志村立美-初詣
お町さんのお話がでましたので、もうひとつ戦時の女性のことを書いてみたいと思います。
それは、ミャンマーと支那の国境近くで行われた拉孟(らもう)の戦いのことです。
ここでも15名の日本人女性が犠牲になっています。
この戦いは、昭和19年の6月から9月まで、なんと120日間にわたって行われた壮絶な戦いです。
最後には、この15名の女性を含む日本軍守備隊1280名が、全員散華されています。
守備隊は、この援蒋ルートを遮断しようと派遣された小規模な部隊でした。
海上にある島と異なり、陸戦というのは、ある意味、逃げようと思えばいくらでも逃げれることができます。
けれど日本陸軍の兵士たちは、女性を含め、最後の最後のひとりまで、戦い抜かれています。
守備隊の1280名のうち、300名はほとんど体の動かない傷病兵です。
けれど、ぜがひでも援蒋ルートを確保したい蒋介石は、そこに5万の雲南遠征軍を差し向けました。
雲南遠征軍というのは、蒋介石の直下の最強軍です。
訓練は、米軍のジョセフ・スティルウェル米陸軍大将が直接行いました。
装備も米軍式で、最新鋭です。
それが、わずかな装備、わずかな人数で立て篭る拉孟の日本守備隊に襲いかかったのです。
その5万の雲南遠征軍に、信じられないことですが、拉孟守備隊は、各地の玉砕戦で最長といえる120日間もの間、この地を死守したのです。
そして最後の最後の突撃のとき、女性たちも一緒になって突撃を行ってい、敵の銃弾に倒れました。
女性たちは、戦士となって亡くなられたのです。
あえて「戦士」と書きました。
15名は、もともとは慰安婦、つまり売春婦の女性たちです。
けれど彼女たちはまさに闘神となって、ともに戦い、傷つき、散華されたのです。
拉孟(らもう)守備隊が、もはや生き残りが数十名となった戦いの末期に、飛行機で拉孟守備隊に物資を届けたパイロットがいます。
小林中尉といいます。
中尉は、戦後も生き残り、このときの手記を残しています。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。上半身裸体の皮膚は赤土色。T型布板を敷くため、一生懸命に動いている。
スコールのあとでもあり、ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、私は心から手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた。
その時、私の印象に深く残ったものに、モンペ姿の女性が混じって白い布地を振っている姿があった。
思うに慰安婦としてここに来た者であろうか、やりきれない哀しさが胸を塞いだ」
兵隊たちや女性たちが、一心に手をちぎれるほど振り、声を上げ感謝しているその姿に、小林中尉は眼に熱いものが溢れてかすみ、敵が高射砲をバンバン撃ってきているのに、手袋をぬいでいくら眼をこすっても眼が見えなくなったそうです。
そして、このとき上空からみた拉孟の様子は、想像絶する光景でした。
拉孟(らもう)の陣地の周囲が、全部、敵の陣地と敵兵によって、びっしりと埋め尽くされているのです。
敵は5万人の兵力です。さもありなんです。
小林機は、低空から2個の弾薬筒を無事投下しました。
けれど、小林中尉は、涙をぬぐった眼でしっかりと、この何分か、何十分後かに戦死しているかもしれない戦友たちの顔を心に刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにするのだけれど、あとからあとから溢れるもので眼がかすみ、どうにもならなかったそうです。
熱い思いに駆られた小林中尉は、弾薬筒を投下したあと、直ちに戦場を離脱すべしとの軍命令にもかかわらず、敵高射砲の弾幕をくぐって急降下し、猛然とあらんかぎりの銃弾を敵陣に叩き込まれたそうです。
敵弾が愛機の機体を貫きました。
敵の弾が中尉の体もかすめました。
それでも小林中尉は、まなじりを決して、弾倉が空になるまで、あらん限りの銃弾を撃ち続けています。
その気持ちは、痛いほどわかる気がします。
その女性たちの中に、菅昭子(すがあきこ)という女性がいました。
たいへんな美人だったそうです。
ところがその昭子さんには、日本兵の中に敵がいました。戸山伍長です。
戦いの前、彼は折に触れては昭子さんをいじめていました。
あるときなどは、戸山伍長は昭子さんに「おまえは道具じゃないか」と罵ったそうです。
腹をたてた昭子さんは、それ以後、戸山伍長がいくら金を払うと言っても、一切そばへも寄せ付けなかったのだそうです。
戦いがはじまり、激戦の中で、その戸山伍長は爆風をあびて両目を失いました。
激しい戦いの中で、けが人の看護をしていた昭子さんのもとに、その戸山伍長がやってきました。
そこでお二人は、結婚を約束しています。
戸山伍長が、ほんとうは昭子さんのことが好きで好きで、昭子さんにあたっていたことを、ちゃんと昭子さんもわかっていたのです。
そして昭子さんも、ほんとうは男っ気の強い戸山伍長のことが大好きだったのです。
二人は、戦いの中で、仲間たちに祝福されて、三三九度の盃をかわしました。
もちろん戦場でのことです。
結婚しても、もはや夫婦の契りを結ぶことはできないし、幸せな家庭も、小さな赤ちゃんも、二人には望むべくもありません。
けれどもし来世があるのなら、その来世で心も体も真実の夫婦となりたい。
二人は、隊長に真顔で、そう申し出たそうです。
数日後、戦場に、戸山伍長とそばに寄り添う妻昭子さんの姿がありました。
全盲の戸山伍長の眼になって、手榴弾投擲の方向と距離を目測し、伝えていたのです。
その日の、第三波の敵が来襲しました。
敵の甲高い喚声を聞いた戸山伍長は「少年兵?」と昭子さんに聞いたそうです。
そして手榴弾の信管を抜こうとした手を一瞬止めました。
砲弾が唸る中、昭子さんは「十五、六の少年兵ばかりですよ」と叫びました。
敵兵とはいえ、年端もいかぬ子供を攻撃することに、戸山伍長は一瞬躊躇しました。
そのとき、敵少年兵の投げた手榴弾が夫婦の足元に転がってきたのです。
昭子さんは凍りついたそうです。
次の瞬間、手榴弾は轟音とともに炸裂しました。
こうして、戸山伍長、昭子夫妻はともに壮烈な戦死を遂げられています。
戦場で、死を待つばかりで子を持つことも許されない、戸山さんと昭子さんのご夫婦は、たとえ敵といえども、少年を殺すということがはばかられたのでしょう。
もともと、売春婦として拉孟に来ていた日本人女性たちは、戦いが始まるずっと前に、ここは戦場になる。危ないから帰れと、命令されていたのです。
ところが彼女たちは帰らなかった。
彼女たちは逆に「あたしたちを殺す気ですか」と、大変な剣幕で食って掛かったそうです。
拉孟にいたら、絶対に生きて帰ることはできない。
なのに「あたしたちを殺す気ですか」というのは、拉孟で家族のように親しくしていた仲間たちと、たとえ死の危険が迫っているといっても、たとえ死ぬとわかっていても、そこを離れるということは、彼女たちにとっては、たとえ肉体が行きていたとしても、自らの心が死ぬことを意味したのです。
だから無理に帰そうとすれば、女たちはかえって薄情だと怨む。
彼女たちは、自分たちも守備隊家族の一員と考えていたのです。
ちなみに、こうして拉孟に残った女性は15名です。
もともとは、20名いました。
全員が慰安婦です。敵がくる前までは朝鮮人慰安婦もいました。
けれど彼女たちは、敵が攻めて来るとわかると、サッサと逃げてしまっています。
当時の朝鮮人は日本人でした。けれどやはり、皇国の民と、半島人では、根本のところに違いがあるのかもしれません。
昔の人は、それを指して、胸に「心(しん)がある」という言葉で表現していました。
同じ人間でも、たとえ泥まみれの兵士となってでも、日本のために戦おうと残った日本人女性と、敵が来るとわかってサッサと逃げ出した朝鮮人慰安婦。そこには、なにか大きな違いがあるのかもしれません。
ちなみに売春婦というと、それだけで眉をしかめる方もおいでになるかもしれません。
けれど軍というのは、若い男性の集合体です。
しかも戦いを前にし、死ぬとわかる、つまり自分の命の炎が消えるということを本能が理解すると、人は自分の遺伝子を残そうという本能がはたらくのだそうです。
つまり、強烈に性を求めるようになる。
女性の方には、男性のそういう本能はすこし理解しにくいかもしれませんが、若い男性にとって精が溜まって来た状態というのは、下痢して洩れそうになっているのと同じ状態で、なんとしても溜まったものを排出しなければならなくなるものです。
しかもそれが戦地ともなれば、人はもともと自分の遺伝子を残すことで種を保存してきているわけですから、その性への衝動は、また格別なものとなります。
ですから、世界中どこの国でも、かつては軍のいるところ、かならず売春宿ができました。
軍のいるところにそういう施設がなかったのは、ソ連軍と支那軍くらいなものです。
なぜソ連や支那にはそれがなかったのかといえば、答えは簡単で、彼らにはお金を払う売春宿は必要なかった。
むしろ性を押さえることで、戦いに勝てば、敵国の民間人女性を死ぬまで強姦する権利が認められるという軍制をひいていたからです。
民間施設でお金を払っておとなしく処理をしようとする国と、敵を強姦しまくることで処理をしようという国と、どちらが野蛮なのか。
私は、その違いは五十歩百歩とかいうような微細な違いではなく、国として、国家として、あるいは人としての選択の問題ではないかと思います。
最後の突撃の日のことです。
先頭には、その時点で責任者となっていた真鍋大尉が立ち、その後ろに連隊旗手として黒川中尉が続きました。その後ろを、かろうじて動ける兵たちが、一塊になりました。
突撃の前に、意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺して殺しました。
自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えて自決しました。
そしてこのとき、生き残っていた女性たちは、何より大切にしていた晴着の和服に着替えたそうです。
そして戦場のすすで汚れた顔に、最後の化粧として、口紅だけをひきました。
そして、全員、次々に青酸カリをあおりました。
この日まで、喜びも悲しみも共有してきたのです。
辛さも苦しさも分け合ってきた。
その彼女たちは、ともに戦い続けた男たちの運命に殉じ、あとを追ったのです。
真鍋大尉以下の最後の日本兵たちは、雲南遠征軍の大集団のなかに消えていきました。
この物語には、後日談があります。
玉砕の当日、命令を受けた木下中尉が決死の脱出を試み、奇跡としか言いようのない生還を果たしたのです。
木下中尉は、辛うじて味方の第56師団の前線に辿り着きました。
そして戦闘の様相を克明に報告されました。
重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有様、空中投下された手榴弾に手を合わせ、一発必中の威力を祈願する場面、弾薬が尽きて敵陣に盗みに行く者、そして15名の女性たちが臨時の看護婦となって、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働いた姿などです。
報告を受けた56師団の人たちも、語る木下中尉も、ただただ涙あるばかりだったそうです。
この戦いの中、蒋介石が次のような督戦状を発しています。
「騰越(とうえつ)および拉孟においては、我が優秀近代化の国軍をもってしても、日本軍はなお孤塁を死守している。
(中略)このような有り様では国軍の名誉を失墜するだけでなく中国の世界的地位をも疑われるようになる。(中略)ミートキーナ・拉孟・騰越を死守している日本軍人精神は、東洋民族の誇りであることを学び、これを範として我が国軍の名誉を失墜させないよ」
この督戦状は、もちろん蒋介石が、支那国民党の将兵に向けて、督戦のために出したものです。
けれど、その内容は、逆に日本陸軍の優秀さ、すごさを讃える内容になってしまったことから、この書状は、後に「蒋介石の逆感状」と呼ばれるようになりました。