以上について事実関係を検証したいと思います。
まず、富貴江さんからの手紙を材料にして少しお話します。そして事件そのものについて、また最新情報について。
1ページ目の、3で、南浦(ナンポ)に着いたということについて。植民地時代は、鎮南浦(ちんなんぽ)と言われていたところです。大同江の下流にあります。つまり日本海側ではなく中国側の港です。
めぐみさんもそうだと言われていますし、蓮池さんや地村さんは帰ってきた後、上陸したのは清津(チョンジン)だと言っています。金賢姫は、自分は田口さんから清津に上陸したと聞いた、と本に書いています。しかし、ここでは南浦となっています。
南浦というのは既に報道もされていることですが、このことをどう見ますか。
◆拉致は宮崎からか新潟からか
惠谷 北朝鮮の工作員の出撃基地というのが、日本海側が2か所、清津と元山(ウォンサン)、中国側・黄海側に2つ、南浦と海州(ヘジュ)があります。それぞれの基地はすべて分担が明確に分かれています。南浦の工作員は韓国の南海岸担当で、東海岸と西海岸は別の担当です。南浦は、韓国の南海岸と、九州及び太平洋側を担当地域としています。
北の発表にもありますように、宮崎から拉致をしたとすれば、それはまちがいなく南浦に行きます。しかし、北朝鮮はこの文書の後に、もう一度外務省の調査官と話をした時は、海州に着いたと言っています。海州は韓国の西海岸だけを担当しており、九州に来ることはありません。だからまず、外務省の調査官に嘘を言っている。
以前から地村富貴江さんは、南浦に着いた八重ちゃんは言っていた、ということです。しかし、西岡さんが言ったように、金賢姫は八重子さんから直接、清津に着いた、と聞いています。船酔いして大変だった、ガリガリに痩せたということです。
清津というのは、日本担当だけで、東北、北陸、山陰の海岸を出入りする担当です。もう一つ、元山がありますが、元山は韓国の東海岸と山陰をカバーしています。日本海側で拉致された方はほとんど清津に上陸しています。八重子さんは、清津なのか南浦なのかという問題があります。
飯塚さんは別の集会で、南浦に上陸したとおっしゃっているのは知っていますが、個人的には清津ではないかと思っています。
それは先ほど朗読された、富貴江さんの証言の中で、「お前たちは工作員になるんだから生年月日を正確に言ってはいけない」と言われている。逆に言うと、北朝鮮が外務省に言ったように、海州とか南浦のシナリオを与えたのだと思います。
というのも、この証言にもありますが、南浦に着いたという話については、牡丹峰(モランボン)招待所で聞いた、と。もっと正確に言うと、牡丹峰招待所は1978年9月から、79年11月まで、富貴江さんと八重子さんが一緒にいた時に聞いています。
金賢姫と生活するようになったのは1981年から83年です。この間、八重子さんは金賢姫に、清津に着いた、と言っているわけです。二人とも嘘を言っているわけではない。ということはどういうことかというと、本当は清津に着いたが、最初に指導員から、正確なことをしゃべるな、誕生日も変えろと言われる中で、「お前は南浦に着いた」と。
その時点で、富貴江さんも八重子さんも、清津がどこで南浦がどこか明確に分かっていたかどうか。ですから、富貴江さんは、八重ちゃんは南浦に着いたと信じていると思います。一方金賢姫は、彼女は記憶力があり、頭がいいわけで、清津に着いたと八重子さんから聞いている。これが現実です。
西岡 私はそこまで断定できなくて、逆の可能性もあるのではないかとも思います。というのは、「産経新聞」の2009年3月11日に、「田口さんからこの話を聞いた被害者が政府関係者に証言していた」として、富貴江さんから日本政府が取材した内容だとして記事が出ているんです。
それによると、「知り合いの男性に九州に連れていかれた。工作員に引き渡され、北朝鮮に連れてこられたと田口さんが話していた」と、富貴江さんが政府に言っていたというものです。「政府関係者によると、田口さんが拉致された状況について告発されたのは平壌の牡丹峰招待所で一時期共同生活していた被害者」とあって名前が出ていないんですが、牡丹峰で共同生活していたとしたら富貴江さんしかいないわけですね。
「田口さんが工作機関の指導員から、日本人同士は互いに本名や生年月日、北朝鮮に来た経緯を話すなと厳命されていたため、共同生活を始めた当初は個人的なことは話さなかったが、次第にうちとけ、拉致された経緯についても言及した」ということです。
「帰国被害者の証言によれば、田口さんを九州に連れて行った男は、リムジンのような外車に乗っていた知り合いと話していた」という証言があります。かなり具体的で、九州という単語が出ていて、うちとけて本当のことを言い、金賢姫には違うことを言ったという可能性もあるのでは。
惠谷 もちろん可能性はあります。私が宮崎でないという理由が2つあります。一つはお母さんの故郷が佐渡ということです。新潟の佐渡に行こうと誘われた。これは誘いやすい。南浦が、韓国の西海岸のみならず日本の九州、太平洋岸を作戦地域にするのは面白いんです。つまり、日本人をさらうのは日本海だけで十分だからです。ところが監視が厳しくなる。あるは拉致の回数も増える。
西岡 市川さん、増元さんは南浦ですね。もちろんこれは分かってないんですが。地域的にあそこが清津とは考えられないでしょう。
惠谷 その通りですが、九州の大隈半島を越えて太平洋側に入るのは非常に危険なんです。宮崎からの拉致は原敕晁さんが最初ですが、辛光洙が作戦を立案した。九州まで連れ出すのに非常に苦労しています。そのことを考えると、八重子さんを説得するのに、九州にするだろうかというのが疑問です。だから清津ではないかと思いますが、もちろん分かりません。
西岡 政府のパンフレットやホームページを見ても、地図が出ていて、事件がどこで起きたのかが書いてあるんですが、田口さん事件については地図に示してないんです。まだ警察は、どこかということについて断定していないんです。そこで誰がどう拉致したかということに入りたいんですが、それは手紙と離れてしまうので、もう一度手紙に戻ります。
◆辛光洙が八重子さん、富貴江さんを教育
もう一つ、今度は6のところで、辛光洙が一緒に生活して監視していた。そして辛光洙から朝鮮語を習った、ということです。
また、「八重ちゃんが来る前に辛光洙といたので、工作員になるには……」となっていて、富貴江さんの方が、八重子さんと一緒になる前から辛光洙と一緒にいたということです。これは細かいことですが、今までなかった情報です。
しかし、辛光洙というのは我々がよく知っている名前です。原敕晁さんになりすまし、1985年に韓国で捕まった男です。富貴江さんが、「私を拉致した辛光洙」と書いているように、地村さんたちを拉致した犯人として日本の警察は国際指名手配をしています。
それだけではなく、曽我(ひとみ)さんの証言で明らかになっているのは、「めぐみさんと曽我さんが辛光洙から主体思想などを教えられた」ということです。そして、教えている時、めぐみさんが席をはずした時に、辛光洙がめぐみさんを指して、「あれは俺が拉致したんだ」と言ったと。曽我さんが、帰ってきてから証言しています。
この辛光洙という名前がどんどん出てきます。これをどう思いますか。
惠谷 辛光洙(シン・ガンス)は北朝鮮の007のような男で、工作員として優秀で、最終的に韓国で捕まって判決を受け、長期刑を受けていた中で(金大中大統領の)恩赦で北に戻されました。その裁判で、韓国は、第6次浸透と言いますが、6回日本に出入りしている。
西岡 飯塚耕一郎さんが来てくださいました(拍手)。上に上がってください。
惠谷 辛光洙を取り調べた当時の安全企画部は非常に厳しいと言われ、生まれた時からずっと取り調べます。どういう風に生活してきたか、と。1973年に最初に日本に潜入しています。その時の所属は人民軍偵察局の工作員でした。
それから3年後、金正日が工作機関の全権を握ります。そして本格的な拉致が始まるんですが、その時、1976年にすべての工作員を金正日が平壌に呼び戻します。全員を検閲した。その時に、辛光洙も帰りました。彼はうまく帰りましたが、帰り損ねて海岸をうろうろして捕まった工作員が、その年だけで4件あり
ます。
西岡 えっ。76年に日本の海岸で捕まった工作員が4件ですか。
惠谷 はい。そのくらい全員を呼び戻し、全員を点検した。その時大半が不合格だった。
西岡 我々がソウルで何回も会って工作機関の内部のことを教えていただいた金ヨンギュ先生も、金日成の時代の工作員で英雄称号をもらっていましたが、その時落とされたので頭にきて、仲間を射殺して韓国に帰順した。はっきりおっしゃらなかったですが、あの時自分の立場がおかしくなるということだったですね。時期的には、古い工作員を全部点検したのは間違いないですね。
◆原さん以外の拉致を隠し通した
惠谷 そういう点検の中で生き残った男は非常に優秀で、日本に潜入してからも女性に近づいて、非常に教育レベルも高く、めぐみちゃんに物理を教えたりすることができるインテリでもあった。
その男が、韓国の取り調べの中で、1977年7月から1年半、密封教育を受けていた、つまり工作員のアジトで社会に出ることもなく、そこで徹底教育を受けていたと証言した。それから原敕晁のために第2次潜入をします。
西岡 77年7月から密封教育を受けていたというのは嘘ですね。めぐみさんの拉致が事実なら。
惠谷 第1次潜入から帰国して、韓国安企部に対して自供した第2次潜入の間に、めぐみさんの拉致、地村さん夫妻の拉致をしています。
西岡 78年1月から80年2月まで、第2次密封教育を受けたと言っているんですね。これは嘘ですね。
惠谷 安企部に対しては、第1次密封教育と言った期間、実際は2回も日本に出入りしているんです。だけど安企部はその時に、めぐみちゃん拉致も地村さん拉致も知りませんから、そこは密封教育だったのかと、すっと通ったんです。
それから(安企部は)一番の事件である原さん拉致(80年)について、しつこく調べて、裏取りもできるくらい自供しています。つまり70年代後半をごまかしたのです。
西岡 整理すると、73年に第1次潜入した。76年に戻って教育を受けた。ここまでは韓国の取調べで本当のことを言った。その後、77年から79年までは北朝鮮にいて、密封教育を受けたと韓国の取調べで言ったし、判決でもそうなっている。そして80年4月に宮崎に入ったのが第2次だと言っているが、しかし、1次と2時の間にめぐみさんと地村さん夫妻を拉致したとすれば2往復していた、と。少なくとも1往復については証明されている。そういうことですね。
惠谷 伝聞情報ですが、めぐみちゃんについて「あれは俺がやった」というのも間違いなくその間潜入してやったということです。しかし、そのくらい考えて、韓国からの追求がない部分に関しては知らぬ、存ぜぬで通した。しかし、追求が厳しいところはきちんとしゃべったというのが、この判決文を読んで彼の人物像が見えると思います。
◆きちんと外交をしていれば、もっと早い段階で明らかに
西岡 逆に言うと、めぐみさん、曽我さんに辛光洙は会っているわけですね。教えてるんですから。それから富貴江さんと田口さんにも会っているわけです。そして原さん。認定被害者の5人について情報を持っている人が、2000年まで韓国にいたんですね。1985年に韓国で捕まって、2000年まで韓国にいたわけです。
しかし、彼は頑張ってしゃべらなかった。北朝鮮からすると、彼が完全に転向したら、拉致の実態が明らかになってしまう時限爆弾みたいな存在だったわけです。
2000年に金大中を平壌に読んだ時、金正日がこだわったのが、彼を含む韓国にいる北朝鮮の元スパイを北に戻すということだったわけです。非転向長期囚と言っていました。そして2000年に金大中がそれに応じて返してしまった。
これは拉致を隠蔽する側に金大中大統領は回ったということです。韓国の拉致家族の人たちは、平壌での第1回首脳会談の前に、金大中大統領に会いたいと、拉致を取り上げてほしいと言ったんですが、会ってもくれなかったし、拉致を議題にもしなかったんです。
金大中の太陽政策は、被害を受けている人たちを照らすのではなくて、北朝鮮の独裁者にだけ太陽を照らすんじゃないかという批判が、当時韓国の家族会や趙甲済(チョウ・ガプチェ)さんたちがしていました。
2000年には家族会・救う会がありましたから、私たちは韓国大使館に要請書を持っていったんですね。(辛光洙たちを北に)送らないでください、と。日本に送ってください、と。
その時私は調べて見つけたんです。1985年に、韓国当局が辛光洙を逮捕した時に、北朝鮮が声明を出しているんです。「辛光洙は北朝鮮人ではない、韓国のでっち上げだ」と。だからそのことも言って、韓国大使館に、「北朝鮮が返せと言っているのは北朝鮮人でしょう。北朝鮮が北朝鮮人ではないと言っている人をなぜ北に送るんだ」と。
そういうことを日本政府が、もっときちんと外交をしていれば、2000年の段階で、あるいはもっと早い段階で拉致の実態がもっと明らかになっていたということだと思います。
そして多分、辛光洙はもっと知っているんです。名前の出ている人以外のことも知っていると思います。何人いたのか、何のために拉致したのか。実際にしていた男ですから。大変、残念だなあと強く思っています。
(つづく)
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