民主党政権は平成の王莽か。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【古典個展】立命館大教授・加地伸行




3年前、民主党政権が誕生したとき、彼らがいかに詐偽(「詐欺」と言ってもよい)集団であるかということを、私は歴史の故事を被(かぶ)せながら論じた。

 すなわち「ある寓話(ぐうわ)-其(そ)の詐(たば)かるや愚かなるのみ」(月刊『正論』平成21年10月号)である。この副題は、引用故事の中心人物であった王莽(おうもう)に対する、趙翼という清(しん)朝の文人の評語である。

 この評語どおり、王莽は実にことば巧みにできもしない政策を吹きに吹きまくって「詐かり」、大衆の歓心を買い、漢王朝を奪い取り、新という名の王朝を建て、皇帝となった男である。西暦8年。

 即位後、行政組織をつつきまわして、あれこれといじくったが、成功するどころか大混乱に陥り、わずか15年で滅亡する。西暦23年。

 反乱軍に殺された王莽の最期は哀れであった。前記拙稿から引く。

 <首は斬られて首実検となる。軍兵は残った「莽の身を分裂す」-数十人が争って身体をずたずたにして殺すことに加わった。そしてさらし首として懸けられた王莽の首から、民衆の或(あ)る者が舌を切り取って食(くら)ったという。それは、王莽のデマかせの舌を憎悪したことを表す意味であろうか。>

 この「王莽」という語を「民主党」に置き換えれば、3年前の私の予告どおりとなるであろう。

 歴史はいろいろな教訓を与えてくれる。王莽の最終章を新しく記してみよう。こういう惨状であった。

 王莽の新王朝に対して、全国に反乱軍が現れる。当然、反乱を鎮圧するための軍を発動させたが、まったく戦意がなく、連戦連敗。(最近の諸選挙に民主党は連戦連敗)

 反乱軍は団結し代表者を立てて王城に迫ってきた。(自民の新代表決定。日本維新の会も登場)

 これを恐れた王莽は、人気取りになんと己の髪や鬚(あごひげ)を黒色に染めて若造りし、皇后を迎え派手な婚儀を行い、若さをアピールした。(細野某ら若手人事)

 そして謹慎させていた実力者らを赦免し、戦えと命じたが、彼らは「因(よ)りて[そのまま]逃亡す」。その数、72人。(小沢一党49人、それ以後、民主党離党者続々)

 苛立(いらだ)った王莽は、果ては囚人を特赦して武器を与え、豚を殺してその血を歃(すす)りあって[同じ血の通う仲間となる儀式]、戦うことを誓わせ出陣させたが、都を出ると「皆(みな)[どこかへ]散走す」。当たりまえだ。(民主党実動部隊である下部組織崩壊中)

 この状況を『漢書(かんじょ)』王莽伝はこう記している。「莽が軍師(軍団)外(そと)は破れ、大臣 内は畔(そむ)き、左右(官僚)信ずる所(ところ)なし」と。にもかかわらず、反乱軍の干戈(かんか)(武器)の響きがすぐそこまで来ているというのに、王莽は人事に熱中し、官名を改変することなどに熱心であった。

 そしてこう言った。「天 徳を予(われ)に生ぜり。漢兵(漢王朝再興を期す反乱軍)それ予を如何(いかん)せん」と。これは、孔子が弟子たちと流浪中、宋国の国防大臣の桓●(かんたい)の軍に囲まれたときに発したことば「天 徳を予に生ぜり。桓●それ予を如何せん」(『論語』述而篇)を踏んでいる。

 しかし、王莽には政治家に最も大切な徳などなかったのである。(かじ のぶゆき)

●=魅の未がふるとり