ワシントン駐在編集特別委員・古森義久
今年は憲法の改正が国政の主要課題としてついに正面舞台に登場しそうである。改正への取り組みでは改めて、日本国憲法とはなんなのか、その起源にさかのぼって正確に認識することが欠かせないだろう。とくに日本の憲法がどのように作られたかを客観的に知ることが重要である。
日本国憲法は日本が占領下にあった1946(昭和21)年2月、米国軍人十数人により10日ほどの間に書かれた。正式には連合国軍総司令部(GHQ)の民政局のコートニー・ホイットニー局長(陸軍准将)の下で次長のチャールズ・ケーディス大佐が起草の実務責任者となった。その草案は本体が書き直されることはまったくないまま、戦後の日本の憲法となった。この憲法作成の真実は歳月の経過とともに、ぼやけがちとなる。そのことを実感させられたのは作成にかかわった米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんの死去についての日本側の報道だった。昨年末、89歳で亡くなったゴードンさんは22歳だったころ日本国憲法の「男女平等を規定した第24条を起案し、書き上げた」というのである。
しかし公式に残る記録からはその事実は浮かんでこない。死者の名誉を傷つける気はないが、疑問を禁じえないのは憲法作成の実務責任者のケーディス氏から当時の実情を詳しく聞いた経緯があるからである。同氏が元気だった1981年4月、4時間近くのインタビューだった。その英文の記録はすべて残っている。
ケーディス氏によれば、憲法作成は全体11章の各章ごとに起草委員会を設け、法律の知識や経験のある中佐、少佐級の米軍人を委員として任命した。ゴードンさんはその起草の委員ではなかった。だが憲法作成の作業にはかかわっていた。ケーディス氏は若きゴードンさんについてこんなことを語っていた。
「私たちの下で働いていた21、22歳のベアテ・シロタという若い女性はその後、民政局にいたゴードン中尉と結婚したのですが、日本に長年、住んで、日本語に熟知し、東京の地理にも詳しかった。だから東京都内の各大学の図書館に出かけて、各国の憲法の内容を集めてもらいました。私たちは憲法づくりの参考資料がなにもないため、諸外国の憲法から担当領域に役立つ部分があるかどうかを調べたのです」
つまりゴードンさんの任務は資料集めだったというのだ。ケーディス氏の他の言葉も彼女が通訳あるいは秘書だったことを示していた。オーストリア出身のユダヤ人として父とともに6歳で来日したゴードンさんが大学入学のために初めて米国に渡ったのが16歳のとき、米国籍を得たのが21歳だった。いくら才能があってもそのすぐ翌年に米国を代表して日本の憲法を起草するというのは無理に映る。
それでも朝日新聞などがゴードンさんの日本国憲法起草をたたえるのは彼女が改憲に反対したからだろう。本人も近年、「憲法第24条は実は私が起草した」と語るようになっていたようだ。それが事実だとしても、日本国憲法が米国製であり、日本側への押しつけだった真実には変わりはない。ケーディス氏が長いインタビューで強調したのも日本側には米国草案を拒む選択肢はなかったという点だった。
なおケーディス氏の発言の全記録は最近の拙著「憲法が日本を亡ぼす」(海竜社)に掲載されている。
(ワシントン駐在編集特別委員)