【決断の日本史】1201年5月9日
関東武者のあこがれの的に
源平争乱期、木曽義仲に愛された巴御前(ともえごぜん)と並んで女性ながら勇壮をうたわれた坂(板)額(はんがく)御前を紹介したい。
建仁元(1201)年、つまり源頼朝が亡くなって2年後の正月23日のことである。越後の御家人、城永茂(じょうのながもち)が兵を率いて上洛し、京都守護・小山朝政(おやまともまさ)の屋敷を襲った。朝政は留守で無事だったが、永茂は後鳥羽上皇に「幕府追討の宣旨」を出すよう迫った。
永茂はかつて、平氏に従っていた。しかし頼朝の寵臣・梶原景時によって許され、御家人に加えられた。頼朝が急死後、景時が小山らに粛清されたことを恨んでの行動だった。
永茂は捕らえられ、斬首された。だが領地の奥山荘(おくやまのしょう)(新潟県胎内(たいない)市)では、甥(おい)の資盛(すけもり)ら千人が呼応して兵を挙げ、近くの鳥坂城(とっさかじょう)に籠もった。
同年4月3日、幕府は越後御家人、佐々木盛綱に追討させることを決定、数千で鳥坂城を取り巻いた。激しい攻防戦の中、登場したのが資盛の叔母(伯母とも)、坂額御前である。
「女性の身ながら、射る矢は百発百中で男の兵を凌駕(りょうが)している」と、幕府の史書『吾妻鏡』は記す。しかし5月9日、鳥坂城は落ちた。坂額も傷を負い6月28日、鎌倉に送られた。2代将軍・頼家の前に引き出されると、関東武者がみな、一目見ようと集まった。彼女は美しく、態度も堂々としてこびへつらう様子がなかったという。
翌日、甲斐源氏の阿佐利(あさり)与一(源義遠(よしとお))が「坂額を預かりたい」と願い出た。頼家が理由を問うと、与一は「彼女と夫婦の契りを交わし、たくましい男子を産ませ、朝廷を護(まも)り、武家を助け奉りたい」と答えた。
願いは聞き届けられた。しかし、2人に誕生したのは女子だった。胎内市のJR羽越線中条駅前には坂額の銅像が立ち、毎年秋には彼女をしのぶ「板額の宴」も開かれる。
(渡部裕明)