中山成彬オフィシャルブログ・立て直そう日本~この国を守る覚悟を~ より。
先日、宮崎在住の池田明義さんという方が亡くなられた。享年87歳、中央アジアのウズベキスタンで3年間抑留生活を送られた方である。シベリア抑留60万人といわれるが、極東ロシアだけでなく、遥か西方のウズベキスタンやキルギスタンまで送られ、強制労働に従事させられたたくさんの日本人がいた。ウズベキスタンにも約2万人、うち千人以上の方々が帰国の夢を果たせぬまま異国の土となられた。
終戦直前に日ソ不可侵条約を破棄して満州に攻め込んできたソ連軍によって、捕虜にされ、、貨物列車に詰め込まれ、一ヶ月以上かけて、家畜以下の扱いで運ばれて行ったという。
ウズベキスタンでは道路建設やアパートの建築、砂漠に運河を掘り、水力発電所も作った。私も見に行ったが、この発電所は今でも稼働していて首都タシケントに電力を供給している。ナボイと呼ばれる国立のオペラ劇場も作った。この劇場は1966年、タシケントを襲った大地震で殆どの建物が崩壊した中に無傷で残り、今も立派に使用されている。
抑留者たちは朝早く隊列を組んで宿舎を出、夕方もきちんと整列して帰っていた。強制労働でありながらも、同じ敗戦国ドイツからの抑留者は定刻になるとさっさと作業をやめて帰ったが、日本人たちは作業が一区切りつくまで働いていたという。
砂まじりの黒パン一切れとスープとか貧しい食事で痩せこけた日本人を見かねて、現地の人が食べ物を宿舎の入口にそっと置いておくと、翌朝、子供のオモチャなどがお礼に置かれていたという。ウズベキスタンも又、1991年のソ連崩壊まで永年ソ連の支配下に置かれていたのである。
1999年、家内がウズベキスタン大使として赴任したので私も2度訪問したが、その時聞いた話で、ウズベキスタンでは正直で有能、勤勉な人に「日本人」というあだ名を付けるという。それほど日本人抑留者は苛酷な環境の下でも強烈な印象を現地の人に残した。
家内が3年間大使でいる間に、宮崎からチャーター便3便で約500人の方にウズベキスタンを訪問してもらった。その第2便に池田さんが乗っておられた。池田さんはタシケントについて直ぐに中山大使に、「一日別行動をさせてほしい、戦友達が眠る墓地をどうしても訪問したい」とお願いされた。大使は車と通訳をつけて送り出し、帰って来られた池田さんから抑留のことを詳しく聞いた。
「ウズベキスタン国内に10箇所近い日本人墓地が荒れ放題で残されている。なんとか整備したい。そうでないと死んでも死にきれない。」涙ながらの池田さんの話を大使から聞いた私は、日本国内で募金活動を始めた。抑留体験者をはじめ全国から瞬く間に2千万円を越える献金が集まったのでウズベキスタンに送った。中山大使はその金を持ってウズベキ政府に墓の整備をさせて欲しいと申し入れた。ところが、ウズベキ政府から、その仕事は自分たちにやらせて欲しい。実はモスクワからは日本人の墓を全部取り壊せという命令が来ていたが、我々はそれを無視してそのまま残しておいた。当然自分達がやらなければならない仕事なのだといって受け取ってもらえなかった。そこで、皆んなで相談してウズベキの子供たちにパソコンとか学用品を贈ることにした。
この献金活動に終始先頭に立って頑張られたのが池田さんであった。池田さんから、「自分達ははるか東方に聳える万年雪をかぶった天山山脈を望みながら「ダモイ」(帰国)の日を待ち望んでいた。そして、もう一度満開の桜の花を見たいと話しながら強制労働に耐えていた」という話を聞いた私は、「日本桜の会」に頼んで桜の苗木を送って墓地の周りに植えてもらうことにした。桜は弱酸性の土壌に合うが、ウズベキの土はアルカリ性なので、土壌改良から始めなければならなかったが、幸い当時日本から農業指導にウズベキに派遣されていた日本の農業技術者がおられて助かった。
桜の話を聞いたウズベキ政府から、大統領官邸をはじめ中央官庁やタシケントの目抜き通りに植樹して欲しいという話になり、結局日本から送った苗木は1900本にもなった。あれから9年、桜木は大きくなり、毎年3月半ば、日本より少し早く満開になる。ワシントンのポトマックの桜には及ばないが、タシケントの市民に親しまれているという。
墓地整備の完成式を日本からウズベキ議員連盟の会長 麻生太郎先生をはじめたくさんの人達に参加してもらって盛大に行った。式の終り近く、誰からともなく抑留者がよく歌っていたという「ふるさと」が歌い始められ、強烈な日ざしの中で、汗と涙で顔中がくちゃくちゃになったことを思い出す。
大正13年生まれの池田さんは帰国後、池田木材という会社を立ち上げられ、永年経営された。20歳前後で抑留され、苦労して帰国された方々も90歳近くになり、だんだん少なくなっている。韓国や中国からは日本に強制連行されたとか、従軍慰安婦の補償を求める訴訟などがまだ続いている。日本人にはソ連に連行され、強制労働させられた補償をソ連に求めることなど考えも及ばなかった。抑留者の皆さんはその過酷な運命に人生を狂わされながらも、戦後を必死に頑張ってこられた。そしてたいした補償もしなかった祖国を恨むこともなく静かに亡くなっていかれる。私達はそうした人々のことを永遠に忘れてはならないと思う。池田明義さんのご冥福を心からお祈り致します。