西村眞悟の時事通信 より。
昨日の産経新聞朝刊に、高校三年生で十八歳の久保田鈴之介さんが、一月三十日に亡くなったという記事と一年前に撮影した剣道着を着て竹刀を構えた彼の凛々しい写真が一面に載せられていた。
久保田君は、中学二年の時に小児ガンの一種である「ユーイング肉腫」という病に冒され病院での闘病生活に入った。
その生活の中で、病院内の院内学級でうけた理科の実験が「一生の思い出になった」と言っていたという。
しかし、高校生は院内学級の制度がなかった。
そこで、府立大手前高校に進学した久保田さんは、高校生が病院内で授業を受けることができる制度創設を働きかけ、その制度が生まれた。さらに彼は、自分自身が病気と闘いながら、難病に苦しむ子どもたちの環境改善を願って行動してきた。
そして、本年一月の大学入試センター試験を受験し、一月三十日に見守る周囲に親指を立てて「頑張る」というサインを送りながら息を引き取り天に帰った。
この久保田君の記事と写真が、心にしみて昨夜寝た。すると、未明、久保田君のことと私の亡くなった兄のことが重なって脳裏に浮かび起床した。
そこで、兄と希望学園のことを記しておきたい。
私の兄勇三は、昭和二十年八月、空襲から逃れた疎開先の奈良で生まれた。早産だった。
一年後か二年後か、成長が普通の子より遅れているようなので小児科にいくと、医者が「この子は脳性小児麻痺です」と母に言った。その時、兄は笑っていたという。それを見て医者は、「笑っているやん」と、母を慰めたという。障害が重度ではなく成長できると。
その三年後に、私が生まれた。
私の最初の記憶にある兄は、歩いていたが、何時も母が支えていた。阪和線の上野芝駅に向かう田圃の中の坂を母が兄を支えて一歩一歩歩いていて私が後ろから歩いていた。その時の不自由な兄と支える母の後ろ姿が今も瞼にある。
小児麻痺の子が入学できる小学校はなかった。
私が母についていって見た兄が通う学校は「希望学園」といった。
それは、阪和線の我孫子駅の西にある盲学校の校庭の端に建てられた小さな小屋だった。
数年前まで、南木隆治先生が、この盲学校に勤務されていたのでお訪ねし、母が小学校入学前の三、四歳の私を連れて兄を送り迎えしていた「希望学園」はどこに建っていたのだろうかと校庭を歩かせていただいた。
しかし、当時の情景がこみ上げてくるのだが、五十年前とは校庭の風景も変わっていて確認できなかった。
希望学園とは何だったのだろうか。
それは、当時、普通の小学校に入学させてもらえなかった子どもたちが大阪府の方々から通っていた小さな学校だった。
健常者の普通の感覚では驚いてまじまじ見てしまうような様々な障害をもった子が、二十名近く通っていた。そして、皆明るかった。兄も楽しく通い、家では一日の楽しい出来事を少々言語障害のある話し方で語っていた。
後年兄が言っていた。不自由な足でよちよちと、駅から学校まで歩いていると、盲学校の生徒(高校生)が、「見るに見かねて」、おんぶして学校まで連れてくれた。何故、全盲の人が、よちよち歩いているのが分かるのだろうかと。
この希望学園は、身体障害児を生んだ母親たちの熱意から生まれた。そして、現在、堺市の百舌鳥にある府立養護学校に成長してゆく。兄は、そこの中等部の一期生として入学した。
後年、弁護士時代に、かつて府立北野高校長などを歴任して大阪府教育長をしていた方(今、名前を思い出せない)の回顧録を偶然手にして読んだことがある。そこに、その方とお嬢さんが並んで映っている写真があった。その娘さんに見覚えがあった。上野芝の家の向かいに住んでいた方だった。
そして回顧録に、府立養護学校設立に関して、次の記述があった。
自宅の向かいの家に二人の幼い兄弟がいた。弟の方は、丸々と肥えて活発に走り廻っているのに、兄の方は障害があって痩せていて自分で歩くこともできない。そして、この障害のある子の修学のために養護学校設立の必要性を実感した。
この記述を読んだとき、まざまざと向いの家や幼い頃に住んでいた付近の情景が目に浮かんだ。とはいえ、お向かいの先生は、兄が障害の故に痩せていたと思っておられたらしいが、それは違う。兄は、亡くなるまで呑べいで痩せの大食いだった。
兄は、十七、八歳ころから足の指で筆を持って油絵を描き初め、以後二十数年、障害が進行して足でも筆が持てなくなるまで描き続けた。
そして、五年前に生涯を閉じ、生まれて初めて身体の障害から解放された。
百舌鳥にある府立養護学校は、支援学校というけったいな名前に変わった。しかし、生徒の送迎バスのえび茶色のラインが入っているデザインは懐かしい昔のままだ。