【土・日曜日に書く】政治部編集委員・阿比留瑠比
タカ派VS中道
どうやら、「近いうち」に行われる次期衆院選の主要な対立軸は「タカ派VS中道リベラル」だと強調したいらしい。このところ、政府・民主党の幹部らが盛んにそう喧伝(けんでん)している。
タカ派のレッテルを貼ろうとする対象は、主に自民党の安倍晋三総裁と新党を結成する石原慎太郎前東京都知事、日本維新の会代表の橋下徹大阪市長の3人だ。
「私は民主党を中道リベラルから穏健な保守ぐらいの幅で規定している。石原さん、安倍さん、橋下さんはかなり右というか外交も強硬路線だ。今度の選挙で一つの重要なポイントだ」
岡田克也副総理は10月30日の記者会見でこう語った。これに先立ち、民主党の細野豪志政調会長も名古屋市での講演で同様の指摘を行っている。
「3人は極めてタカ派的な言動をしてきた。戦後日本の平和主義、専守防衛という考え方は間違っていない。世論がタカ派の方向に流れるかもしれないが、民主党は真ん中にどっしり立つ」
また、安住淳幹事長代行も26日の記者会見で「われわれは民主中道路線と前から言ってきた」と主張し、野田佳彦首相も29日の所信表明演説で「『極論』の先に、真の解決はない。明日への責任を果たす道は、中庸を旨とする」と訴えている。キーワードは「中道」「中庸」というところか。
とはいえ、政治の大方針や政策を決める上で、異なる意見・見方を足して2で割るような「中道」に意味や合理性はあるだろうか。
ここにきて民主党が中道リベラル路線を明確にしたのは、次期衆院選を前にもともと左派色の濃い自治労、日教組などの支持団体を固める意図があったとみられる。
集団的自衛権も後退
野田内閣が9月、「表現の自由を侵しかねず、言論統制につながる」との党内外の強い反発を押し切って人権救済機関設置法案を閣議決定したのも、部落解放同盟などの歓心を買いたいためだろう。
保守票がほとんど見込めない民主党がそうした選挙戦術をとる気持ちは分からないでもない。ただその結果、民主党はいよいよ旧社会党と選ぶところがなくなった。
「自民党にも民主党にもそういう(集団的自衛権行使容認の)意見の人がいる。さまざまな議論があってしかるべきだ」
野田首相は今年2月の衆院予算委員会ではこう述べ、「権利はあるが行使はできない」という論理矛盾した集団的自衛権に関する政府解釈の見直し議論を歓迎する考えを表明していた。
一方、自民党側も9月の総裁選で5人の候補全員が集団的自衛権の行使容認を主張するなど、かつてないほど見直しの機運は高まっている。日米同盟を深化させて東アジアの安定に寄与するとともに日本がより米国と対等な関係になるためには当然の措置だからだ。
にもかかわらず、民主党内では10月に入り、菅直人前首相が見直し反対の考えを示したほか、細野氏も「集団的自衛権を言葉として振り回すことにあまり意味を感じない」と消極的な姿勢を見せた。
首相の持論を内部から否定し、国益よりも支持団体への配慮を優先するのが民主党の「中道」ということなのだろうか。
中庸ではなく凡庸
理解できないのは、外交・安全保障に関してタカ派を批判し、自ら「中道」を名乗る彼らが具体的に何をしようとしているかだ。
例えば沖縄県・尖閣諸島をどうするか。ここに港湾施設を設けたり、公務員の常駐を検討したりすることがダメだというのなら、彼らにどんな対案があるのか。
さすがに「いっそ尖閣を中国に譲ってしまえ」という極論はとれないだろうが、それでは中国のトウ小平副首相が提唱した領有権「棚上げ論」でいくつもりなのか。
だが、それでは日中間に領有権問題があると認めることになり、実質的には日本の敗北にほかならない。中国はすでに尖閣についてどんな代償を払っても手放さない「核心的利益」と言い出しており、日本が一歩譲れば相手も譲歩すると考えるのは大間違いだ。
日本の政界における中道勢力とは、戦後体制のぬるま湯につかって思考停止に陥り、新しい時代と厳しい国際環境から目をそらしているだけの存在にも見える。
野田首相が「中庸」を口に出すたびに思い出すのが哲学者、ニーチェの次の言葉だ。
《「われわれはわれわれの椅子を中間に置いた」-彼らのほくそ笑みはわたしにそう言う-「瀕死(ひんし)の剣士たちからも、満足したブタからも、同様に遠く離して」
だが、これは-凡庸というものだ、たとえそれが中庸と呼ばれているにもせよ》
このまま凡庸な政治が続けば日本は危ない。
(あびる るい)