★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2012.10.31) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 






■曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京連続集会 つづき。

◆工作員金ミョンスクと車で清津の招待所に

西岡 清津に着いて降ろされる時はまた袋に入れられたんですか。

曽我 袋には入れられていません。

西岡 お母さんもいたとすると、前後間隔をおいて上陸させたという仮説になるんですが、3人の曽我さんを襲った工作員とミョンスクは曽我さんと一緒に降りましたか。それとも何人かは後で出てきましたか。

曽我 金ミョンスクは私と一緒に降りました。三人は同じ車ではなかったです。

西岡 船を降りる時に誰かに付き添われて降りましたよね。ミョンスクと一緒ですか。

曽我 ミョンスクと一緒に船から降り、迎えに来ていた幹部のところに行きました。

西岡 残りの三人がお母さんと一緒に降りた可能性がありますね。

曽我 それは、あると思います。はっきりとは分かりません。

惠谷 その時、三人のうち二人だけで、一人は分からなかったと昔読んだことがあるんですが。

曽我 清津の招待所に着いた時に、私の目に入ってきたのは二人ですが、あとの一人がどこに行ったのか分かりません。もしかしたら違う人なのかも分かりませんが、私がこの人と顔をはっきり言えないので。

西岡 船を降りて曽我さんは、迎えに来た幹部とミョンスクと三人で一つの車に乗ったのですね。

曽我 はい。

西岡 そして清津招待所に行った。それが何時頃ですか。

曽我 夕方6時頃ですね。

西岡 そこで自分を襲ったと思われる二人の工作員が後から清津招待所に来たのを見た。

曽我 はい。

西岡 清津招待所は部屋がどのくらいありますか。どのくらいの大きさですか。曽我さんが行けなかった場所がありますか。

曽我 結構大きかったと思いますが、私は一部屋だけに入ってそこから出ることはなかったのでよく分かりません。

西岡 食事はミョンスクや男二人としたのですか。

曽我 ミョンスクと。

西岡 その時、ミョンスクは何と言ったのですか。何で連れてきたとか何か説明はあったのですか。

◆北朝鮮「そんな国があるんですか」

曽我 最初に着いた時に金日成の肖像画が部屋ごとにみんなあるらしく、「知ってるか」と聞かれて、「分かりません」と答えたら、「知らないのか」というので、「分かりません」と。その頃、北朝鮮があるということ自体も、恥ずかしい話ですが私は知らず、中国しか知らなかったので、「そんな国があるんですか」と言ったら、ちょっと怒ってました。

西岡 なぜ連れてきたかという説明は聞かなかったんですか。

曽我 聞きました。「朝鮮語を一生懸命勉強すれば国に返してやる」と。

西岡 それは着いた日に、ミョンスクから。

曽我 私が、「なぜここに連れてきたんですか」と聞いたら、その話をしました。

西岡 当然、お母さんのことを聞きますよね。

曽我 はい。「心配しなくても佐渡で元気で暮らしているから大丈夫だ」と。

西岡 二人の後から来た男性工作員とはどこで会ったのですか。曽我さんの部屋に入ってきたんですか。

曽我 いや部屋ではなく、招待所の中にいました。

西岡 ミョンスクは同じ部屋で寝たんですか。

曽我 はい。

西岡 ミヨシさんを誰かが護送してきて、そこに入れた可能性はありますよね。会ってないけど。あるいは別の招待所かもしれないし。そこは分からないんですね。

曽我 分からないです。

西岡 見覚えがあると思った二人の工作員とはその後会ったことがありますか。

曽我 その後は、会ってないです。

西岡 ミョンスクとは、その後も車で一緒に平壌に行ったんですね。

曽我 はい。

西岡 ミョンスクは自分のことをどういう人間だとか言いましたか。北朝鮮の中でどういう立場だとか。

曽我 そういうことは言ってないです。

西岡 名前が金ミョンスクだとは言ったのですね。

曽我 はい。それが本名か偽名かは分かりませんが。

惠谷 それは最初の頃ですか。

曽我 はい。

西岡 ミョンスク以外の人にお母さんのことを曽我さんから尋ねたことはありましたか。

曽我 幹部に聞きましたが、同じく口裏を合わせて、「佐渡にいるから」と。

西岡 一度手紙を書かせてもらえたという話を聞いたんですが、その経緯について、何時ごろとか。

曽我 北朝鮮に行って1か月くらい。

西岡 めぐみさんとは。

曽我 会ってからです。手紙というよりは生い立ちです。

西岡 生い立ちを書けと。

曽我 はい。別に母親にあててということではなく、「生い立ちを書いてほしい」と言われて一度書いたことがあります。

西岡 それをお母さんに渡すと言われたんですか。

曽我 渡すとは言いましたけど、多分行かないと思いました。その後どうなったかは分かりません。

西岡 ミョンスクから生い立ちを書いてくれと言われて、曽我さんがお母さんに渡してくれと言って、口では「分かった」と言ったということですか。

曽我 はい。

西岡 手紙じゃないんですね。

曽我 手紙のような作文のような。

西岡 自分が誰の家で生まれてどう暮らしてきたかということを書いたということですか。

曽我 小さい頃から、どこの小学校を出て、どこの学校を出てという形のもので
す。

西岡 それは北朝鮮が、捕まえた後いつもやる確認作業だからおかしいことはないですね。その後めぐみさんと一緒になりますが、めぐみさんも生い立ちをかかされていたんですか。

曽我 その辺は定かではないです。

西岡 前に佐渡の集会でも聞きましたが、めぐみさんとお互いのお母さんの話をしたことがあったんですよね。

◆日本とつながっているのは月と星の二つ

曽我 私の母親は北越ヒューム管という所で働いていたので油のにおいしかしない母だったんですけど、めぐみさんが、自分のお母さんはいつも香水のにおいがしていたんだよという話をしてくれました。

西岡 そしてジェンキンスさんと結婚して、娘さんが二人生まれるんですが、これは何回はお話いただいていますが、その時もずっとお母さんは佐渡で待っていると思っていたのですね。

曽我 佐渡に元気でいると思ってました。

西岡 この前の9月2日の大集会でも、「あきらめてなかった。日本から助けが来ると思っていた」ということでしたが、それはずっと日本のことも、お母さんのことも忘れないで助けが来るのを待っていたんですか。その時の気持を教えてください。

曽我 向こうで生活している中で、色々したいこともたくさんありましたけど、時にはちょっとあきらめかけてたことも何度かありました。でも、私は別に悪いことは何もしてないので、絶対いつかは日本に帰れると思っていました。

西岡 「夜、月や星を見て日本のことを思っていた」と聞いたんですが。

曽我 そうですね。やっぱり見ると悲しくなって。でも日本とつながっているのは、月と星の二つしか思い浮かばなかったので、いつも悲しいことがあったりすると月を見たり、星を見たりして、親のこととか仲良しだった友だちのこととか色々考えて、泣いたこともたくさんありました。

惠谷 金ミョンスクと4、5か月同居していたと。その間色々話もしたでしょうが、その中で、金ミョンスクが拉致する1週間前からいたとか、1か月前からいたという報道があるのですが、その点彼女は何と言っていたのでしょうか。

曽我 1週間とか1か月とか日数の方はよく分かりませんが、佐渡にいたということは本人の口から聞いています。

西岡 曽我さんのことを前から知っていたみたいな報道がありますが、そうなんですか。

曽我 その辺はよく分からないんですが、知ってて見たとすればどこだったのかなという感じです。

惠谷 土曜日に病院から実家に帰って日曜日に戻るんだということを知っていたと金ミョンスクが言っていたという報道があるんですが。

曽我 その辺はよく分からないのですが、そういう生活パターンがあったということは金ミョンスクから聞いていません。

惠谷 そうですか。そこが非常に重要なので。

西岡 24年が経って、9月17日に小泉さんが訪朝したこと自体は知ってましたか。

曽我 来たことは知らなかったんですが、話合いが終って飛行場で日本に帰られる時のテレビ映像が流れまして、そこで、ああ日本の総理大臣が北朝鮮に来ていて今日帰るんだなあということは、テレビで見ました。

西岡 その時拉致問題も議題だったということは知らなかった。

曽我 後で声明文ですか、それが出た時に、ちょっとそれらしき内容があったので、もしかしたら私のことを言っているのかなと、ちょっとした感じは受けていました。

西岡 平壌宣言ですね。

曽我 はい。

西岡 それは報道されたということですね。

曽我 はいそうです。

西岡 そして、自分が、北朝鮮が認めたリストに入っているということを最初に分かったのはいつですか。

曽我 調査団が来る数日前くらいに、「これから日本の調査団が来るので」ということで、一端家の方を平壌に移しまして、そこで待機しました。

西岡 家族全員で引っ越したということですか。曽我さんだけ。

曽我 私と夫です。子どもたちは寮に入っていましたから。

惠谷 引越しする前はどちらに。勝湖区域に。

曽我 はい。全家財道具を持っていったのではなく、数日間だけ家を平壌に移して、日本から調査団が来るというので、近い方がいいということで移動した。

西岡 その時、どういう風に説明されたんですか。

曽我 拉致したことを認めたというか、そういう言い方ではなかったと思いますが。

西岡 拉致という言葉を使いましたか。

曽我 いや、拉致という言葉は使ってないです。

西岡 朝鮮語で、「チャバ ワッタ」とか。

曽我 そうだったかもしれない。私の名前も入っているということで、日本から調査団が来るので、と。

◆日本の調査団には「いらないことを言わないように」

西岡 その時ですね、さっきの話ですが、北朝鮮側がこのペーパー(「拉致問題に関する事実調査チーム」と書かれた資料)を説明したんですよね。その時、あなたについては、「日本の現地請負業者に依頼して引渡しを受けた」と説明するんだと。お母さんは、「現地請負業者から引き渡されていない」と説明するんだ、と。「あなたはそれに合わせて日本側に答えなさい」というような事前教育はあったんですか。

曽我 特に、事前にそういった話はありませんでした。

西岡 その時まで、お母さんは日本にいると曽我さんは思っていたわけですね。

曽我 はい。思ってました。

西岡 そしたら斎木さんから違うことを聞いた。

曽我 佐渡には父親と妹がいるけれども、母はいない、と。

西岡 そういうことを日本側から言うから準備しなさいとは北朝鮮は言わなくて、突然それ(母はいないこと)を言われた、と。

曽我 (うなづく)

西岡 それはショックだったですね。

曽我 ショックでした。ショックと言うか、信じられない、信じたくないというどうしようもない気持でした。

西岡 そこで、指導員とかに、「お母さんは日本にいると言ってたじゃないですか。どうなったんですか」と聞かなかったんですか。

曽我 聞きましたけど、その時の指導員は全然違う人なので。最初は、母親は佐渡で元気に暮らしている、と言っていたんですが、調査団が来た時に斎木さんに言われて、私も指導員に聞いたんですけど、「分からない」と。

西岡 ああ、「分からない」と言われた。その後、今度は、「一時帰国で日本に行きなさい」となったのですか。

曽我 はいどうです。

西岡 その時、何をしてもいいとか、どういう準備をしなさいとか、日本に行ったらお母さんのことを聞かれるだろうとか、事前教育はあったのですか。

曽我 別に、事前に、こうしなさい、ああしなさいということはなかたんですが、私と蓮池さんと地村さんと5人いて、初めて日本に帰る前に会った時には……。

西岡 それいつですか。

曽我 そうですね、2週間前くらい。

西岡 でも10月15日に帰ってきて、調査団が行ったのは10月1日ですから、その後ですよね。2週間はないかもしれませんね。

曽我 そうかもしれないです。

西岡 で、一緒になって、一緒にこういうことを言いましょうと分担をするようなことはあったんですか。

曽我 分担は特にはなかったんですが、「いらないことを言わないように」と。

◆めぐみさんのことは「言ってもいい」と

西岡 その時でも、帰ってきて、「めぐみさんと一緒にいました」ということはすぐおっしゃいましたよね。めぐみさんのことは「いらないこと」じゃなかったということですか。

曽我 それは、「言ってもいい」と言われました。

西岡 「言ってもいい」と言われた。蓮池さんたちもめぐみさんのことは言ったんですよね。みんなそう言われてたんだ。そして最後に羽田に着かれますよね。そこでやっぱりお母さんを探したんですね。

曽我 探しました。

西岡 佐渡に帰られても、ずっとお母さんのことを探したと聞きましたけど。

曽我 探してました。だけどこの10年間、何の情報もなく、今日まで来てしまいました。

西岡 お母さんのことを中心に、8月12日にあったこと、そして招待所や(10年後の)9月17日前後の事を聞かせていただいたんですが、明確に言えることは、北朝鮮の工作員が8月12日に、お母さんと曽我さんを襲った。これはもう体験ですから間違いないですね。

曽我 はい、間違いないです。

西岡 従って、説明責任は北朝鮮にある。一緒に襲ったんですから。一緒の被害者について、片方は「拉致しました」と言って、片方は「知りません」という。北朝鮮の日本に対する説明はこんなに理不尽なことだということが、具体的に今日お話を聞いても明らかになったと私は思ってますが、そうですよね。

曽我 はい。

西岡 是非みなさんも、「未入境」と北朝鮮は一言で言ってますが、こんなにでたらめな説明をしているんだと。「死亡」と言われた人たちについては、偽の「遺骨」とか分かりやすい嘘がありますが、「未入境」と言われている人たちの説明もこんなにでたらめなんだということを、まず今日、強く訴えたいと思います。

 そのためにも、曽我ミヨシさんがどんな人だったのかということを私たちがイメージできた方がいいと思うので、曽我さんにとってお母さんとはどんな人だったですか。少しお母さんの思い出を話してくれませんか。

◆やさしい母、いつも側にいてくれた母

曽我 私の母は、とても働き者でした。昼間はヒューム管で一日油まみれになりながら働いて、夜は笊(ざる)を作っていました。夜中までずっと笊を作って、私たち姉妹を学校にも通わせてくれました。本当に辛いことがいっぱいあったと思うんですが、私たちにはぐち一つこぼしたことがなくて、自分ができる範囲のことを少しでも私たち姉妹にしてやろうと思って、一生懸命働いていました。

 とてもやさしい母でした。そして、とても子どもが大好きな母でした。近所の子どもたちの面倒もよく見ていました。私の一つの夢は、私も母に似て子どもが大好きでした。だから保育師になりたいという夢を持っていましたが、佐渡の中では、保育師になる学校もなく、私はやはり手に職をつけて一日も早く母を楽にしてあげようと思いました。

 そして、中学校を卒業して夜間高校に通いながら看護師の勉強をしました。本当にやさしい母で、母というよりは私にとっては友だちみたいな、本当にいつも側にいてくれて、色んな話も聞いてくれて、本当に大好きな母です。

 だからこそ、北朝鮮には入っていないと、この10年間ずっと言ってますけど、はっきりしたことを知っているのは、北朝鮮にいる拉致をした人たちだと思います。その人たちからはっきりした話を、説明を聞きたいと思います。

 そして、80過ぎた母が一日も早く佐渡に帰ってこれるように、皆さんのお力をお借りしたいと思います。

西岡 家族会は親の世代が始めたんですが、今親の世代で運動を続けられているのは有本さんたちと横田さんたちだけになって、飯塚さんは兄弟です。今、家族会の主軸は兄弟になりましたが、曽我さんは娘なんです。飯塚耕一郎さんは息子ですけど、子どもの世代が親を探すということも、今、家族ということで出てきているわけです。

 ミヨシさんのことについてここまでこだわってきましたが、せっかく来ていただきましたし、それ以外の人のことについても知っていらっしゃることがあるんじゃないかと、色んな人たちも関心がありますので、もう少し事件のことについて、その後北朝鮮で他の被害者を見たり、聞いたりしたことがあったかどうかもお話を聞きたいと思います。

◆曽我さん親子拉致は「条件拉致」か

 まず、先ほどからこだわっていた事件についてですけれど、実は私や惠谷さんたちで、「拉致の全貌プロジェクト」というのをずっとやっていまして、拉致をいくつかのパターンに分類をしてきました。

 まず、拉致の形態としては3つあります。遭遇拉致、条件拉致と人定拉致です。これは我々が作った言葉です。

 遭遇拉致というのは拉致を目的にして日本に侵入してきたんではないけれども、隠さなければいけない秘密を見られてしまった、遭遇してしまった、それで連れて行くというもので、典型的事件は寺越事件です。

 それに対して、拉致を目的にして日本に入ってきた、拉致指令が下って工作員が日本に入ってきた場合に2つの形態があるんではないか、というのが我々の分析です。

 第1が条件拉致。これは「若い男女」とか、あるいは「若い女性」など、条件は決められているけれども、その条件に合う人なら誰でもいいという形で拉致をしたもの。その場合は、拉致をしてすぐ連れて帰る。船が待っている。

 それに対して人定拉致の場合は、日本にいる組織が、「この人が候補だ」と言って選び、北に連絡してそれがOKになったら北から船が来る。船が来る時間に合わせてその人を海岸にまで連れていく、という2つの形があるんではないかと思っていました。

 曽我さんは、土曜日には家に帰っていることは分かっていることだ、と。しかし、毎土曜日の7時に買い物に行くということは誰にも分からないし、それこそそのお店に行くのは久しぶりだった。その時、あの道を曽我さんが歩いているというのは、事前には全く分からないことです。

 市川さん・増元さんの拉致も、初めて吹上浜にデートに行ったんです。それも、どこにデートに行こうかと二人だけで決めることですから、その時間に海岸に行っているのか、どこに行っているのか分からないわけです。どこで盛り上がるか分からないわけですよね。

 地村さんたちが七夕で星を見に行ったのも、毎回デートのために星を見に行った訳ではないんです。蓮池さんたちもデートして、海岸の人気のないところに行ったのは、アベックなので人に見られるところは嫌だから行ったんです。

 だから我々の仮説は、当時、1978年の夏には少なくともアベックを連れて来いという条件拉致があったのではないか。7月から8月にかけて、富山の未遂事件も入れると4件ありました。海岸からやられています。しかし、その時間に海岸にいるということは、自分たちの意思で行ったのです。だから条件拉致ではないかと思っています。

 曽我さんの拉致はアベックではなく、お母さんと二人ということがあるので、どちらになるのかなということで、今色々と聞かせていただいたわけです。今の議論を踏まえて、惠谷さんどうですか。

惠谷 新聞報道、あるいは別の情報で、金ミョンスクが、曽我さんが土曜日に帰宅して日曜日に寮に帰るというスケジュールを知っていたと思っていたものですから、これは人定拉致と思っていました。

 しかし、今のお話を聞くと、そういう話は聞いていないということです。金ミョンスクが作戦決行日の1週間前くらい、あるいは何日前からいたと曽我さんに話をしていることは確認できましたが、しかし、母親と娘という指令を出すはずもないので、判断に苦しむところです。話を聞くまでは人定拉致と思っていたのですが、条件拉致の可能性が高いと思います。

西岡 私は、姉妹がけんかしていたということから、条件拉致だろうと前から思っていました。一つのパターンがあって、三人の戦闘工作員と、一人の日本語ができる調査部の工作員が一緒に拉致するというのは、惠谷さんが明らかにしたことですが、それにはぴったり合っていますね。

惠谷 金ミョンスクという女性で、日本語が多少はできるのは調査部ですね。曽我さんの後ろから歩いてきた三人の男たちは、当時作戦部の戦闘員だと思います。戦闘員は腕っ節が強くて、一瞬にして縛り上げて、袋に入れてかついで、船まで連れて行く。その船の管理も戦闘員が行います。

 作戦部の戦闘員は実働部隊であって、曽我さん親子を拉致した現場指揮官は金ミョンスクだろうと考えています。金ミョンスクは家柄がいいというか、曽我さんも、横田めぐみさんも彼女の家に行ったことがあるということです。その辺のことを曽我さんにお話していただければと思います。

西岡 金ミョンスクの家に行ったことがあるんですか。

曽我 金ミョンスクの家ではなく、兄弟の家だと思います。ここに写真を貰っていますが、この人が弟だと自分で言っていたので。

 そこでの会話は、まだその頃ほとんど朝鮮語が分からなかったので、相手がどういう話をしていたかは全然分からず、こっそり行きましょうということだったので、散歩がてらちょっと行って、座るか座らないかのうちに出てきてしまったのです。

惠谷 補足しますと、金ミョンスクの弟は著名な、北朝鮮でも指折りのバイオリニストで、曽我さんを自慢の弟の家を見せに行ったのだろうと思います。逆に言えば、その弟の存在によって、金ミョンスクという実行犯が当局によって確認できたという経緯があります。

西岡 話を戻しますが、蓮池さんたちは、小住健蔵さんにさりすました朴某、工作機関の名前はチェ・スンチョルという調査部の工作員と三人の男に拉致された。地村さんは、辛光洙が日本語ができる案内人で、やはり三人の男に拉致されたと言っています。一人の日本語ができ日本に潜入する工作員と、三人の戦闘員というのは、帰ってきた3組が皆同じことを言っています。

 富山の未遂事件も三人と一人の組み合わせでした。四人いたということです。四人ということしか分かっていなくて、それが誰かということは分かっていないんですが、1985年の『週刊朝日』の報道によると、富山の事件の被害者に辛光洙の写真を見せたら、「見覚えがある」と言ったと書いてありますが、その後確認はとれておらず、それ以上は分かりません。

 とにかく、日本に浸透している一人と三人で、日本人二人を拉致する能力があるということです。

惠谷 しかも、同日に2か所で拉致している。

西岡 日本の警察は、金ミョンスクとチェ・スンチョルを国際指名手配しています。蓮池さん拉致では、チェ・スンチョルの上司の責任指導員も手配、地村さん拉致は辛光洙を手配しています。

 辛光洙は、横田めぐみさんのことを、「彼女も俺がやったんだ」と曽我さんに言ったんですよね。

曽我 その話は聞いてます。

西岡 辛光洙は実は韓国にいたわけです。2000年に金大中大統領が北に返してしまったんですが、それまでは我々は本当は話を聞くことができた。そうすれば曽我さんたちのことも、めぐみさんのことも、地村さんたちのことも知っていたわけです。

 話を聞ける人間がいながら、悔しいですけれども、曽我さんのことは北が認めるまで我々は知らなかったという経緯があります。

 ここまで曽我さんの事件について聞いてきましたが、今日は家族会の方々もおられますし、特定失踪者のご家族でこの集会にいつも出てきてくださっている方もいらっしゃいます。そこで、曽我さんが向こうにいた24年間の間に、タイとレバノンとルーマニアの被害者については曽我さんの証言で明らかになったわけ
ですが、それ以外の人たちについて、どこかで会ったり、話を聞いたりということがあったかどうか、記憶をさかのぼっていただけないでしょうか。




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