夕刻の備忘録 様のブログより。
日本は「平和ボケ」であると言われて久しいが、その実態は「幸福ボケ」であることを理解している人は少ないようである。「平和ボケ」が、あまりに平和すぎて「平和の価値が分からなくなる」のと同様に、「幸福ボケ」とは、あまりに幸せすぎて、「幸福の価値が分からなくなる」のであるが、その前提である「日本の平和」ぶりを多くの人が肯定するのに比較して、「日本の幸福」を認める人は少ない。
それを頭で理解していても、なかなか言動には表れない。その結果、理解していたはずの「現実」が次第に怪しげなものに見えてきて、さらなる「ボケ世界」に引き込まれる。そういう気質の人を極めて多数見掛けるのである。
その筆頭、ボケの一大病巣は「改革狂」として現れる。今、目の前にある幸福が見えないから、「改革!」と口走るのであろう。その有難味を思わないから、「何々をやるしかない」という「しかない論」を主張するのであろう。
こうした論者が持ち出すのが、「世界との比較」である。世界、世界と言いながら、何故か隣国周辺しかサンプルに挙げない連中は捨てておき、アメリカがどうの、欧州がどうのと言って、日本をまな板の上に乗せるのであるが、それでは相手側のアメリカ人や、イギリス、フランス、その他ヨーロッパの人々は、それほど自国を誇り、「日本の不幸」を憐れんでいるのかといえば、「事実はその反対である」ことの方が多いのである。
要するに、「世界との比較」論は、当の「世界」に否定されているわけである。勿論、どの国にも優れている所、至らない所がある。それは当たり前のことである。しかし、優れている部分だけを輸入すれば、その長所が他国においても花開くのか、至らない部分だけを捨て去れば、全体の整合性を崩すことなく事態が改善されるのか。そんな都合の好い話は何処にも無い。無いからこそ、人類は二百近くの国に別れ、それぞれがそれぞれの立場を保ち、自分自身の手で未来を描く道を選んでいるのである。
要するに、他国との比較において、我が国の現状を憂いたところで、比較された国の方が迷惑なのである。我が国は世界最高レベルの、いや素直に「世界最高」と断言しても構わないほど「人の幸せ」に充ちた国である。各個人に降りかかる「不幸」や「矛盾」や「非道」を無視するというのではない。社会全体で抱えるべき問題が存在しない、というのでもない。そうした個別の問題、広く認知されている大小様々な問題より、それ以前の、それより遙かに大きな枠組としての「日本の幸せ」というものが存在するということを強調したいのだ。
人それぞれに感じ方は異なるだろう。しかし、およそ望むものが食えて、それが新鮮で安価でかつ旨く、しかも、大金持ちでなくとも、世界第一の衛生的な住環境が得られる。試験さえ通れば、どんな職業にでも就ける。世界中のスポーツが見事に混在して、目の前にある。それを自由に見ることが出来る。またプレーしてみたいと思えば、同好の士を求めることも容易い。静かに眠りについて、静かに目を覚ますことが出来る。
選挙目当て、票目当てではなく、誰も見ていない所で、総理大臣が道を譲ることも、初見の人の落とし物を拾って渡すことも、何の不思議もない、ごく当たり前の光景に感じる。大企業の社長会長が、現場の作業員と共に食事をする。野次を飛ばされ、笑っている。そんな社会に私達は住んでいる。我が国に絶対権力者は存在しない。
人を羨むことも恨むこともなく、それぞれの環境で楽しみながら、自らの人生を全うしていく人が、周りをみれば何処にでも存在している。平凡であることを、普通であることを、時に話題にしながらも、決して自虐的ではなく、その有難味を身に滲みて感じ、その有難味を感謝の言葉として残して逝かれる。最も平凡にして最も偉大な人生を歩む人を見付けるのに苦労しない。周りを見ても、親戚を辿っても、容易に見付かる。そこに日本の幸せがある。そこに日本の底力がある。
★ ★ ★ ★ ★
我々は「庶民の国」に住んでいる。私個人が変われば、それがそのまま社会全体に影響を与える「静かな環境」が存在している。軍事独裁されている国家や、未だ普通選挙も行えない国家とは、わけが違うのである。他人の幸福を羨み、妬み、何とかしてそれを奪うことだけが、「己の満足」となるような民族や国家とは違うのである。
そうした「日本の幸せ」、日本人であることの幸福を真剣に考えれば、一つのピースを動かすにも慎重でなければならないことが分かるだろう。「現状を変える」という人が、変えた現状は如何なる未来なのか。その未来に今の幸福は持ち越されるのか。最近では、それを保証しないことが正直の証であるかの如く詭弁を弄するものが増えてきたようである。「傷みを伴う」だとか、「自己責任」だとか言えば、現状回復の責任から免れるという寸法である。
他人に「痛みに耐えろ」と叫ぶ人間が蒙っている「痛み」は何か。自分は無傷で、他人に痛みを強いているのか。批判に晒される如きは、痛みの中には入らぬだろう。他人の職を奪う人間は、己の職も奪われる。他人を路頭に迷わせば、自分もまた世を彷徨わねばならぬ、そんな道理が通っているだろうか。とてもそうは見えない、
自分達だけはしっかりとした退避場所を持っている。保険を掛けている。そんなカラクリに気づかず、今ある幸福に思いも至らず、煽動にのって、己の足下を自ら崩していく。そうした人が絶えないのは、偏に自らの幸福、日本という国の途轍もない幸せが理解されていないからだろう。故に「世は幸福ボケ」と言いたいのだ。
大枚を叩いて旅行に行き、帰るや否や「やっぱり自宅が一番!」と呟くことが出来るのは、「変わらない自宅」があるからである。旅行中に他人に自宅を改造されてしまえば、戻る家も無くなってしまう。あの懐かしい生活も無くなってしまう。選挙に行く、投票をするということは、こうした「自宅改造の権限」を候補者に委ねるということなのだ。
その恐ろしさに未だ思いが至らない、それを「幸福ボケ」というのである。自らのおかれた「幸福」を理解せず、しかしながら、その幸福感ゆえに安易に他人を受け入れる、我が国独特の症状である。「色々と気に入らない部分があるから、自宅を改造してくれるのは大歓迎」などという暢気な人が身近にいれば、「その改造には自宅が無くなることも含まれるのですよ」と諭して欲しい。その害は必ずあなた自身にも向かうはずだから。日本という「家」は少数の権力者のものではない、我々日本国民全てのものである。家具の位置一つを変えるにも長い議論を尽くすべき、大切な大切な我が家なのである。
それを頭で理解していても、なかなか言動には表れない。その結果、理解していたはずの「現実」が次第に怪しげなものに見えてきて、さらなる「ボケ世界」に引き込まれる。そういう気質の人を極めて多数見掛けるのである。
その筆頭、ボケの一大病巣は「改革狂」として現れる。今、目の前にある幸福が見えないから、「改革!」と口走るのであろう。その有難味を思わないから、「何々をやるしかない」という「しかない論」を主張するのであろう。
こうした論者が持ち出すのが、「世界との比較」である。世界、世界と言いながら、何故か隣国周辺しかサンプルに挙げない連中は捨てておき、アメリカがどうの、欧州がどうのと言って、日本をまな板の上に乗せるのであるが、それでは相手側のアメリカ人や、イギリス、フランス、その他ヨーロッパの人々は、それほど自国を誇り、「日本の不幸」を憐れんでいるのかといえば、「事実はその反対である」ことの方が多いのである。
要するに、「世界との比較」論は、当の「世界」に否定されているわけである。勿論、どの国にも優れている所、至らない所がある。それは当たり前のことである。しかし、優れている部分だけを輸入すれば、その長所が他国においても花開くのか、至らない部分だけを捨て去れば、全体の整合性を崩すことなく事態が改善されるのか。そんな都合の好い話は何処にも無い。無いからこそ、人類は二百近くの国に別れ、それぞれがそれぞれの立場を保ち、自分自身の手で未来を描く道を選んでいるのである。
要するに、他国との比較において、我が国の現状を憂いたところで、比較された国の方が迷惑なのである。我が国は世界最高レベルの、いや素直に「世界最高」と断言しても構わないほど「人の幸せ」に充ちた国である。各個人に降りかかる「不幸」や「矛盾」や「非道」を無視するというのではない。社会全体で抱えるべき問題が存在しない、というのでもない。そうした個別の問題、広く認知されている大小様々な問題より、それ以前の、それより遙かに大きな枠組としての「日本の幸せ」というものが存在するということを強調したいのだ。
人それぞれに感じ方は異なるだろう。しかし、およそ望むものが食えて、それが新鮮で安価でかつ旨く、しかも、大金持ちでなくとも、世界第一の衛生的な住環境が得られる。試験さえ通れば、どんな職業にでも就ける。世界中のスポーツが見事に混在して、目の前にある。それを自由に見ることが出来る。またプレーしてみたいと思えば、同好の士を求めることも容易い。静かに眠りについて、静かに目を覚ますことが出来る。
選挙目当て、票目当てではなく、誰も見ていない所で、総理大臣が道を譲ることも、初見の人の落とし物を拾って渡すことも、何の不思議もない、ごく当たり前の光景に感じる。大企業の社長会長が、現場の作業員と共に食事をする。野次を飛ばされ、笑っている。そんな社会に私達は住んでいる。我が国に絶対権力者は存在しない。
人を羨むことも恨むこともなく、それぞれの環境で楽しみながら、自らの人生を全うしていく人が、周りをみれば何処にでも存在している。平凡であることを、普通であることを、時に話題にしながらも、決して自虐的ではなく、その有難味を身に滲みて感じ、その有難味を感謝の言葉として残して逝かれる。最も平凡にして最も偉大な人生を歩む人を見付けるのに苦労しない。周りを見ても、親戚を辿っても、容易に見付かる。そこに日本の幸せがある。そこに日本の底力がある。
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我々は「庶民の国」に住んでいる。私個人が変われば、それがそのまま社会全体に影響を与える「静かな環境」が存在している。軍事独裁されている国家や、未だ普通選挙も行えない国家とは、わけが違うのである。他人の幸福を羨み、妬み、何とかしてそれを奪うことだけが、「己の満足」となるような民族や国家とは違うのである。
そうした「日本の幸せ」、日本人であることの幸福を真剣に考えれば、一つのピースを動かすにも慎重でなければならないことが分かるだろう。「現状を変える」という人が、変えた現状は如何なる未来なのか。その未来に今の幸福は持ち越されるのか。最近では、それを保証しないことが正直の証であるかの如く詭弁を弄するものが増えてきたようである。「傷みを伴う」だとか、「自己責任」だとか言えば、現状回復の責任から免れるという寸法である。
他人に「痛みに耐えろ」と叫ぶ人間が蒙っている「痛み」は何か。自分は無傷で、他人に痛みを強いているのか。批判に晒される如きは、痛みの中には入らぬだろう。他人の職を奪う人間は、己の職も奪われる。他人を路頭に迷わせば、自分もまた世を彷徨わねばならぬ、そんな道理が通っているだろうか。とてもそうは見えない、
自分達だけはしっかりとした退避場所を持っている。保険を掛けている。そんなカラクリに気づかず、今ある幸福に思いも至らず、煽動にのって、己の足下を自ら崩していく。そうした人が絶えないのは、偏に自らの幸福、日本という国の途轍もない幸せが理解されていないからだろう。故に「世は幸福ボケ」と言いたいのだ。
大枚を叩いて旅行に行き、帰るや否や「やっぱり自宅が一番!」と呟くことが出来るのは、「変わらない自宅」があるからである。旅行中に他人に自宅を改造されてしまえば、戻る家も無くなってしまう。あの懐かしい生活も無くなってしまう。選挙に行く、投票をするということは、こうした「自宅改造の権限」を候補者に委ねるということなのだ。
その恐ろしさに未だ思いが至らない、それを「幸福ボケ」というのである。自らのおかれた「幸福」を理解せず、しかしながら、その幸福感ゆえに安易に他人を受け入れる、我が国独特の症状である。「色々と気に入らない部分があるから、自宅を改造してくれるのは大歓迎」などという暢気な人が身近にいれば、「その改造には自宅が無くなることも含まれるのですよ」と諭して欲しい。その害は必ずあなた自身にも向かうはずだから。日本という「家」は少数の権力者のものではない、我々日本国民全てのものである。家具の位置一つを変えるにも長い議論を尽くすべき、大切な大切な我が家なのである。