侍塚古墳の発掘。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






【決断の日本史】1692年2月14日

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120925/art12092508010000-n1.htm






■黄門さまが始めた「考古学」

 

 水戸黄門こと徳川光圀(1628~1700年)が若いころ、司馬遷の『史記』を読み、放埓(ほうらつ)な生活を反省して学問に打ち込むようになった話は以前、この連載で取り上げた。『大日本史』の編纂(へんさん)は生涯をかけた大偉業だが、もう一つ彼が成し遂げた後世に残る事業を紹介したい。

 それは、日本で初めての学術目的での古墳の発掘である。対象は栃木県大田原市湯津上(ゆづかみ)にある上侍塚(かみさむらいづか)、下(しも)侍塚の2つの前方後方墳だった。全長はともに100メートル前後。5世紀代の築造で、国の史跡に指定されている。

 きっかけは延宝4(1676)年、侍塚の近くで巨大な石碑が発見されたことだった。「那須国造碑(なすこくぞうひ)」(国宝)と呼ばれているこの碑には、次の意味の152文字が刻まれている。

 「持統天皇3(689)年に那須評督(こおりのかみ)(郡の長官)に任じられた那須国造(くにのみやつこ)直韋提(あたいいで)が文武天皇の4(700)年に亡くなったので、息子の意斯麻呂(おしまろ)らが生前の徳をしのび碑を建てた」

 現在の研究ではこうした内容が判明しているが、発見当初は国造の名前が分からなかった。侍塚こそ彼の墓とみて、被葬者の名前を記した「墓誌(ぼし)」の発見に期待をかけたのだった。

 調査は元禄5(1692)年2月14日から11日間、行われた。現場で指揮したのは「助さん」こと、佐々宗淳(むねきよ)(十竹(じっちく))。墓誌はなかったが、甲冑(かっちゅう)のほか鏡、玉などが発見された。

 光圀が優れていたのは、副葬品を私蔵せず、絵師に写生させたのち木箱に納めて埋め戻したことである。また墳丘には赤松を植えて整備した。

 古墳の発掘といえば宝探し、つまり盗掘だった時代である。これに対し、光圀の発掘は科学的(当時の水準ではあるが)な調査方針と文化財保護の精神を持っていた。現代の視点でも十分評価していいだろう。

                                     (渡部裕明)