やまと新聞について、書いておこうと思います。
やまと新聞については、3年ほど前にも、このブログでご紹介しているのですが、また違う切り口でご紹介してみようと思います。
やまと新聞のHPをみると、冒頭のトップに次の文章があります。
「やまと新聞社は左傾化して行くマスコミとは一線を画し国会内にあって唯一の保守本流新聞として戦います。」
(http://www.yamatopress.com/
)
ここに「国会内にあって」という文がみえます。
実は、いまの大手新聞社やテレビ局などのマスコミは、国会内でもちろん取材はしますが、その取材記事は、常に「記者クラブ」というフィルターを通します。
各社が自由に報道をしているわけではないのです。
各紙の記者が取材した記事は、すべてこの記者クラブで検閲され、記者クラブというフィルターを通してしか、一般に報道されないのです。
これは、戦後にGHQが引いたレールです。
ちなみに記者クラブには、通称「ボード」と呼ばれるホワイトボードがあります。
このボードに、記者クラブが選んだ報道の件名や発表日時、その報道に関する約束事などが記載されます。
「ボード」に書かれた約束事は「黒板協定(昔はホワイトボードではなく黒板だった)」といって、新聞各社は、これを守らなければならない。
守らないなら、記者クラブから追放です。
国会の記者クラブは、追放されたら、国会報道ができません。
国政に関する報道ができなくなります。
こうなると新聞社としては致命的です。
要するに国会の記者クラブは、いわば報道のいキン◯マにあたるわけで、だからGHQは、国会内にもともとあった「両院記者会」を排除して、全てを国会の外にある現行の「記者クラブ」に移したのです。
この経緯については、あとで詳述します。
最近でも、記者クラブの影響は大きなものがあります。
たとえば、一昨年の宮崎口蹄疫事件です。
この事件のさなか、地元出身の自民党、江藤拓議員は、国会で涙ながらに被害の重大性、畜産農家の悲惨な実情を衆院で訴えました。
けれどそのとき記者クラブがどうしたかというと、あらかじめ江藤議員が口蹄疫を国会で訴えると知って、その日の国会衆院の取材を、各社一斉に「お休み」にしたのです。
国会の会期中に、新聞各社が国会の報道取材をしない、というのは、普通では、あり得ないことです。
ところがこの日、「本日の国会取材はなし」とボードに書かれ、各社はこれを守りました。
おかげで、当日の衆院の二階席、つまりいつもなら、新聞記者と、そのカメラが砲列をつくる席が、まるでガランとした空席となりました。
いたのはやまと新聞社くらいです。
このときの模様は、やまと新聞社が動画に撮っていますので、これまた本日の記事の末尾に、動画を掲載しておきます。
あろうことか、被害の重大さを涙ながらに訴える江藤議員に、衆院の民◯党議員たちは、あり得ない野次を飛ばし、その怒号に、マイクを持った江藤議員の声がかき消されているという、非常識が事態が、当日の国会で起こっています。
そしてこのことは、大手新聞各紙では、一切、ひとことも語られることはありませんでした。
他にもあります。
最近では、国会議員の先生が直接youtubeのビデオレターで、時事問題に関する所見を述べられることが多くなっていますが、そこで語られている内容と、新聞やテレビの報道内容が、全然かけ離れていることにお気づきの方も多いかと思います。
たとえば、先の衆院選前、新聞各社は、「自民党は大型補正予算で、不要な公共工事を乱発して、ハコモノ行政を復活させようとしている」などという報道をさかんにくり返していました。
ところが、自民党がハコモノ行政推進をしようとしているなどとは、実はどこにも書いてない。
安倍総裁以下、自民党の議員も、誰もそのようなことは言っていいない。
自民党が言っていたのは、(これは消費税増税法案にも明記されていることですが)すでに耐用年数を超え、古くなった河川や高速道路、高架鉄道の橋梁や、トンネル、あるいは古くなった公共建築物等について、耐震、防波のための補修工事をする、そのために建設国債を発行し、これをもって景気を刺激するというものでした。
これは実に理に叶っていて、そもそもコンクリートの耐用年数は50年です。
国内にある高速道路や、幹線道路の橋ゲタ、あるいは多くの公共施設は、東京オリンピックのために、オリンピック以前に建設されたものがほとんどです。
東京オリンピックが行われたのは、昭和39(1964)年です。
施設の多くが、それ以前に造られたということは、昭和38(1963)年までに建設されているわけです。
これにコンクリートの耐用年数50年を足したら、2013年です。
つまり、今年で、耐用年数が満了するのです。
先般、中央道のトンネルの崩落事故があったばかりですが、すでに耐用年数が満了となる橋やトンネルが全国にどれだけあるか。
そして、それらの補修にあたっては、事前の入念な検査と、大規模な工事が必要です。
そのために、財政を出動させる、ということなのです。
ご近所に、国道などの幹線道路に架かる大型の橋があったら、是非その橋の下を見に行っていただきたいと思います。
大型のトラックなどが通るたび、橋梁が震え、その橋梁は鉄が真っ赤に錆び、リベットが浮いている。
素人目にも、「おいおい、大丈夫か? ヤバくないか?」と感じます。
そして補修を終えた橋や高架線は、新たに耐用年数が増しますから、これは国の資産となります。
つまり、建設国債は、単に財政不足を補うための赤字国債と違って、国債を発行した分、貸借対照表の反対側に資産が形成されます。
つまり、国の資産規模が増すのです。
ですから冷静に報道すれば、自民党の主張は、きわめてまっとうな議論であるということになります。
ところが、これが記者クラブというフィルターを経由すると、「自民党がまた、いらないハコモノ施設を乱発しようとしている」となるわけです。
他にも、憲法を改正して、自衛隊を国軍化しようという自民党の主張は、選挙前には、これまた脚色されて、自民党は徴兵制をひこうとしている、あるいはもっと脚色されて、自民党は戦争をしようとしているなどと、報道されていました。
これまたびっくり仰天です。
徴兵制をひき、実際に他国の領土を蹂躙しようとしてきているのは、支那、朝鮮の方です。
それに対して、自国の領土を守るために、自衛力(防衛力)を統合して強化することで、自国の領土を守ろうということの、いったいどこが「戦争をしようとしている」なのか。
むしろ日本が、戦争を仕掛られているのです。
それに対して、自国の領土、領海、領民を守ろうとすることの、どこが軍国主義化なのか。
冷静にみれば、意味不明です。
こうした報道の偏向は、枚挙にいとまがないのですが、実は、終戦までは、各報道機関は、国会内に「両院記者会」という組織を持っていました。
これは国会議事堂に出入りできる報道機関の人間であることを証明するためと、そうして入館した記者たちのいわば「詰め所」としての存在です。
ですから当然「記者会」は国会議事堂内に置かれていたし、そこを拠点として各紙の記者たちは独自に取材を広げ、記事を社に持ち帰り、新聞にして報道をしていたのです。
ところがGHQは、この「両院記者会」に所属している新聞社を軒並み追い出しました。
そして国会議事堂の外に記者クラブを設け、そこで取材記事の検閲を開始したのです。
検閲には、一定の方向がありました。
日本否定、左傾化推進、そして三国人(支那人、朝鮮人)に関する報道についての規制です。
みなさんは、戦後、占領下に置かれた日本で、朝鮮人がGHQから与えられた銃器等を使い、好き放題に日本国内で暴れ回っていたという事実を、すでにご存知のことと思います。
街中で暴行は働く、窃盗はする、盗品を平気で売りさばく、市民が闇市で仕入れた貴重な米などの生活物資を平気で奪う、幼い子連れの女性を子供の見ている前で白昼丸裸にして輪姦する等々です。
ところが戦前の、たとえば関東大震災の頃には、そうした朝鮮獣民の数々の非道は、新聞で次々と報道されていたにもかかわらず、終戦後には、それを上回る非道が行われ続けたにも関わらず、まるで報道されていません。
警察署を襲撃して焼き討ちしたり、複数の警察官を殺害したりまでしているのに、です。
要するに、そこに「検閲」があった、ということです。
さて、GHQが日本にやってきて、この記者クラブを作り、従前からある両院記者会を追い出そうとしたとき、これに敢然と立ち向かった新聞社がありました。
それが「やまと新聞」です。
やまと新聞というのは、明治19年の創刊で、大正から昭和初期にかけては、国内で発行部数1位にもなったことのある新聞社です。
ちなみに当時の新聞は、フルカラーです。
これはみなさん、以外に思うかもしれませんが、新聞が白黒になったのは、活版印刷(活字を組み合わせて印刷する方法)が主流になってからのことで、それ以前は、版画印刷だったのです。
活版印刷
版画の技術は江戸時代には、広く普及していました。
錦絵などその典型です。
江戸時代から明治の頃までの新聞は、この版画の技術を応用していたわけです。
明治21年2月24日やまと新聞第四百十四号
近世人物史「西郷隆盛」
やまと新聞を創刊したのは、福地源一郎(ふくちげんいちろう)です。
福地源一郎は、もともと幕臣で、慶応4(1868)年の江戸城開城のときには、江戸で「江湖新聞」という「かわら版」を発刊し、翌月には彰義隊が上野のお山で敗れたときのことについて、詳細な報道をしています。
このときの一文が、いまに残っています。
「明治維新というが、ただ政権が幕府から薩長(薩摩藩と長州藩)に変わっただけではないか」
この一文のおかげで、福地源一郎は明治新政府に睨まれ、投獄されたあげく、新聞も発禁処分にされています。
要するに、明治新政府にとって、都合が悪かったのです。
なぜ都合が悪かったのかというと、これまた理由があります。
福地源一郎の主張は、戊辰戦争など、そもそも必要ないものであった、というものだったのです。
日本は、世界を植民地支配する欧米列強の圧力の前に、自尊独立を保つため、王政復古し、それまでの藩毎に「国」を名乗る幕藩体制(家と家、藩と藩がそれぞれ独立した国としての体制)を改め、天皇のもとに、日本国を形成しました。
これが明治維新です。
けれどそのために、日本は国を徳川幕府対、薩長土肥とまっ二つに割って、国内戦争をするに至りました。
これが戊辰戦争(ぼしんせんそう)です。
けれど、王政復古するためだけなら、本来、戊辰戦争など必要ありません。
全国の諸大名を貴族院に、全国の優秀な頭脳を衆議院に配置し、五か条のご誓文にいう「広く会議を起こし万機公論に決すべし」を実現するだけでよかったのです。
実際、明治中期には、そういう体制が実現しています。
にも関わらず、なぜ武士が争わなければならなかったのか。
上野のお山で幕臣の若者達が彰義隊として戦ったのは、江戸城が無血開城した後のことです。
戦乱を避けるために、江戸城の明け渡しまでしている。
にも関わらず、それでも戦う理由がどこにあったのか。
現代人の目からみれば、答えは、実は簡単です。
米英仏に踊らされたのです。
米国は当時、南北戦争が終わり、膨大な軍事物資が余っていました。
その中古品の武器を捌く相手が日本だったのです。
なぜ日本かといえば、日本は金(=GOLD)が豊富な国だったからです。
なにせ日本は、一般庶民までが金貨(小判)を所持しているだけでなく、普通の庶民が虫歯に金をかぶせて治療するし、百獣の王ライオンの歯にまで総金歯(獅子舞の獅子が総金歯)です。
要するに、金を持っているから、商いになったのです。
米国が利口なのは、この南北戦争のセコハン(中古品)の武器を、薩長、幕府のどちらか一方にだけ売るのではなく、両方に売りつけたことです。
つまり、幕府側にはフランス経由で、薩長側には英国経由で武器を売りつけた。
ですから戊辰戦争で戦った薩長軍と幕軍は、使っている洋式武器は、同じものです。
その代表例が四斤山砲(よんきんさんぽう)で、これはナポレオン砲とも呼ばれていて、南北戦争で大活躍した大砲です。
これを、薩長、幕軍とも、仲良く使っていた。
よその国を肥え太らせるために、日本がまっ二つになって戦う。
そんなアホな話があるかい!というのが福地源一郎の論で、だから彼は「明治維新というが、ただ政権が幕府から薩長(薩摩藩と長州藩)に変わっただけではないか」と辛口のコメントをしているのです。
福地源一郎は、明治81875)年には、1月14日の東京日日新聞の誌上で、「社会」という言葉に「ソサエチー」というルビをつけて紹介しています。
実は、これが「社会」という日本語が使われた最初で、いまだに日本ではソサエティのことを「社会」と読んでいます。
そして福地源一郎は、明治10(1877)年には、西南戦争で田原坂の戦いなどの激戦地・・・ここでは両軍の激しい戦いで、両軍の撃った銃弾が空中で正面衝突して地面に転がるほど、激しい銃撃戦が行われたところです・・・に自分ででかけ、現地から実況レポートを送っています。
そして明治14(1881)年に、大日本帝国憲法の草案となる私擬憲法「国憲意見」を起草し、軍人勅諭の制定にも関与し、明治19(1884)年にやまと新聞を創刊したわけです。
その福地源一郎のやまと新聞における社是は、
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新聞は、単に事実の報道にとどまらず、是非善悪を、高い次元、高い道義をもって判断し、善なるものはこれを宣揚し、悪なるものはこれを糾弾して世論を喚起する。
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というものです。
こういう創業の精神というものは、その会社の血肉となって後々まで影響力を持つものです。
おかげで、教養高い明治の知識人たちから、やまと新聞は絶賛され、明治の終わりから大正のはじめには、なんとやまと新聞は、国内での発行部数第一位の新聞に躍り出ています。
ところが、大正の半ば頃から、その発行部数は、朝日や毎日などに、とって代わられます。
ちなみに、読売が伸びたのは戦後のことで、これは激しい拡販戦争によるものです。
やまと新聞が、朝日などに発行部数を奪われていったことには、背景があります。
実は、大正時代に、日本は大きく変質しているのです。
幕末の武士たちを驚かせたのは、黒船来航でした。
欧米人たちの圧倒的な軍事力という外圧の挑戦に対して、幕府は不平等条約を締結させられ、これが引き金となって明治維新が起きています。
その幕末の武士たちが夢見たもの、それは、欧米列強と対等に付き合うことができる日本という国でした。
まさに司馬遼太郎のいう、手の届かない高みにある「坂の上の雲」、それが、列強と対等な国、日本だったわけです。
そしてこれが実現できた、つまり幕末の武士たちが夢見た、欧米と対等に付き合うことができる日本を、ついに構築し得たのが、明治から大正に代わる、明治44(1911)年だったのです。
この年、日本は関税自主権を回復し、不平等条約の解消を実現しています。
日本が坂の上の雲に到達するまで、それまでの時代は、まさに急な坂道を必死になって大八車を押して登っているようなものです。
明治のリーダーたちが、知恵を絞り、国をあげて国民の教育を実施し、欧米に追いつける日本を築くために必死の努力をし続けた。
その過程の中で起こったのが、日清戦争であり、日露戦争であったわけです。
日本は、この二つの大戦を勝ち抜き、条約改正を実現して、ようやく、坂道のてっぺんに登りつめ、ようやく一段落ついて、安心してこの世の春を満喫した。
それが大正時代です。
この時代は、ものすごくわかりやすくいうと、戦後の日本が高度成長に一区切りをつけ、バブル経済を満喫した時代と、ちょっと似ていて、バブルの頃には、ワンレンボディコンのお姉さんたちが、ジュリアナ東京で扇子片手に踊り明かしましたが、それと同様、若い女性たちが男性がつける袴を穿いて、町を闊歩した。
これを当時、ハイカラさんと言いましたが、いまでは、女子大の卒業式の定番となっている若い女性の袴姿(実に可愛らしいけれど)が定着したのが、まさに大正時代です。
明治時代が、維新の元勲達が日本社会をリードした時代であったのに対し、大正時代はデモクラシー、つまり民主主義が時代の潮流となり、政治も社会も、庶民化、一般化した時代でもあったわけです。
政治を、それなりに勉強した元勲たちがひっぱる時代と異なり、大衆化社会では、一般大衆が政治の中心となります。
そうした社会の中では、新聞も、哲学と理念をもって、大所高所(たいしょこうしょ)から、むしろ新聞が政治をリードするのだというような、ジャーナリストとしての強い使命感と倫理観を持った新聞よりも、むしろ大衆迎合的な新聞の方が、好まれます。
ですからたとえば、日露戦争で日本は、勝ったとはいっても、それはようやくの辛勝であっただけであり、むしろロシア人の戦時捕虜たちに対して、いかなる善政を施すか、そしてこれからの日露関係を如何に築くかというような、お堅い内容の新聞よりも、ただただ単純に、「勝った、勝った!、露助なにするものぞ!」というように、戦勝気分を煽る新聞の方が、ウケがよくなるわけです。
そして大正期においては、第一次世界大戦での圧勝や、支那に対する21か条の要求の突きつけ、あるいはシベリア出兵などをあおり抜き、戦勝号外を発行して、戦時気分、戦勝気分を盛り上げる新聞の方が、大衆ウケします。
そうして部数を伸ばしたのが、朝日新聞だったわけです。
そもそも朝日というのは、高邁な主義主張に基づく客観的報道を第一とする新聞社ではありません。
その創業から、大衆迎合を第一とし、とにかく売れることが第一、と考える新聞社です。
つまり、何よりも大衆が喜ぶ報道をする、というのが、創業の頃から変わらぬ朝◯の姿勢です。
それは別に、左向きだとかそういうことではなくて、大衆迎合することが、売れる秘訣だと考えられているからに他なりません。
だからこそ、南京百人斬りなどとあおってみたり、大東亜戦争突入に際しては、鬼畜米英、進め一億火の玉だ!などと、常に「あおり」を優先し続けているのです。
最近でも、たとえば鳩山内閣の支持率80%とか、そもそも衆議院の得票率自体が70%もなくて、しかも自民と民主の得票数が、相半ばしていたという状況下で、少なくとも自民支持層は民主党鳩山内閣を支持するわけない、という状況にあるのに、誰がどう考えも、あやしげな支持率80%などというデタラメを平気で捏造してまで報道する。
それは、同紙が、無責任な大衆迎合体質にあるということに他なりません。
ですから、戦時中までは、一番に戦争をあおっていた朝○が、終戦後は、まるで手のひらを返すように、反戦一直線となった。
それは社の姿勢が変わったのではなくて、社の姿勢が、常に一貫して、大衆迎合にあるからに他ならないわけです。
(ですから、日本が保守政権となり、この保守政権が景気対策に成功し、国民の多くが保守化に向かうようになると、朝◯などは、率先して方向を極右に転換する可能性が大といえます。それが同社の変わらぬ伝統的体質だからです。)
そうした中にあって、では、やまと新聞がどうだったかというと、これがずっと硬派のままです。
日露戦争では、「日本は勝ったわけではない」と報道するし、第一次世界大戦後、日本がドイツ領だった太平洋の島々を国連から統治委任されると、国内インフラの整備すら満足にできていず、しかも対外的には軍縮を実施しているにもかかわらず、「余計な手間を背負い込んだ」と批判する。
支那事変では、断固戦争反対と書くし、大東亜戦争でも、その真っ最中の昭和18年に「いたずらに戦勝をあおるべきでない。一日も早い講和を締結すべし」と書いています。
こうしたやまと新聞の姿勢は、世界を知る知識人(自分の足で世界を歩いているような、昔のホンモノの知識人)などに、非常に高い評価を得続けます。
そもそも、明治の時代を引っ張った、旧士族向けの硬派な記事、事実をありのままに報道することを、福地源一郎以来の社是としてきた社風です。
だからこそ、その社風が、強烈な知識人層の支持を得ていたわけで、その支持があればこそ、やまと新聞は、たとえ発行部数が減ろうとも、我が社は常にホンモノのジャーナリズムであり続けるという強い自負があったのです。
ものすごく簡単にいえば、他の大手新聞社が大東亜戦争をあおっていたその時代に、やまと新聞は戦争反対、早期講和を唱えていたわけで、もっとも、それだけでは憲兵にしょっぴかれてしまいますから、社長に児玉誉士夫を据えています。
児玉誉士夫というのは、陸軍との関係が深く、戦後も右翼の大物としてひとつの時代を築いた人物です。
そしてやまと新聞が予測した通り、日本は焼け野原となり、GHQがやってきます。
そして、両院記者会を閉鎖して、記者クラブに移れと、新聞各社に圧力をかけます。
朝◯などは、即座にGHQの言うことを聞いています。
今度は、権力者が日本の一般大衆からGHQに移ったからです。
ところがやまと新聞は、言うことを聞かない。
そもそも、政治を、政治家以上に高い次元に立って、民衆のために善なるものは、これを宣揚し、などというすさまじい気概を持った新聞社です。
報道は政治とは切り離した自由あるべし!
報道の何たるかもわかっていない青二才の青い目のガイジンの言うことなど、誰が聞くものか!などと言って、断固として、記者クラブ移籍を認めない。
このことは、実は、GHQより、当時のやまと新聞の方に、理があります。
実は、日本は、世界最古の新聞の歴史を持っているのです。
どういうことかというと、実は、日本における新聞の歴史はとても古く、徳川家康が大阪城を攻めた慶長19(1614)年の大阪冬の陣の報道を行った「かわら版(いまでいう新聞)」が、現存している。
これはヨーロッパ最古といわれる英国の清教徒革命(1660年)や名誉革命(1688年)を報道した新聞よりも50年近くも古いもので、現存する文句なしの世界最古の新聞です。
そもそも日本人は識字率が高く、広く紙が普及していた国なのです。
ある意味当然と言えば当然のことといえるかもしれません。
そして「かわら版」は、江戸期を通じて、時事の報道から、文学、絵画、芸能に至るまで、幅広いニュースを発信し、幕末にはすでに「新聞」と名前を変えています。
そしてかわら版や新聞は、政治から独立し、事実を報道し、自ら高い見識に立って民衆に奉仕するという正統派のものもあれば、吉原の花魁ばかりを特集するHなかわら版、歌舞伎の演目や人気役者のゴシップ専門の芸能かわら版など、多様な新聞文化を熟成しているのです。
そしてそうした雑多な新聞の中で、あくまで正統派にこだわったのが、やまと新聞だったわけです。
ですから、相手がGHQだろうが、一歩もひるまない。
けれど、そうした硬派な新聞社は、新聞の検閲をはかろうとするGHQにしてみれば、邪魔な存在です。
さりとて、共産主義国のように、政治犯として彼らを逮捕殺害するわけにもいかない。
そこでGHQがやまと新聞に突きつけたのが、次の2つでした。
1 社長が書いた書籍を、全部ことごとく焚書処分にする
2 やまと新聞≫が国会議事堂内の「両院記者会」にあくまで粘るなら、それを認める代わりに、新聞の発行も国会議事堂内のみで許可する。
新聞社というものは、多くの民衆の支えによって、成り立っています。
民衆の支えがなければ、会社の経営がなりたちません。
こうして、他の大手新聞社が、社の存続のために、GHQに迎合した、GHQの気に入る記事だけを書くように社の姿勢を変化させる中で、断固GHQに対抗したやまと新聞は、もはや取材も、新聞の発行も、国会議事堂内だけでしか許されなくなってしまったのです。
そして発行部数は、国会議員とその秘書たちのみ、わずか千部まで減少します。
そうなると社の収入は、たかが知れています。
とてもじゃないが、やってけない。
普通なら、廃業です。
けれどやまと新聞のスタッフたちは、他で土方作業などのアルバイトをしながら、新聞の発行を続けます。
取材費もタダ、交通費も出ない。
それでもやまと新聞という本格派の新聞の火種を絶やしちゃいけない。
そういう意識だけだったそうです。
生活はとことん貧しくなります。
けれど、理想理念を失うことは、彼らにとっては、生活以上に大切なことだったのです。
実は、平成7年頃まで、やまと新聞が発行する新聞は、なんと一文字ずつ文字を差し込む昔ながらの活版印刷でした。
もはやワープロもパソコンも普及していた時代です。
どうして買わなかったの?と聞いたら、「そんな大金、ないですよ」と笑って答えていました。
そうして戦前の活版印刷機を大事に使いながら、わずか千部の新聞を、毎日印刷し発行し続けていたのです。
ところが、いまから6年ほど前になると、いよいよ経営が厳しくなります。
やむなく≪やまと新聞≫は、新聞の発行間隔を月1部、さらには四半期に一部に切り替え、なんとかして生き残りを図りました。
転機が訪れたのは、平成20(2008)年になってのことです。
第一次安倍内閣のとき、安倍総理が、もうそろそろやまと新聞を、GHQの課した制約から解放してもよいのではないか?と、やまと新聞社が、国会外で活動することを許可してくれたのです。
戦後63年です。
63年目にして、やっとやまと新聞は、GHQの束縛から解放され、国会議事堂の外での活動ができるようになったのです。
GHQは、昭和27(1952)年には、解散しています。
しかし日本人は約束事を守る国民です。
どんなに苦しくても、どんなにつらくても、あきらめず、粘り強く、ルールを守って戦い抜く。これが日本です。
そしていま、≪やまと新聞≫は、創業の精神を失うことなく、また、左傾化した記者クラブの圧力を受けることなく、議会から直接取材した情報を国民に届けてくれています。
要するに、日本に古来からある日本のジャーナリズム精神を、こうしてやまと新聞は、現代にまで、守り伝えてくれたのです。
やまと新聞は、すでにご高齢となられた先代から、息子さんが編集長へと世代交替していますが、伝統的日本の硬派な新聞社として、いまなお、活動を継続しています。
そのやまと新聞の支えとなっているのは、月わずか500円の購読費の会員です。
HPをご覧いただくとわかるけれど、記事の内容は、非常に良心的です。
≪やまと新聞社のホームページ≫
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