平和運動の背後に潜む黒い糸。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【昭和正論座】

上智大学教授・渡部昇一 昭和57年6月1日掲載


草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 






■平和運動の背後に潜む黒い糸

 ◆戦後事件が教えたもの 

 たしか、ルードルフ・シュタイナーがこう言っていたと記憶する。

 「私の言うことは奇妙で、理解できないと思われるかも知れない。無理に理解しようと努力する必要はない。時々、思い浮かべていただくだけで十分である。そのうちだんだんとその意味が明らかになってくるであろう。そうすることによって、霊的なものを見る視力が強化されるのである」と。

 これは、世紀の大オカルティストであったシュタイナーが、自分の霊眼に見えたことを理解してもらうためにすすめた方法である。本居宣長の『古事記伝』の理解にも、これはおそらくもっとも有効な方法であろう。オカルトの世界は普通の理屈や理解力ではわからない。次第に心眼に映じてくるように、時々、思い浮かべることが重要だと言うのだ。

 このような方法でも理解できないようなことは、オカルト科学の対象にもならないそうである。これはオカルト科学の方法論であるが、現実の世界の理解にも「時々、思い浮かべて見る」という方法は大いに有効なのではあるまいか。「時々」ということは「時間をおいて」ということであると共に「くり返して」ということでもある。そうして時々、心に思い浮かべていると事の真相が理解のための努力なしにありありと心眼に見えてくることが多い。

 たとえば戦後の大事件のいくつかを、「時々」心に思い浮かべて見たらどういうことになるだろうか。まず「全面講和か多数派講和か」という問題があった。全面講和というのは米ソの間に完全な了解がまず成立しなければ実現しない話だから、それにこだわっていたら、日本はまだ占領下にとどまっていなければならないという可能性があった。今から見ればわかり切ったことだが、多くの進歩的言論人は全面講和を支持したのであるからおかしい。

 その後の六〇年安保反対の盛り上がりはどうだろう。あの時点でアメリカと無条約状態に入ることが日本の平和に役立ったろうか。今から見れば結論は歴々としている。その後の日本の経済的発展と、平和享受はすべて安保条約を前提としてのみ可能なものであった、ということは今では誰にも明らかであろう。

◆ベ平連の人たちは今… 

 七〇年の騒動の本質も今では明らかだし「ベトナム反戦運動」の正体も今や明白である。しかし「ベトナムに平和を」というスローガンは申し分のないものだから誰も反対しにくかった。純粋に平和運動だと思って参加した善意の人も少なくなかった、と思う。しかし、ベトナム反戦運動とその終末を「時々、心の中に思い浮かべる」ということをやってみたらどうだろうか。

 そこに歴々として現れてくるのは、反米援ソ運動にすぎなかったことである。ソ連の武器援助によって、北ベトナムが平和条約を破って一挙に南ベトナムを併合した。その時に「ベトナムに平和を」と運動していた人たちはウンともスンとも言わなかった。彼らが求めていたのはベトナムの平和でなく、ソ連の勢力圏の拡大とアメリカの勢力の後退だけだった。

 かつてアメリカ軍の基地のあったカムラン湾はソ連の大軍事基地になっているという。日露戦争の時、ロシアのバルチック艦隊は、ここで燃料の補給をしてから対馬海峡に向かったことを思い出す人もいるだろう。しかし「ベトナムからソ連軍事基地の撤廃を」ということを、かつてのベ平連の人たちは言わない。

 ベトナム難民が出たことにも知らぬ振りだった。こういうことを時々、思い浮かべると、まことによく見えてくる。

 今は反核、軍縮運動である。核兵器はなくなってもらいたいと思うし世界的に軍縮も進んでもらいたいと私も願っている。それはベトナムに平和を願った時と同じように、である。しかし気になることは、今回の反核運動の人たちが、ベトナム平和運動の中心人物たちと大幅に重なっていることである。そしてまたもやヘルメットをかぶった学生たちが生き生きと参加していることだ。

◆いずれは正体明らかに 

 識者たちがすでに指摘しているように、かつて原水爆禁止を訴えたストックホルム・アピールというのがあって、左翼の人たちは熱心にそれを推進した。その頃はまだソ連で原爆を開発していなかった。

 しかし、ソ連が自分が原爆をもつようになると、ストックホルム・アピールはどっかに消えた。そのために運動した人たちもいつの間にか知らんぷりになった。

 今度の反核、軍縮運動は、過去のものと違うであろうか。それを熱心に支持し、煽り立てている雑誌や新聞が、かつての平和運動と同じものであることを思えば、同じではないかと考えたくなっても仕方がないであろう。しかし、反核とか軍縮とかいう本来は申し分なく立派な理想が、反米援ソのために用いられているとすれば、まことに残念である。

 われわれは、今の反核、軍縮を推進している人たちの名前をよく覚えておこう。それを支持している雑誌や新聞の名前をよく覚えておこう。そして時々、この運動を心に浮かべて思い出し続けよう。時々思い出しておれば、そのうち正体は明らかになる。もし本当に純粋な反核、軍縮運動であれば、事は明らかになるだろう。

 おそらくは今は見えない背後の黒い(あるいは赤い)糸がありありと見えてくるのではないか。平和運動の動機を疑わねばならぬとは不幸な見聞を重ねてきたものだと思う。

(わたなべ しょういち)



 【視点】世界的に反核運動が盛り上がった1982(昭和57)年、日本でも40万人(主催者発表)が参加した「平和のための東京行動」(5月)などが行われた。渡部氏はその平和運動の正体を見極めるためには、過去の類似の運動を時々、思い浮かべてみることが必要だとした。進歩的な知識人が唱えた全面講和論や安保反対が非現実的だったことや、ベトナム反戦運動が旧ソ連を利したことを指摘した。

 そのような知識人が主導する反核運動も、「反米援ソ」のためではないかとの疑問を提起した。渡部氏はこの年、中韓両国との外交問題に発展した教科書問題で、「侵略」→「進出」の書き換えがなかった事実を明らかにし、保守系知識人としての立場を確立した。