昨日の記事で、やまと新聞のことを書いたのですが、せっかくですので、今日は新聞について書いてみたいと思います。
実は、GHQが日本にはいってきたときに、日本国内にある大手新聞社に、一定の色分けをしました。
その色分けがおもしろいのですが、
朝日、毎日、読売=報道新聞
日経=経済新聞
やまと=思想新聞
と分類したというのです。(注:全国紙の新聞社は戦後GHQによって数社に統合されました。終戦時、東京日々とナニナニ新聞等と細かく分けて書くと話がややこしくなりますので、単純化しています)
けれどみなさん、ここでひとつおもしろいことに気付かれると思います。
戦前から戦時中にかけて、「鬼畜米英」だの、「ススメ一億火の玉だ」だのと戦時気分をあおり、戦況報道にしても写真もないのに「勝った、勝った、何々戦線において敵巡洋艦を轟沈!」などと、さかんに国民をあおり立て、あるいは戦前においても、「日米もし戦わば」などというセンセーショナルな見出しで開戦気分をあおりぬき、さらに支那事変では、できっこない「南京百人斬り」などというでっち上げまで行って、あたかも戦(いくさ)に出れば、すぐに日本は大勝利し、それこそ世界も征圧しかねないというほど、国民を戦争に誘導し、あおりぬいたのは、いったいどこの新聞社だったでしょうか。
はたして、それが「報道新聞」といえるのでしょうか。
戦争というのは、強力な武装によって相手を威圧し、兵を用いないで勝つというのが、最上です。
つまり、実際に干戈をまじえて殺し合いをするというのは、誰がどう考えても、けっしてよくない、下策です。
さらにいえば、なるほど日本は、日清、日露を戦い抜いて、戦勝を得ましたが、この頃の戦(いくさ)というのは、軍艦は石炭を炊いて動くものだったし、陸戦においても、機動部隊としては、馬が重要な働きをする戦いの時代でした。
そして日本は、自国内で石炭を製造することができました。
ところが、第一次世界大戦の頃から、世界の戦争は大きく様変わりしています。
燃料が、石炭ではなく、石油にかわったのです。
そして陸戦では、ガソリンで動く戦車が強力な兵器となり、また海戦においても、石油を炊く船が圧倒的な速度と性能を備える時代に変わっていました。
私はこれまで、日本が支那事変、大東亜戦争へと至った最大の遠因は、ワシントン軍縮会議によって日本が軍縮に応じたことにある、と書いてきましたが、日本が国際関係上で、他国から「侮られない強力な国」から、「侮られる国」へと変化したという意味においては、まさにこれが原因です。
けれど、ならばなぜ日本は、ワシントン軍縮会議で軍縮に応じたかというと、これには3つの理由があります。
ひとつは、日本の国会が、「軍事より国内の民生を優先せよ」と内閣にせまったこと。
もうひとつは、石油の問題です。
石油は、産油の中心は中東ですが、その採掘権と販売権は、ほぼ米国石油資本が一手に牛耳っています。
なぜそうなったかといえば、米国が、早い段階から、石油に目を付け、石油の採掘権を米国の手中に収めたことが原因です。
これにより、世界の中心は、石炭の英国から、石油の米国へと移りましたし、世界の基軸通貨も、英ポンドから、米ドルへと変化しました。
石炭から石油にエネルギーが変化したということは、軍事的にも兵器が石炭から石油兵器へと変化したことを意味します。
そして日本は、石炭は産出するけれど、石油は出ません。
(近年になって尖閣領海の地下に豊富な石油が埋蔵されているという調査結果が出ていますが、そういうことがわかる、はるか以前の話です)
そしてその石油は、戦前において、日本は米国から輸入していました。
これが何を意味するかというと、日本は、石油がなければ、戦争の遂行ができないし、勝てない、ということなのです。
そしてみっつめは、食の問題です。
日本の軍用食が、ご飯と味噌汁で、おかずは兵が1品、将校が3品だったということは、ご存知の方も多いかと思います。
ここで問題なのが、味噌汁です。
なぜなら味噌汁は、全員に付くものだったからです。
味噌は大豆から作ります。
その大豆は、満州から日本は輸入していました。
大豆は日本人にとって、魚と並ぶ貴重なタンパク源です。
大豆は、肉と同じだけの栄養価があります。
若い兵隊さんたちにとって、大豆は貴重なエネルギー源だったのです。
その大豆の世界最大の産地は、当時は満州でした。
満州は、大いに経済発展した国ですが、その最大の輸出品が「満州大豆」で、その最大の輸入元が日本でした。
けれど、満州の大地は、土地が酸性なのです。
大豆はアルカリ植物ですから、酸性の土地では育ちません。
ではどうして満州で大豆がとれたかというと、土地にリンを散布することで、土壌をアルカリ質に変えていたのです。
そしてそのリンの輸入先が、やはり米国でした。
つまり日本は、兵の食事も、軍の兵器の燃料も、すべて米国からの輸入に頼っていたのです。
そういう状況下で、日本が米国に挑めばどうなるか。
はっきりいって、「鬼畜米英」などと標語ばかりならべていればなんとななるというような、甘い問題ではないのです。
ですから、軍の高級将校たちは、その責任から、こうした事実を真正面から受け止め、開戦に慎重な態度を取り続けたのです。
にもかかわらず、そういう大事なことを、当時の大新聞、つまり冒頭に書いたGHQが報道新聞と呼んだ大手新聞社はいっこうに国民に伝えず、戦えば必ず勝つ!などといって、民意をあおっていたわけです。
人は、情報で動きます。
戦えば必ず勝つなら、馬鹿にされて黙っている必要などありません。
相手を打ち負かし、言うことを聞かせれば良いです。
けれど、戦いたくても石油はないし、大豆もなくなるという、そういう事実がちゃんと国民に伝わっていたら、戦前の日本国民は、戦争に対して、どのような態度をとったでしょうか。
現実の問題として、ちゃんとした事実を知りながら、そういう事実を黙殺して、国民に知らせようとせずに、いたずらに戦意ばかりをあおった当時の大新聞の、その責任たるや、万死に値するということができます。
では、なぜ後年「報道新聞」と呼ばれた大手新聞社は、事実を隠蔽し、いたずらに国民の戦意を高揚するような情報だけを国民に流し続けたのでしょうか。
これにも理由があります。
それら新聞社は、要するに、商業主義だったということです。
売れればいいのです。
みんなが、これからどうなるんだろうかと不安に思っているときに、「戦えば必ず勝ぁつ!」と勇ましい報道をすれば、新聞が売れる。
南京で、「支那人なんぞ何するものぞ!敵弾唸るその中で、たったひとりで勇躍百人の支那兵を腰の軍刀で叩き斬った勇敢な青年将校!」なんて、勇ましい記事を垂れ流せば、多くの国民が、「なんだ支那兵なんてそんなに弱っちいのか。だったら俺も戦(いくさ)に行くぜ」という意識になる。
そして、いつ戦争が始まるのかと、国民をドキドキさせておいて、「いざ!開戦!緒戦で大勝利!」と報道したら、その新聞は、飛ぶように売れる。
こういうのが「報道新聞」というのですから、GHQにも呆れます。
戦前に、そうやってやみくもに戦争気分を煽っていた大手新聞が、戦後になるといきなり180度報道姿勢を変えて、こんどはやみくもな反戦主義、絶対平和主義などと言い出しましたが、それ以前の報道をしっていれれば、いかにいかがわしい報道なのか、お里が知れようというものです。
そして、そういう180度の大転換を可能にしたのも、実は、「売れればいい」という、それら大手新聞社の根本姿勢にあります。
実は、日露戦争の頃までは、日本一の発行部数を誇ったかつてのやまと新聞が、次第にシェアを落し、朝日、毎日などに大きく水を空けられるようになった理由もここにあります。
要するに、露骨な大衆迎合報道で、事実をねじ曲げて、大衆が喜びそうな報道を垂れ流す。
つい、一昨日だか、その大手新聞社が、「米国高官が、安倍内閣が河野談話を見直すならば、日米関係は重大な局面を迎えるであろう」などと、いい加減な報道をしていますが、これなど、まさに典型です。
米国高官といったって、韓国系米国人の高官だっているわけです。
そういう連中からコメントをとれば、当然、そういう回答が帰って来る。
そもそも新聞報道というのは、記事に5W1Hは、必携です。
いつ、誰が、どこで、何を、どうして、どうなった、「重大な局面を迎えるであろう」という発言が本当にあったのなら、その記事には、それが「いつのことで」、「誰が言ったのか」を明らかにしなければならない。これが基本です。
ところが、その記事には、肝心の「誰が」「いつ」が書いてない。
ということは、この記事は、いわゆる「やらせ記事」だということです。
ところが、安倍総理誕生で、株価も高騰し、これから景気が回復しそうという局面で、日米関係に亀裂!という報道を流せば、世間の人はびっくりして、新聞を振り向く。
そうやって、センセーショナルを演出しながら、世論をあおって新聞を売る。
要するに、それが、GHQのいう「報道新聞」の本質なのです。
これに対し、やまと新聞は、創立者の福地源一郎の精神を重視し、戦前も戦中も、事実を事実として報道していました。
戦争についても、もちろん戦争反対などと書けば憲兵に捕まりますから、そういう書き方はしていないけれど、そもそも戦争は避けるべきである、といった論調を崩さず、戦時中においても、いかにして外交努力によって早期終戦をはかるべきかについてを、強く論じ続けていたのです。
もちろん、石炭から石油へという軍事上の大転換下に日本がおかれているという事実、あるいは、戦時食料の問題など、きわめて後世の我々から見て冷静で正しい報道に徹していたのです。
けれど、報道が冷静で正しいということは、「売れる」ということとは異なります。
だから発行部数で、新興勢力の朝日、毎日などに大きく水を開けられるに至りました。
昨日のねずブロの記事の中で、やまと新聞が明治の中頃に号外で出したフルカラーの西郷隆盛の絵をご紹介しました。
同じ絵を冒頭に掲載しましたが、ここに描かれた西郷隆盛像は、上野の西郷さんの銅像の姿とはかけ離れています。
堂々とはしているけれど、体型はスリムだし、顔つきもどちらかというと豪傑顔というより色男顔です。
私も西郷さんと会ったことはないので、実際のことろはわかりませんが、実は巷間描かれている西郷さんの肖像というのは、実際の西郷さんとは似ても似つかないものであるという話は、いろいろなところで聞きます。
もっとスリムだったし、あんな豪傑風などでは決してなかった、といいます。
やまと新聞は、明治中期から後期にかけて、新聞号外で歴史上の人物伝を特集していて、昨日の記事にご紹介した絵は、そのなかの一枚なのですが、要するに、歴史認識というのは、愛国精神を涵養するものです。
日本とは、いかなる歴史を持ったいかなる国であるのかを号外で伝える一方、政治や経済についても、高い次元の意識にたって、その事実を報道しようとし続けていたわけです。
けれど、そういう報道というものは、それなりの歴史観を持ち、事実の流れをキチンと把握し、それなりの教養のある人たちには、理解を得られますが、一般大衆からしてみると、肩が凝る。
だから、気楽に読めて、政治や経済をまるで芸能ゴシップ記事仕立てて報道する新聞の方が、気楽でいいし、読みやすい。
そして、これまた重要な点ですが、日本が終戦となり、GHQが張り込んできたとき、さんざん戦争をあおっていた新聞社がある一方で、開戦そのものにさえ慎重であった新聞社があったということは、きわめておもしろい珍現象を巻き起こしました。
どういうことかというと、それまで「鬼畜米英」と報道していたら、その鬼畜が新たな施政者となって日本に乗り込んできたわけです。
新聞社としては、生き残りをかけて、方向を180度転換して、今度はGHQ万歳という報道に、恥も外聞もなく切り替えなければならない。
ところが、鬼畜などと呼ばない、そう呼ぶこと自体が異常だと断じていた新聞社が、大手新聞の中に1社あったということになると、これは大問題です。
その新聞社は、必ずや世間の信用を一手に引き受け、大人気となることでしょうし、シェアは一気にひっくり返ってしまう。
下手をすれば「報道新聞」という名をもらった新聞各紙は、倒産、廃業に追い込まれてしまう。
ところがきわめて冷静な記事を戦前から書いていたやまと新聞は、堂々としています。
そもそも「政治家さえも、我々が教育するのだ。そのためにやまと新聞はあるのだ」などとやっていた新聞社です。
青い目のGHQがやってきたところで、それこそGHQ何するものぞとばかり、両院記者会から離脱して記者クラブに入り込むことさえも、堂々と拒み、GHQと真正面から喧嘩になります。
そういうシチューションの中で、報道新聞各社は談合し「やまとはもともと思想新聞ですから」とGHQに刷り込む。
日本思想=右翼だと思い込んでいるGHQにしれみれば、思想新聞というレッテルを聞いただけで、やまとを潰さなければ、GHQの首さえも危ないと考えてしまったとしても、なんらおかしくありません。
結果、やまとは、GHQからありとあらゆる嫌がらせを受け、最終的に国会議事堂以外では、一切の営業活動を禁じられるというところまで向かってしまうわけです。
そして、やまと新聞自体が、歴史上「存在しなかったもの」とされてしまった。
けれど、人間の気概というものは、どんなに叩かれ、潰されたとしてもそうそう簡単に挫けるものではありません。
だからこそ、やまとは不屈の闘志で、生き延びてきたわけです。
昨日も書きましたが、日本における報道というものは、たいへんに歴史の古いものです。
識字率が高く、森林資源が豊富で紙文化の発達した日本なら、当然のことといえます。
だからこそ、平安時代には、源氏物語や、方丈記などの名作文学が誕生しているし、鎌倉時代には義経記のような文学作品も誕生しています。
そして戦国時代には、新聞が登場し、江戸時代には、これが版画技術と重なって、様々な速報かわら版が出版されました。
ただ、思うのですが、やはり、報道というものは、やらせ報道、捏造報道、あるいは意図的な偏向報道などを行うようになったら、その瞬間に三流のタブロイド紙に落ちぶれるということです。
会社が大きいから、立派な新聞社であるということにならないと、私は思います。
たとえいまは小さくても、真っ直ぐな心で信念をもって正確な報道を心がける新聞や、メディアこそ、いま、日本に求められている最大のメディアの要件だと思うからです。
今日の表題は、「正しい報道と売れる報道」と書きました。
本当は、「正しい報道をするメディアが、売れるメディア」でなければなりません。
そのために、もっとも大切なことは、国民の民度であろうと思うのです。
そういう意味では、いまの日本人は、戦前の日本人以上に賢くなっていかなければならない。
そしてそれができるのも、日本人だと思うのです。
賢いというのは、勉強ができるとか、いい大学を出ているということとは違います。
人として、たいせつなことは何かを正しく見極めることができるかどうかなのだろうと思います。
天の岩戸は開きました。
日本は、日本人は、いま、新しい時代に突入しようとしている。
私は、そう思います。