気迫なき政治「ごっこ」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室




よく人望とか魅力という言辞で人物を評するが、中国では古伝に風度という言葉が用いられた。それには風采・風貌・風格などが含まれている。風采とか風貌が良いところに魅力があるが、それに加えて人格と人望の人といわれるなら満点以上。しかしそんな人はあるはずがない。大抵、風貌や魅力だけで終わってしまう例が多い。風貌というと美男美女、形と表面的な面だけをとらえられるが、実は美醜の問題でなく、なんとなく人を引きつける相姿(すがた)があるかないかである。

 相は目に見えない内面のもの。姿は見えるものだからお分かりになるだろう。持って生まれた風姿や風貌が、人を引きつける何ともいえない味わいを持っていることが風度であるといわれる。各界のトップリーダーにはこの要素が必要であろう。トップに上りつめる人であるから全部とはいわないが、50%以上はそれを持っているようである。要するにカリスマ、何か神秘的なものがあるといえよう。

 日本では政治のことを「まつりごと」といった。日本各地で神社が「祭り」を催す。考えてみると「ごと」は遊びことばにも用いられる。小さな子供が「おままごと」とか、私たちの少年時代は「戦争ごっこ」「陣取りごっこ」など遊びにも軍国的なものが取り入られていた。要するに大人の真似(まね)をしたものである。職場でも「性根を入れてやれ」とか「遊びごとではない」などと激励される。今の政治を見ていると維新の会の台頭で各党が翻弄されているようで、自分の立場を守るために党を脱(ぬ)けて維新へなどと漂流する人もいる。何か真の政治をやるという気構えのない政治「ごっこ」をしているようである。気迫や気構えが見受けられないこの頃である。だから竹島や尖閣諸島の問題にも本気で立ち向かおうとはしないのが残念である。

 孟子が教えた中に「窮すれば即(すなわ)ち独り其(そ)の身を善くし、達すれば即ち兼ねて天下を善くす」がある。これは身を窮地におかないと善など行えるものではない。自分自身を捨て無の境地になってこそ、真の針路が定まり、世の中を善くすることができる、ということであろう。「自らを捨てる」。これは決して遊びごとではない。私利私欲が人間本来の姿であるがこれを捨てて初めて裸の人間になれる。裸の人間の魂が人のために生かされていく、と私は師の後藤瑞巌老師から訓育された。なかなかできるものではない。

 現代に重要視される情・知・意の3つは何であろうか。情は何か心の底からあふれ出てくるものではないだろうか。知は単なる知識ではなく、物ごとを深く理解すること。そこからそれなりの判断が生まれてくる。意は心だとすると、その「心」は何処(どこ)にあるのか。その心、即ち真意を探求していくことが必要である。これらのすべての土台は自分であり、自分の勇気即ち胆力がなければならない。腹に力を入れて「よしやるぞ」という気構えである。日本ではポピュリズムが流行している。歌手の人気投票で大衆の注視を得ようとする傾向が世界中にも蔓延(はびこ)っているような時代である。われわれは心してこうした夢の中で悪い夢を見ないでしっかりと目覚めていかなければならないと思う。

                                  (せん げんしつ)