人、しかも犯人がわかっていても、彼らは絶対に罰せられません。
凶悪犯で罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは禁じられました。
今の日本で在日半島人や大陸人が重大犯罪を犯しても報道は日本人名で行われるのと同じです。

公共の資材が国民党官僚によって接収・横領される。
横領された物資は、上海の国際市場で競売にかけられ、そのため台湾の物価は高騰し、インフレによって企業の倒産が相次ぎます。
このため短期間のうちに失業も深刻化してしまったし、不正なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたく、人々の不満が、いやが上にも高まっていったのです。

昭和22(1947)年2月27日、台北市の街頭で、闇タバコを販売していたひとりの40歳で2人の子持ちの女性を、国民党の官憲が捕まえました。
女性は土下座して許しを懇願しました。
けれど取締官ら(取締官6名、警察官4名の計10名)は、よってたかって女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を全部没収したのです。

戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩は、大陸から来た国民党が強制的に専売にしたのです。
ところがそれと同じ時期、支那大陸では、それら自由販売が許されていました。
同じ中国人というのに、なぜ台湾だけが専売なんだ?
多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていたのです。
そこに、この殴打事件が起こったわけです。

ふだんからたまっている不満に加え、あまりの仕打ちに、タバコ売りの女性に同情し、その場に多くの台湾人が集まりました。
すると取締官らは、今度は民衆に向かって発砲したのです。
まったく無関係な、ある意味野次馬です。
その野次馬に向かって、発砲し、台湾人を射殺し、走って逃げたのです。

この事件をきっかけに、市民の怒りが爆発しました。
翌28日には、自然発生した抗議のデモ隊が、市庁舎へ大挙して押しかけたのです。
あたりまえのことだと思います。

ところが国民党は、市庁舎の屋上に機関銃を据え、武装もしていない市民に向けて、予告も警告もなしに、いきなり無差別な機関銃掃射を行なったのです。
次々と倒れる市民たち。
この掃射で、多くの台湾の市民が命を失いました。

ところが、です。
このときに機関銃掃射によって殺害されたり、傷を負ったりした人たちの数は、いまだにはっきりとしていないのです。
公表さえされていません。

これがどういうことかわかりますか?
殺された市民たちは、新たな支配者となった国民党にとって、人ですらなかったということです。

この事件が発端となって、政府関連の諸施設への抗議行動や、日本語と台湾語を解しない国民党要人に対する襲撃事件が、台湾全島で頻発しました。

市民たちはラジオ放送局を占拠し、軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送を行います。
この気持ち、わかりますか? 涙が出ます。

市民の圧力の前に劣勢となった国民党は、市民に対話を呼びかけました。
ところが、です。
対話を呼びかけたその一方で、在台湾行政長官兼警備総司令の陳儀(ちんぎ)は、当時支那本土にいた蒋介石に対して、次の電文を打っているのです。

「政治的な野望を持っている市民が、大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」
「市民が反乱を起こした」
「組織的な反乱」
「独立を企てた反逆行為」
「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」
そして、援軍の要請をしました。

蒋介石は、陳儀の電報をなんの検証もなしに鵜呑みにします。
そして翌3月、第21師団と憲兵隊を大陸から派遣したのです。

当時の台湾の市民は、日本の法治政治に慣れ、それを「あたりまえのもの」と考えていました。
だから、陳儀の対話姿勢に対して、素直に応じたのです。
ところが、その対話姿勢というのは、ただの時間稼ぎでしかなかった。

大陸から援軍が来ると、陳儀は、武器を持たない市民に向けて、容赦なく発砲をくり返しました。これには多数の証言が残っています。
そして、裁判官・医師・役人など、日本統治下で高等教育を受けたエリート層を、片端から逮捕投獄し、大陸流の酷い拷問を行って殺害しました。

さらに街頭に検問所を設け、北京語を上手く話せない台湾人を全て逮捕します。
逮捕した台湾人は、針金を手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称して、トラックに乗せ、そのまま基隆港に投げ込んで、溺死させました。(実話です)

こうして、この事件によって、約2万8000人の台湾人が殺害されました。
さらに、殺害された台湾人については、その財産は、すべて国民党の高官たちが個人的に摂取してしまいます。

さらに、表向き事件が収束したように見えた後も、日本統治時代を高く評価しようとする者に対しては、容赦ない「白色テロ」と呼ばれる粛清が行われました。
そして蒋介石は、台湾全土に戒厳令を発動。
この戒厳令は、その後なんと40年間も続けられたのです。

そして戒厳令が解除された後も、国家安全法によって言論の自由は制限されました。

台湾に「民主化」が実現するのは、李登輝氏が総統に就任後、平成4(1992)年になってようやく刑法を改正し、言論の自由を認めてからのことです。
ほんのつい最近の出来事なのです。

いま、日本に住む多くの日本人は、それでもなんだかんだいって、おかみは、民のためにあると、心のどこかで信じています。
だから、長く政権与党にあった政党に、ちょいとお灸をすえてやろう程度の軽い気持ちで野党に政権をとらしてみたらどうか? もともと野党にしたって、与党にいたひとたちじゃねぇか。そんなに悪いことなんてしやしねえよ、程度の感覚で、3年半前に民主党に政権を与えました。

メディアもそれをおもしろおかしく煽りました。
けれど、その結果何が起こったか。

そしていま、ようやく日本人による日本の政治が戻ろうとしているときに、いまだ民主党政権の時代がよかったと考えている、ほんのひとにぎりの馬鹿者が、メディアを利用して日本中で工作の毒牙をバラまいています。

わたしたちは、いま、こうして日本語を話し、平和な日本に暮らしています。
それができるのは、私たちの先人が、血を流して、必死に私達の国と文化を守ってきてくださったからです。

その日本という平和で、言論が自由で、安心して暮らせる国家を、次の世代につなげていく。
そのために日本を取り戻す。

やくざものは、「ちょっとくらいいいじゃねえか」といって入り込み、他人の生活を破壊します。
その「ちょっと」を許さない。凛とした態度が、おそらくいまの私たち日本人に求められています。

台湾については、これも以前書いたことですが、日本が昭和27年にまがりなりにも占領統治から外れたのに対し、同じ日本であった台湾は、戦後68年経った現在においてもなお、連合国(国民党)による占領が続いているということを、私達は理解する必要があります。

もちろん、支那本土を共産党が支配し、国民党が支那本土に戻れなくなったという点も見過ごすことはできません。
しかし、空気や水の汚染が深刻化し、徐々に人の住めない国になりつつある中共は、もはや政権として長く持たないであろうと予測します。
いくら国民を騙して尖閣等への覇権主義や反日暴動を煽ってみても、現実に人が住めない状況を招いた政治の責任から逃れることはできないからです。

支那は易姓革命の国です。
中共政府が天命を失ったとして倒れれば、次の政権にこれが取って代わられる。
その代わる相手は、国民党政権かもしれません。

つまり、台湾から国民党が支那に帰る日が来るのかもしれない。
であれば、いま台湾にいる国民党政権が支那本土に帰り、台湾は元台湾民で独立するか、あるいは再び日本に帰るかの選択が図れるようになっていくのかもしれません。

未来は、歴史に学びながら、意識して築くものです。
たとえ国であっても、いまある姿が未来永劫そのままでいるというものではありません。
その未来を築く責任が、実は、私達日本には、ほんとうはあるのだ、ということを私達は自覚していく必要があるのではないかと思います。