先日、「金門島の戦いと根本博中将」という記事(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1713.html
)という記事を書きました。
これについて、すこし書き足らないというか、大事なことを十分に伝えていないような気がするので、もう一度、あらためて、記事を書き直してみたいと思います。
いつぞや某政党の官房長官が自衛隊を「暴力装置」であると述べて問題にされました。
聞くところによれば、これは安保闘争時代からの左翼の一般用語、もしくは左翼の一般通念なのだそうです。妄語です。
その「暴力装置」が、正しく用いられることで、人の命を救うのです。
ひとたび鍛え上げられた優秀な指揮官に率いられたとき、それは何万人何千万人の命に救いをもたらす。
悪の非道な暴力に立ち向かって人の命に救いをもたらす、唯一の方法です。
それを「正義」と呼ぶのです。
以前、「金門島の戦い」のことをご紹介しました。
この記事でご紹介した根本博中将は、陸軍士官学校を卒業した昭和の軍人です。
戦後、もっとも悪く言われつけたのが昭和の軍人であり、東京裁判とそれ以降の日本で、徹底的に叩かれ続けたのも昭和の軍人です。
けれど、その昭和の軍人が、どれだけ多くの人の命を救ったか、そのことについて、あらためて書いてみたいと思います。
根本博中将は、明治二十四(1891)年のお生まれで、いまは福島県現須賀川市となっている旧・二本松藩のご出身です。
二本松藩といえば、小藩ながら戊辰戦争で幕軍として、まさに勇猛果敢な戦いをした藩としても有名です。
その二本松の戦いについては、過去記事(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1545.html
)で詳しくご紹介しているので、ご参照下さい。
この戦いは、薩摩藩士で後に陸軍元帥となった野津道貫が、「おそらく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と、述懐している戦いです。
根本中将は、そういう藩風を残した二本松に生まれ、育ちました。
そして中将に限らず、すくなくとも昭和の中頃までの日本人は、誰もが地域の記憶、地域の歴史を覚えていたし、自覚していました。
要するにそれがアイデンティティです。
いまどきの日本人には、地域の記憶も国の記憶もありません。
記憶というのは、歴史です。
つまり記憶喪失状態にある。
そして記憶喪失となった日本人に、過去の責任とかデタラメな捏造に基づいた責任追及や、賠償請求が行われているわけです。
こんな馬鹿げた茶番は、早急に終わらせなければならない。
根本中将は、仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校にあがり、陸士(二十三期)を経て陸軍に任官しました。まさに日本の陸軍畑一筋の人生を歩んだ人物です。
陸軍士官学校というのは、ものすごいところで、とびっきり優秀で勉強ができ、しかも身体頑健で健康そのものの青年でなければ、入学できなかった。
しかもその入学生に対して、つまり生徒ひとりに対して、数名の教師がかかりきりになって、徹底的に鍛え上げたところです。
発明で有名なドクター中松氏も、陸軍士官学校のご出身ですが、氏の手記を読むと、陸士に入学したてのとき76cmだった胸囲が、わずか半年で1mを超えていたといいます。
いったいどんな鍛え方をされたのだろうかと思います。
私もときどき、その陸士ご出身の方にお目にかかることがあります。
みなさま歳は90前後ですが、どなたも実に矍鑠(かくしゃく)としてらっしゃる。
しかもとても柔らかで、笑顔が素敵でおいでになりながら、その芯に自然な威(い)を備えてらっしゃいます。
その昔、陸士の方々が大陸や南方でご活躍された時代というのは、そのみなさまが、まだ現役将校だった時代です。
正直、こんなすごい人たち、こんな立派な人たちに率いられた軍というものが、いかに凄いものであったか。
今日、ご紹介する根本中将にしても、以下にお話しする活躍をされたときは、まだ40代後半から50代前半くらいの年齢です。
いまの私たちからみたら、年下です。
けれど、その貫禄というか、人としての偉大さというか、そういうものは、とてもじゃないけれど、現代日本人には、まるでないものであるように思います。
鍛え上げられた正義の人だけがもつ凄味、偉大さ、そういうものを、私達はもういちど、思い出してみる必要があるのではないかと思う。
さて、その根本中将ですが、終戦のときには、駐蒙軍司令官としてモンゴルにおいでになりました。
そこへ終戦後、ソ連の機械化旅団が攻めて来た。
戦争は終わっています。
北支方面軍司令部からは、「武装解除せよ」という命令もきている。
ですから根本中将は、軍使を出してソ連に二日間の猶予を願い出ています。
四万人近い在留邦人(民間人)がいたのです。
そのほとんどが婦女子です。
彼女たちを、無事にモンゴルから避難させなければならない。
ところがこれをソ連は聞き入れない。
そのまま武装解除せよ、という。
そして長口に攻め込むというのです。
これが何を意味するか。
すでに北満州では、ソ連と蒙古の連合軍による、暴行がはじまっています。
婦女子は強姦され、男は殺害されている。
このとき根本中将が下した決断は、
「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」というものでした。
この決意を聞いた駐蒙軍の将兵の士気は一気に高揚したといいます。
ものすごくわかる気がします。
私だって、そんな局面にあったら、たとえ非力であったとしても、武器を手にして戦いたい。
愛する人を守るためなら、死ぬことだって惜しくない。
そんなことは、人として男として、あたりまえの心だと思う。
8月20日になって、ソ蒙軍が攻撃をしかけてきました。
根本中将以下の駐蒙軍は反撃しました。
激しい戦いは三日三晩続いたといいます。
圧倒的な火力を持つ敵との戦いです。
白兵戦まであったという。
どんなに激しかったことでしょう。
そしてその結果、駐蒙軍は、ソ蒙軍を撃退してしまうのです。
しかもこの戦いの最中に、邦人の引揚げを全員完了させています。
戦いで、駐蒙軍は、七〇名が戦死・行方不明となりました。
けれど敗退したソ連軍には、それに数倍、ないし数十倍する大打撃を与えています。
そして戦いの一方で根本中将は居留民避難のための列車の手配をしています。
各駅にはあらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように手配するという周到さで、です。
おかげでモンゴルから脱出した避難民の手記をみると、同時期に他の地域にみられたような悲壮感がまるでありません。
当時、張家口から脱出した当時二十五歳だった早坂さよ子さんの体験談があります。
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張家口はソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話にも戦々恐々と致しました。
五歳の女子と生後十ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、なんとか日本に帰らねばと思いました。
駅に着きますと貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、集まった居留民は皆それに乗り込みました。
張家口から天津迄、普通でしたら列車で七時間位の距離だったと思いますが、それから三日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
列車は「萬里の長城」にそって走るので、長城の上の要所々々に日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、皆で手を振りました。そして兵隊さん達よ、無事に日本に帰ってきてと祈りました。
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他のエリアでは、葛根廟事件のように女子供ばかりが故意に襲撃され、約二千名の婦女子が皆殺しにされたり、駅舎で待ち受けたソ蒙軍の兵士たちから夫や子の見ている前で輪姦され、あるいは避難途中に地元民に襲撃されて所持品だけでなく着衣まで奪われたりしていたのです。
これに対して上の手記では「手を振りました」です。
もちろん避難民ですからご苦労や不自由は多々あったろうけれど、他の地域の避難民から比べたら、いかにみやびだったことか。
そしてそれをなし得たのは、根本中将の断固とした意思と、その将を信頼して勇敢に戦った日本陸軍の兵士たちの活躍があったということを、忘れてはならない。
そして8月21日、ソ連軍を蹴散らした根本中将指揮下の中蒙軍は、夜陰にまぎれての撤収したのですが、列車は全部民間人避難のために使ってしまったとです。
ですから、みんなで徒歩帰還しています。
軍用食も避難民に供出した後だから何もありません。
そこで彼らは、最早所有者のいなくなった邦人の畑からトウモロコシをいただいて、それを生でかじって食事にしたのだそうです。
どんなに苦労しても、たとえ装備や糧食が不十分であっても、助けるべき者を助け、そのために命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。
強いものほど先頭に立って苦労する。
これこそが、古来変わらぬ日本の武人の心です。
そしてそのおかげで、4万人の命が救われたのです。
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
そして北京で北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官を務めました。
こんどは根本中将の庇護下に、今度は北支那に残る軍民合わせて35万人の命が置かれたのです。
この頃の支那は、まだ蒋介石の国民党が幅を利かせていました。
その国民党は、なんどとなく根本中将率いる北支方面軍に戦いを挑むのだけれど、ことごとく敗退しています。
すでに装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのに、それでも日本の北支方面軍を破れない。
日本陸軍が強すぎたのです。
次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、恐ろしい「戦神(いくさかみ)」と呼ばれるようになっていきます。
日本軍には「天の神」がついている、というわけです。
神が相手では、そりゃ勝てない。
ちなみに支那においても、この「天の神(=天帝)」というのは、絶対のものという思想があります。
皇帝でさえも、天の神によって任じられるという形をとっている。
つまり天の神こそが、正義の神です。
その神が根本中将の北支軍に味方しているとなれば、これは戦うわけにいかない。
だから12月になると、蒋介石総統自らが、根本中将に面談を申し出ています。
相手が天帝なら、膝を折って、話し合わなければならない。
他方、根本中将にしてみれば、武装の目的は邦人保護と無事な日本への復員だから断る理由はありません。
むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党の協力を得るに越したことはないからです。
はたして蒋介石は、
(一)北支軍とは争わない、
(二)日本人居留民の安全と、無事な帰国のための復員事業に積極的に協力する、という提案がなされます。
35万人の邦人を、無事に日本に帰還させることに責任を負っている根本中将にしてみれば、これはありがたい申し出です。
ですから根本中将は、蒋介石の申し出に答え、謝辞を込めて、
「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます。」
と述べています。
蒋介石のむしろ積極的な協力のおかげで、在留邦人の帰国事業は、約一年かけて全員無事に完了しています。
こうして全てを終えた根本中将は、昭和21(1946)年7月、最後の船で日本に帰国しました。
北支方面にいた在留邦人35万人の命は、守られたのです。
それから三年経った昭和二十四(1949)年のことです。
根本中将は東京多摩郡の自宅にいました。
仕事はありません。
旧陸軍将校だというのでGHQによって、行動をいちいち監視されていたのです。
逆にいえば、陸軍将校というのは、まさに一騎当千、それだけ怖い存在だった、ということです。
ある日、中将は普段着のまま、釣り竿を片手に、妻に「釣りに行って来る」と言い残して家を出ました。
それからまる三年、中将の行方は杳(よう)としてわかりません。
三年後、帰宅した根本中将の手には、家を出たときに握られていた釣り竿がそのままありました。
行方不明となっていた三年間、何があったかについては、根本中将はまるで語らない。
家族にも語らない。
友人にも語らない。
そしてそのまま昭和41年、74歳で永眠されました。
この三年間の事情がわかったのは、中将の死後二〇年近く経った昭和六〇年のことです。
実は家を出た根本中将は、蒋介石との「私で役立つことがあれば」との約束を果たし、台湾で一千万の人の命を守っていたのです。
昭和24年といえば、日本では戦争は終わったけれど、東亜は、いまだ戦乱の中にありました。
翌年には朝鮮戦争が勃発しているし、中共政府が樹立され、人民解放軍がのべつあちこちで虐殺事件を繰り広げていた頃です。
その支那共産軍によって、蒋介石率いる国民党軍は支那各地で粉砕され、敗退し、蒋介石はついに国外脱出し、台湾に逃れていた、そんな時期です。
この時点で蒋介石に残されているのは、台湾本島と南支那海に面した福建省の港湾都市の廈門(あもい)近郊だけです。
すでに米国も蒋介石政権を見放していました。
米国務省は「支那は共産主義者の手中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」と公式に発言して、国民党への軍事援助の打ち切りを発表していたのです。
そして蒋介石は廈門(あもい)を失えば、これで完全に支那本土での支配権を失う。
そして共産軍がその勢いで台湾に攻め込んで来れば、おそらくは国民党兵士は全員虐殺され、元日本人であった台湾人一千万の命さえも、風前の灯火、そんな情況にありました。
そんなことはない、台湾にいた国民党は連合国の一員なのだから、共産軍が台湾まで攻めて来ることはあり得ないという人もいるかも知れません。
けれど共産軍は、その翌年には連合国を相手に北朝鮮と朝鮮戦争を戦っています。
相手が連合国であれ、おかまいないなのです。
さらにチベットに攻め込んだ共産軍は、チベット600万の人口のうち四分の一にあたる150万人を虐殺しています。
そういう連中が、台湾にやってくるのです。
流れでいけば、元日本人であった一千万の台湾人のうち、すくなくとも二百万人以上は殺害され、いま、台湾は中華人民共和国の一部となり、その後の文化大革命でさらに人が殺され、21世紀となったこんにちにおいても、台湾では若い女性が貧困の中で焼身自殺をする、そんな情況になっていたかもしれません。
その情況で、根本中将は単身、ひそかに漁船を用いて台湾に渡りました。
これには戦前、第七代台湾総督だった明石元二郎氏の息子の明石元長氏も献身的に協力をしてくれています。
戦後の混乱期の中、なんとかして中将の渡航費を秘密裏に確保しようとする元長氏の手帳に「金、一文もなし」と書かれたメモが残されています。
戦後の焼け野原の混乱の中、渡航資金を確保するために奔走した元長氏の苦労が偲ばれます。
氏は中将を延岡の港から送り出した四日後、過労のためにお亡くなりになっている。
まだ四十二歳の若さでした。
他方、出港から十四日かけて台湾に到着した根本中将は、途中の嵐と時化、船の難破などの困難によって、上陸したときには船はボロボロ、体もガリガリに痩せこけ、髭は伸び放題、まるで浮浪者のような姿だったそうです。
ですから台湾警察によって不審な密入国者として逮捕投獄されています。
途中の経緯は紙面の都合で省略します。
投獄された根本中将は、その後蒋介石との面会を実現し、廈門(あもい)防衛隊の顧問を任せられました。
ところが根本中将は、この商業都市廈門を捨てろと進言したのです。
代わりに近くにある金門島に防衛ラインを引けというのです。
これは戦を指揮した湯将軍には辛い選択でした。
廈門(あもい)の守備隊なのです。
しかもその前には上海を奪われています。
そのうえ廈門(あもい)さえも撤退したとなれば、共産軍はますます勢いを増すし、湯将軍は信用を失う。
けれど根本中将は、そうした見栄でなく実を取るように進言しました。
廈門には20万の一般市民がいるのです。
廈門が戦場となれば市民にどれだけの惨禍が起こるか計り知れない。
こうして戦いの場は廈門からわずか二キロの海上に浮かぶ金門島に移りました。
そして金門島の国民党軍は、根本中将の作戦指揮に従うことで、完璧な防衛施設を整え、上陸した二万の支那共産軍の精鋭を、わずかな兵力で木っ端微塵に粉砕したのです。
木っ端みじんです。
戦いの詳細については、割愛します。
ともあれ共産軍にしてみれば、瀕死の状態にあった国民党軍に、2万の精鋭による大軍を差し向け、これを木っ端みじんに粉砕されたのです。
このことが何を意味するかというと、ひとつには、廈門(あもい)市に住む二〇万の支那の命が守られました。
さらに、この時期の中華人民共和国は、まだ建国宣言したばかりです。
まだ政治基盤が固まっているわけではありません。
その固まっていないうちに、戦いで「負けた」という事態が、これ以上拡大したならば、下手をすれば中共新政府自体がふっとんでしまう。
しかも調べてみると、それまで弱弱だった国民党軍が、いきなり強くなった背景には、あの「戦神」の根本博中将がついているという。
これでは勝てません。
勝てないどころか、根本中将の指揮によって国民党軍が北京に向かって進撃してきたら、共産軍に勝ち目はないかもしれない。
なにせ相手には、「天帝(=神)」がついているのです。
つまり、金門島の戦いは、共産軍に台湾上陸をあきらめさせ、結果として台湾の共産国化を防ぎ、台湾一千万の民衆の生命を守ったのです。
さて、戦いの後のことです。
金門島守備隊は台北に凱旋した。一行を迎えた蒋介石は、このとき根本中将の手を握って謝意を述べました。
しかし根本中将は、
「支那撤退の折、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語っただけです。
そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしています。
だから台湾国内でさえ、金門島の戦いは誰もが知っているけれど、根本中将の活躍については、誰も知らない。
そんな状態が戦後、長く続いたのです。
さて羽田に着いてタラップを降りる根本中将の手には、家を出るときに持って出た釣り竿が一本、出たときのままの状態で握られていたと冒頭に書きました。
それはあたかも、「ただちょいとばかり釣りに行っただけだよ」といわんばかりの姿であったといいます。
なぜ中将は釣り竿を手にしていたのでしょうか。
これについて、私は次のように考えます。
どんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても、そして何年経っても、決して家族のことを忘れない。
釣り竿は、その証だったのではないでしょうか。
これこそが、日本の武人の、父として夫としてのやさしさなのではないか。
そんなふうに思います。
立派なのは、中将だけではありません。
奥さんも実に立派です。
奥さんも、いまもまだご存命の娘さんも、そうした父の姿を咎めることをまってくしていないのです。
夫が行方不明の三年間、それはそれはご家族には苦労があったことでしょう。
その三年間に夫が何をしてきたのかも知らないし、わからない。
夫も語らない。
けれど、そういう夫が、何かお役にたつことをしてきたという、その一点だけは完璧に信じられる。
だから問わない。
聞く必要もない。
それが知るべきことなら、いつか知る時が来る。
それまでは夫を信じるだけ。
これが日本の武人の妻です。
おそろしいほどの信頼関係です。
私は中将の奥さんも実に立派だったと思います。
冒頭に「暴力装置」の語を書きました。
根本中将とこれに従う武人たちは、
蒙古の地にあっては4万の邦人の命を、
北支にあっては35万人の邦人の命を、
金門島にあっては、廈門(あもい)20万の命を、
そして台湾人一千万の命を救いました。
そして根本中将自らは、そうした功績を一切誇ることなく、また何ら報奨を受けることなく、そればかりか何も語らず、一介の老人としてその生涯を閉じられています。
みなさん、こういうことを正義でないというなら、いったい何をもって正義と呼んだらいいのでしょうか。
また、我が国の鍛え上げられた正義の武人というものが、いかに多くの民の命を救い、守り、助けることになるのか。
私は、軍が「暴力装置」だの云々とレッテル貼りで批判するよりも前に、そういう史実を、しっかりと学ぶことのほうが、よっぽど人として大切なことであろうと思うのです。