【決断の日本史】939年12月26日
「海賊」にされた摂関家の傍流
藤原純友(すみとも)(?~941年)といえば、瀬戸内海の海賊と結託して反乱を起こした無頼の男を思い浮かべるに違いない。だが、下向井(しもむかい)龍彦・広島大学教授(日本古代史)が昨年上梓(じょうし)した『純友追討記』(山川出版社)を読むと、イメージは一新される。
父親の良範(よしのり)は、摂政の藤原忠平と祖父を同じくする従兄弟(いとこ)である。名門ながら出世できなかったのは、祖父と父親が早世したためであった。
純友は承平(じょうへい)2(932)年、伊予掾(いよのじょう)(3等官)として伊予国府(愛媛県今治市)に赴任した。50歳近い高齢だったとされる。当時、租税のコメを都に送る途中、略奪される海賊行為が頻発し、その対策が任務だった。
この「海賊行為」は下向井教授の研究により、国府の責任者である受領(ずりょう)と在庁官人との間で生じたあつれきをきっかけに起きた官人たちの抵抗運動だったことが明らかにされた。
「都で出世を阻まれた純友には、在庁官人への共感があった。とはいえ海賊行為は放置できない。税をきちんと納めることを条件に、罪を許したのだと思います」(下向井教授)
純友の業績はしかし、評価(昇進)につながらなかった。そればかりか天慶(てんぎょう)2(939)年12月26日、過激な仲間が摂津国で備前国府の役人を襲い、純友も「謀反」を疑われた。
東国では平将門が兵を挙げていた。摂政忠平は将門討伐を優先し、純友には五位(ごい)の位(くらい)を贈る懐柔策に出た。純友は矛を収めたかったのかもしれない。しかし翌年2月、仲間が備前や讃岐の国府を焼き、反乱は拡大した。
同月、将門が戦死。鎮圧軍は強化され、天慶4(941)年6月20日、伊予国で斬られた。下向井教授は「純友の思いは朝廷に弓を引くというより、自らの功績への正当な評価を求めただけ」と悲運に同情する。
(渡部裕明)