太安万侶の墓誌。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【古事記のうんちく】(3)偽物説を払拭





昭和54年1月、考古学者だけでなく、日本中を興奮させる発見があった。奈良市此瀬(このせ)町の茶畑で、農家の男性が鍬(くわ)で土を掘り返すと、突然大量の木炭とともにぽっかりと開いた穴が現れた。

 火葬した人骨とともに、細長い銅板(長さ29センチ、幅6センチ)も入っていた。「勲五等太朝臣安萬侶(おおのあそんやすまろ)」。銅板の土を取り除くと、古事記の編者として教科書でもおなじみの奈良時代の官僚、太安万侶の名前など計41文字が刻まれていた。「左京四条四坊」という当時の住所も記され、安万侶の自宅が現在のJR奈良駅周辺にあったことが判明。さらに養老7(723)年7月6日に亡くなったと記されていた。

 「墓誌が見つかるまでは、古事記偽物説が盛んだった」と話すのは、同志社女子大の寺川眞知夫特任教授。戦前の皇国史観の反動もあり、古事記は平安時代ごろの作とする研究者も多かったという。

 偽物である根拠として、711年の元明天皇による古事記編纂(へんさん)再開の記事が当時の公式な歴史書「続日本紀」に記されていないことや、文体も平安時代以降のものではないかなどと指摘された。安万侶も架空の人物との説があったが、墓誌の発見によって、古事記の信憑性(しんぴょうせい)が一気に高まった。

 安万侶の墓誌は国重要文化財になり、現在は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(同県橿原市)で常設展示されている。古事記編纂1300年にあたって銅板の科学分析が行われるなど、再び関心が高まっている。


                               (編集委員 小畑三秋)