夕刻の備忘録 様のブログより。
有害無益の「ぶら下がり取材」が終わろうとしている。社会人としての常識も、一般教養も無い新人記者達に、予め本社が質問事項を限定した上で、「取材」に当たらせている。何のことはない、我々の代表たる内閣総理大臣を利用して「社員教育」「新人研修」をやっていたのだ。
その目的は「何かを聞き出すこと」にはない、単にイライラさせて、そこから失言を引き出すこと。あるいは自分達を窘める総理の姿を、斜めから切り貼りして、如何にも傲岸不遜の暴君であるかの如く印象操作すること、その映像を残すことである。これを元に夕方のニュースは組まれる。そして週末、それらをさらに加工し、まとめたものが、「ニュースショー」のメインを飾る。そうして、「国民不在の政治」「庶民感覚のない総理」とやらがでっち上げられるのである。
その目的は「何かを聞き出すこと」にはない、単にイライラさせて、そこから失言を引き出すこと。あるいは自分達を窘める総理の姿を、斜めから切り貼りして、如何にも傲岸不遜の暴君であるかの如く印象操作すること、その映像を残すことである。これを元に夕方のニュースは組まれる。そして週末、それらをさらに加工し、まとめたものが、「ニュースショー」のメインを飾る。そうして、「国民不在の政治」「庶民感覚のない総理」とやらがでっち上げられるのである。
首相「ぶら下がり取材」改めて拒否、FBで示す
安倍首相は9日、会員制交流サイト「フェイスブック」で、首相官邸で立ち止まって記者団の質問を受ける「ぶら下がり取材」について、「世界でこの様な対応をしている国はない」として、応じない意向を改めて示した。
「首脳の発言は重く、国益に対する影響を考えれば、情勢を把握し熟慮したものでなければならない」とし、「首脳としてコメントすべきで無い事もある」とも付記した。(2013年1月9日21時02分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130109-OYT1T00996.htm?from=ylist
「改めて拒否」とタイトルにある。そこから、マスコミが再三に渡って、「ぶら下がり」の要求を続けてきたであろうことが伺い知れる。就任直後から要請を受けていた問題であるが、これを首相が「改めて」明確に拒否した、ということである。当たり前の話である。もうこれ以上、総理大臣を「研修の道具」に使われては堪らない。
しかも、それで新人が「一人前の記者」になるというのならまだしも、「一人前の反日妄想家」が出来上がるだけなのだ。自ら好んで「羽織ゴロの世界」に飛び込んだ「自称優等生達」が、この種の洗脳教育を受けながら、有能な政治家と己の凄まじい能力の差に直面し、怯え戦いた結果、虚勢を張ることしか出来ない人格が完成して、生来の妄想癖に益々拍車が掛かるという寸法である。
しかし、マスコミが、この「拒否」を得意の大騒動に持ち込めないのは、前二代の民主党政権下で「既に拒否されていた」にも関わらず、その時点で、やれ「取材の自由だ」「権利の侵害だ」などと大騒ぎして、復活させることが出来なかったことによっている。
民主党政権下では騒ぎを起こさず、自民党政権下では騒ぎにする、という手法は既に当たり前のように行われているが、それでもやはりこの問題のように、マスコミのダブスタ(ダブルスタンダード)は、「彼等自身にとっても引け目に感じる時がある」という一つの証拠である。
我々は確かに「忘れやすい国民性」を持っている。「好い結果を忘れること」は、現状に停滞せず、次へのステップに逸早く進めるという長所がある。しかし、「悪い結果を忘れること」は、敵に対して隙を見せることになる。嫌がらせやイジメを助長させてしまうことにもなる。苦労して得たものも、その苦労を簡単に忘れ、盗まれても騙されても、その苦痛をも容易に消し去ってしまう。「毒餃子」を食わされていながら、今なおその国の食材を購入するなど、まさに「命知らずの忘却癖」である。
従って、安倍首相就任直後の今だからこそ、マスコミの捏造・偏向報道を大いに期待するのである。今ならまだ覚えている人がいる。鳩山や野田がそれまでの慣例を無視して、退任記者会見を拒否したことや、その他無数の悪行がマスコミにより見逃されてきたことなど。それらのことが国民の頭の片隅に残っている今だからこそ、「捏造・偏向大歓迎」なのである。「説明責任」や「任命責任」といった言葉も死語になった。その「懐かしのメロディ」に、国民が郷愁を感じている今こそが、マスコミのダブスタを広く知らしめる「最後の大チャンス」なのである。
週刊朝日は、実に有難いことに、このダブスタを「表紙写真」として見事に映像化し、後世のために残してくれている。安倍、麻生と鳩山の対比、そして再び安倍へと繋がる一連の「作品」は、まさに「マスコミのダブスタの歴史」そのものであり、見事な記録映像である。マスコミが中立でも公正でもないことを、自ら明らかにしてくれているのだ、これを利用しない手はあるまい。
碌に公務をせず、引き籠もっていた民主党総理どもを、批判一つせず放置してきたマスコミが、今になって総理の働きぶりを云々するなら、新旧の「首相動勢」を左右に並べ、比較してやれば事は済む。その表紙に、週刊朝日の画像は実に相応しいのである。
「改めて拒否」とタイトルにある。そこから、マスコミが再三に渡って、「ぶら下がり」の要求を続けてきたであろうことが伺い知れる。就任直後から要請を受けていた問題であるが、これを首相が「改めて」明確に拒否した、ということである。当たり前の話である。もうこれ以上、総理大臣を「研修の道具」に使われては堪らない。
しかも、それで新人が「一人前の記者」になるというのならまだしも、「一人前の反日妄想家」が出来上がるだけなのだ。自ら好んで「羽織ゴロの世界」に飛び込んだ「自称優等生達」が、この種の洗脳教育を受けながら、有能な政治家と己の凄まじい能力の差に直面し、怯え戦いた結果、虚勢を張ることしか出来ない人格が完成して、生来の妄想癖に益々拍車が掛かるという寸法である。
しかし、マスコミが、この「拒否」を得意の大騒動に持ち込めないのは、前二代の民主党政権下で「既に拒否されていた」にも関わらず、その時点で、やれ「取材の自由だ」「権利の侵害だ」などと大騒ぎして、復活させることが出来なかったことによっている。
民主党政権下では騒ぎを起こさず、自民党政権下では騒ぎにする、という手法は既に当たり前のように行われているが、それでもやはりこの問題のように、マスコミのダブスタ(ダブルスタンダード)は、「彼等自身にとっても引け目に感じる時がある」という一つの証拠である。
我々は確かに「忘れやすい国民性」を持っている。「好い結果を忘れること」は、現状に停滞せず、次へのステップに逸早く進めるという長所がある。しかし、「悪い結果を忘れること」は、敵に対して隙を見せることになる。嫌がらせやイジメを助長させてしまうことにもなる。苦労して得たものも、その苦労を簡単に忘れ、盗まれても騙されても、その苦痛をも容易に消し去ってしまう。「毒餃子」を食わされていながら、今なおその国の食材を購入するなど、まさに「命知らずの忘却癖」である。
従って、安倍首相就任直後の今だからこそ、マスコミの捏造・偏向報道を大いに期待するのである。今ならまだ覚えている人がいる。鳩山や野田がそれまでの慣例を無視して、退任記者会見を拒否したことや、その他無数の悪行がマスコミにより見逃されてきたことなど。それらのことが国民の頭の片隅に残っている今だからこそ、「捏造・偏向大歓迎」なのである。「説明責任」や「任命責任」といった言葉も死語になった。その「懐かしのメロディ」に、国民が郷愁を感じている今こそが、マスコミのダブスタを広く知らしめる「最後の大チャンス」なのである。
週刊朝日は、実に有難いことに、このダブスタを「表紙写真」として見事に映像化し、後世のために残してくれている。安倍、麻生と鳩山の対比、そして再び安倍へと繋がる一連の「作品」は、まさに「マスコミのダブスタの歴史」そのものであり、見事な記録映像である。マスコミが中立でも公正でもないことを、自ら明らかにしてくれているのだ、これを利用しない手はあるまい。
碌に公務をせず、引き籠もっていた民主党総理どもを、批判一つせず放置してきたマスコミが、今になって総理の働きぶりを云々するなら、新旧の「首相動勢」を左右に並べ、比較してやれば事は済む。その表紙に、週刊朝日の画像は実に相応しいのである。