八田與一の手紙。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







台南の記念館で展示へ。地元の組合に寄贈。


草莽崛起:皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ。 
       戦前に台湾・台南市にダムを建設した八田與一の直筆の手紙 (三尾郁恵撮影)




日本統治時代、台湾南部で世界有数の烏山頭(うさんとう)ダム建設を指揮した土木技師、八田與一(はった・よいち)の直筆の手紙を、八田の同級生の遺族が保管していたことが分かり、台南の地元水利会(組合)に寄贈されることが13日までに決まった。地元は八田の手紙を所蔵しておらず、水利会では八田の命日である今年5月8日の慰霊祭に関係者らを台南に招き、授受の式典を行いたいと話している。

 手紙は1939(昭和14)年11月と12月の計2通。八田の東京帝大時代の同級生で、京浜工業地帯埋め立てを指揮した関毅(はたす)(1886~1939年)の急死を受け、台湾総督府から関の遺族に宛てて哀悼の意を表した。

 当時、関が専務(支配人)を務めた会社の後身、東亜建設工業の関係者が、関の遺族から「多くの人にみてもらいたい」と相談を受け、日台スポーツ・文化推進協会(東京)が仲介して嘉南農田水利会に連絡。八田の遺族にも了承を得たうえで寄贈が決まった。

 八田は手紙で関を「我々同窓生の中心」と評し、「突然の御成仏信じられざる思ひ」と心情を吐露。香典を送り、遺族の行く末を案じ、「無情であります」などの文面に八田の優しい人柄がにじみ出ている。

また八田の「サンドポンプ(嘉南大●)設計」の依頼に、関が死の直前、自社の台湾・高雄出張所に「御命じありし御手紙が絶筆と相成り」と触れ、関が八田の事業を支援したことなどもうかがえる。

 台湾に八田の遺品は少なく、同会は「大変貴重な史料」と喜んでおり、ダム近くの八田の記念館での展示などを検討。5月8日の式典には八田、関両家の子孫を招き「台南の人々との世代を超えた交流の機にしたい」と話している。(台北 吉村剛史)

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【プロフィル】八田與一

 はった・よいち 1886~1942年。石川県出身。東京帝大工学部土木科を卒業、台湾総督府で都市基盤整備に従事。1930年に完成した烏山頭ダムと総延長1万6000キロに及ぶ用水路「嘉南大●(かなんたいしゅう)」は不毛の地だった台南一帯を台湾最大の穀倉地帯に変え、業績は台湾の学校教育でも取り上げられている。

●=土へんに川