【決断の日本史】887年8月25日
■大地震が天皇の命を縮めた
東日本大震災を機に、古文献から地震の記録を探し出し実像に迫ろうという研究が注目され始めた。「歴史地震学」という。その視点で見たとき、1人の天皇が大地震によって命を縮められた史実もわかってきた。
平安初期の第58代光孝(こうこう)天皇(830~87年)である。宮中で乳兄弟(ちきょうだい)(乳母の息子)を打ち殺す問題行動を起こした陽成(ようぜい)天皇が退位に追い込まれたあとに、55歳という高齢で即位した。
天皇には「自分は中継ぎの存在」という意識があったようである。即位した直後、多くいた自分の皇子を全員、臣籍に降下させた。
即位から3年後の仁和(にんな)3(887)年7月30日、西日本を激震が襲った。南海トラフ沿いに震源をもつM8級の大地震(仁和地震)である。京都では役所や民家が倒壊し、摂津国には大津波が押し寄せた。
「天変地異は政治が悪いから起こる」という考え方(天命思想)があった時代である。天皇は急速に健康を悪化させた。そこに8月20日、台風が追い打ちをかけた。鴨川があふれ、多くの水死者が出たのである。
「天皇は7月27日まで3日連続で相撲節会(すまいのせちえ)に臨席するなど元気でした。地震のあとは被災者として紫宸殿(ししんでん)の前でテント生活も強いられ、ついに再起できなかったのです」
平安時代を研究している川尻秋生(あきお)・早稲田大学教授は言う。
関白藤原基経(もとつね)ら側近は、病床の天皇に後継指名を迫った。天皇は第7皇子、源定省(みなもとのさだみ)の名を挙げた。基経の妹・藤原淑子(よしこ)が定省を実の子のようにかわいがっていたことも大きかった。
8月25日、21歳の定省は親王に復した。翌日、光孝天皇は亡くなり宇多天皇が践祚(せんそ)した。臣籍降下した人物が天皇になったのは初めてで、まさに綱渡りの皇位継承であった。
(渡部裕明)