平成14年9月17日「夢に見たことが現実に」日本政府と面会
平成14年10月に帰国した拉致被害者、曽我ひとみさん(53)が20日に発表した手記の全文は次のとおり。
「もう10年になるんだなぁ」
年が明けて平成24年になった。その日から何度この言葉をつぶやいたことか。その度に色んなことが頭の中を駆け巡る。思い出したくないことは鮮明に浮かんでくる。覚えていたいことは、時間の経過とともにぼんやりとしたものになってくる。あれやこれやと考えているといたたまれない気持ちになり、同時に胸が締め付けられじっとしていられなくなる。
この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけが日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中が一杯になる。正直なところ、私達5人が帰国し、拉致問題が大きくクローズアップされたことにより、他の拉致被害者が続々と帰国してくるものと思っていた。しかしこの10年、これといった成果は見られなかった。
拉致被害者を待つ家族の気持ちを考えると、1日1日がとても貴重な時間であり、もう待てないところまで来ている。一体どうすれば解決できるのだろうか。誰も答えを引き出すことなど出来ないのではないだろうか。それほど難しい問題なのだと思う。でも、今の状態がずっと続くことは許されない。何か解決の糸口が見つかってほしいと願うばかりだ。ここで、この10年を振り返ってみる。
何から書けばいいだろう。ちょっと思い出してみる。そう、やっぱり最初に思い出すのは、帰国できた最大の要因となった日本の調査団との面会だろう。平成14年9月17日、日本の調査団がやってきた。実は、党の幹部から事前に調査団が来ることを告げられていた。ただ、今までだまされ続けてきたので、本当に面会できるのか半信半疑だった。
私は、党の幹部と指導員と同伴で、面会会場へ行った。24年間、待ちに待った瞬間が本当にやってきた。夢に見たことが現実となったのだ。この時の嬉しさをどう表現すればいいのか分からないほど舞い上がっていた。当時はすっかり日本語を話せなくなっていたので、通訳を介してのやりとりがあった。
心の中では、自分が「曽我ひとみ」であることを日本語で叫んでいた。一つ一つの質問がもどかしい。早く私を「曽我ひとみ」だと認めてほしいと気持ちが焦っていた。どのくらいの時間が経っただろう。調査団の人達が「曽我ひとみ」本人であると認めてくれたのだ。その時の嬉しさは今も忘れていない。
ただ、残念なこともあった。その面接の時、一枚の写真を見せられた。「誰か分かりますか?」と聞かれ、「私です」と答えたら相手は不思議そうな顔をしていた。思いつく人物がいないので、ずっと考え込んでいたら「あなたのお母さんですよ」と言われた。
あんなにも会いたくて会いたくて思い続けた母(一緒に拉致され、現在も安否が分からないミヨシさん)の顔を忘れていたのだ。確かに初めて見る写真ではあったが、母の顔を忘れているなんて想像もしていなかったのだ。あの時の何とも表現し難い衝撃は、その後の幾多の出来事で味わった衝撃と比較できないほどであった。全身の力が一気に抜けてしまったことを今も覚えている。
その後、日本へ一時帰国することになった。娘たちは、「日本に帰るのに、日本語話せるの?」「少しでも日本語が話せた方がいいよ。今から少しでもいいから日本語の勉強しなさいよ」と、あれやこれやと世話をやいてくれた。娘たちの気遣いがとても嬉しかった。とはいえ、「一夜漬けの勉強でどうなるものでもない」「日本に行けば何とかなるさ」と、今思えば、かなり肝が据わっていたようだ。
出発の日、空港まで夫と娘たちが見送りに来てくれた。「いよいよ、日本へ帰れる」心の中では、飛び上がるほどの嬉しさがこみ上げていた。でも反面、不安もあった。佐渡の家族は、親戚や友人は、私を覚えているだろうか? 私を受け入れてくれるだろうか? いろんな思いが頭をぐるぐる駆け巡っていた。ついに飛び立った。
「久しぶりの父の佐渡弁が心地よく響いた」帰国し家族と再会
平成14年10月15日、24年ぶりに帰ってくることができた日本。着陸態勢に入った。窓から見える空港の景色。なぜか大勢の人達が見える。私たちの他に誰か有名人でも出迎えにきているのだろうか。軽い気持ちでいた。
ところが、タラップへ出てきたらびっくりした。あの窓から見えた人達は、私達5人を出迎えるため集まっていたのだった。日本では、拉致問題がとてつもなく大きな出来事なのだと、このとき初めて知った。ただ私自身は、自分の国へ帰ってきただけなのに、という単純な思いしかなかった。
出迎えの人達は口々に「お帰りなさい」と言っている。知らない人達ばかりだった。必死に家族を探した。妹(金子富美子さん)の姿が見えた。お互いに駆け寄り抱き合った。嬉しくて涙が止まらない。でも、話が出来ない。いっぱい、いっぱい話したいことがあるのに、言葉が出てこない。もどかしくて、自分でもどうしたらいいのか分からなくなっていた。
会話もままならない状態でホテルへ着いた。部屋に入って一息ついていたら、政府関係者が訪ねてきた。「この後、被害者全員で会見があります。その場で一言でいいので、話をしてください」と言う。「妹とさえまともに話ができないのに、一言でいいから何かを言えとは…」と途方にくれた。
必死に言葉を探した。「会いたかったです」の言葉が浮かんできた。部屋の中で何度も何度も声を出して練習した。私にはやっとひねり出した日本語だったのだ。会見場にいた人やテレビを見ていた人たちには、何か物足りないと感じたかもしれないが、私には清水の舞台から飛び降りる気持ちで発した日本語だったのだ。言った後、ドキドキした胸のつかえが一気に取れた気がした。会見が終わればゆっくりできるかと思っていたが、なかなか一人になる時間を与えてもらえなかった。東京滞在中は、家族会の人たちや政府関係者との面会が続き、日本に帰ってきた感動を味わうどころではなかった。
10月17日、佐渡へ帰ってきた。新潟から飛行機で20分余りのフライトだったが、窓から見える佐渡島は、何も変わっていないように見えた。島影が見えた途端、胸が詰まり涙が自然にこぼれてきた。到着するまでの間、ずっと泣きっぱなしだった。
マイクロバスに乗り込み、真野町役場に向かった。車窓から見える佐渡の風景は、私がいたころと随分変わっていた。道路は広くなり全て舗装され、街灯もたくさんついている。家並みも整い、きれいな家がいっぱいあった。自動車もたくさん走っていて、ここが本当に佐渡なのだろうかと目を疑うような変化に驚いたことを思い出す。
役場に着いた。玄関先で大勢の人達が出迎えている。町長はじめ役場の職員、議員、そして同級生たち。同級生は、みんなそれなりに年を取っていたが、一人ひとり誰なのか名前を言わなくても分かった。ただ、相変わらず日本語が出ない。同級生の言葉にただ頷くしかなかった。言葉を交わさなくても、みんなが私を忘れていなかったことがすごく嬉しかった。
ゆっくりすることもなく、(真野町)四日町の集落センターへ。挨拶もそこそこに、自宅に向かった。マイクロを降りると父(茂さん)が足を引きずりながら駆け寄ってきた。私も小走りに駆け寄り抱き合って泣いた。ただ、謝ることしかできなかった。死んだと思っていた娘が帰ってきたのだ。父も私の姿を見るまでは信じられない思いだったはずだ。お互い多くを語らなくても嬉しさが伝わっていた。
それにしても、本当に久しぶりの父の佐渡弁が心地よく響いた。ほんの少しではあるが、日本語が甦ってきて、片言だけど話をすることができた。親戚の人も近所の人も集まっていた。みんな泣いていた。温かく迎えてくれたことが本当に嬉しくて、「やっぱり故郷はいいなぁ、帰ってきて良かった」と心の中でつぶやいていた。
でも、嬉しい反面、悲しい気持ちもあった。その場に母の姿がないことだった。調査団の人に、「佐渡にお母さんはいません」と言われていたが、信じることができないでいた。タラップを降りるときも、もしかして迎えにきてくれているかもしれないと僅かな望みを抱いていた。だけど、やっぱり母はどこにもいなかった。辛い現実をつきつけられた思いと、それを受け入れなければならないと自分に言い聞かせながら、やっぱり否定する自分がいて、その狭間での葛藤は苦しいだけだった。
その夜は、疲れているはずなのだが、興奮してなかなか寝付けなかったことを思い出す。それにしても、次の日からあんなに忙しくなるなど想像もしていなかったので、今思えばよくあれだけの日程をこなしてきたものだと感心している。
「北に逆らえば、家族はどうなるのか」日本永住めぐる苦悩
(平成14年10月)18日、墓参りに行き、午後からは高校の卒業証書授与式に出席した。卒業まで半年あまりとなった年に拉致されたのだ。心残りとなっていた問題の一つが解決された喜びがあった。反面、本音を言うと40歳を過ぎて賞状を受け取るのは恥ずかしかった。でも、私一人のために式を用意してくれたことが嬉しく、みんなと同じ卒業生になれたことも最大の喜びだった。関係者のみんなに心から感謝した。
式の後は同級会があり、24年振りに同級生たちに再会した。みんながそれぞれの24年を過ごしたんだなぁと、一人一人の顔や姿を見て思った。それは、21日に参加した小中学校の同級会でも同様の感想であった。中には、「あの人誰だっけ?」と、名前と顔の一致しない同級生もいた。
月日の流れは人の記憶を曖昧にするものだと実感した。でも、やっぱり友達というのは良い。会えば一瞬で過去の自分に戻してくれる。友達の存在は、過去も現在も私の宝だと思っている。
そうそう、23日の(拉致された時に勤務していた)佐渡病院訪問でも嬉しいことがあった。24年間、被ることがなかったナースキャップを着けてもらったことだ。自分の一生の仕事だと思い、勤務し始めた矢先の出来事だっただけに、中途半端で投げ出したことに責任を感じていたが、ナースキャップを頭に載せられた時は、看護師に戻った気分になり嬉しかった。
日本滞在中は、毎日忙しかったが充実していた。北へ帰る時間が迫れば迫るほど、故郷への思い、家族、親せき、友人たちへの思いが捨てきれずに心が痛んだ。かといって、北にいる夫や娘たちへの思いも募る。両方の国にいる愛する人たちの狭間で体が二つあったらどんなにいいかと何度も思った。
そんな折、「拉致被害者5人を北へ帰さない」との政府方針が発表となった。一時帰国と思っていた私は、着々と帰る支度をしていたのだ。正直ショックだった。「北に逆らえば、家族はどうなるのか?」そのことばかりが頭の中をぐるぐる駆け巡る。
24年間、逆らうことなく言うがままにしていたから、私は生き延びてこられたのだと確信していた。それなのに、北へ逆らえと日本政府は言うのだ。私の返事次第で家族の処遇が決まると思い込んでいた私は、どうすることも出来ず悩む毎日だった。返事を出せないまま数日が過ぎた時のことだった。
日本滞在中に健康診断でも受けたらとのアドバイスもあり、特に悪いところはなかったのだが、せっかくなので人間ドックを受けることにした。その時、先生から「ちょっと肺に気になるものがあります。まだほんの小さな粒程度ですが、もし時間が経って大きくなるようなら手術した方がいいと思います。まずは一年くらい様子を見ましょう」と言われた。私は、直ぐに「肺がん」だと確信した。
なぜなら、北にいたとき(ルーマニア人拉致被害者で脱走米兵と結婚した)ドイナが肺がんで亡くなっていた。初期の症状からずっと見ていた私には、肺に何かがあるというだけで、理解することができたのだ。精密検査をするために組織を取ったが、ほぼ間違いなく悪性だろうと思われた。怖くなった。
目の前に「死」が迫っていると感じた。だが、先生が「ほんの初期ですから心配いらないですよ。」と言ってくれたので安心できた。これが北朝鮮だったら、私は確実に死んでいただろう。ドイナのように、死ぬ直前まで故郷を思い、二度と故郷の土を踏むことが叶わなかっただろう。未練を残したまま死ぬことを考えたら、日本に帰れたことを感謝した。
「あなたたちが日本に来てほしいと」北の家族へ悲しい返信
数日後、いろんな悩みを抱えた状態で、北へ帰るか日本に留まるかの結論を出す時がきた。これまでに、たくさんの人たちが私を説得しに来た。一人で結論を出すのが怖かった。家族の安全が保障されるならすぐにでも返事をしただろう。でも確信のないものに返事はできなかったのだ。
両方にいる家族への思い、自分の病気のこと、日本政府を信じてもいいのか、眠れない日々を送りやっとの思いで結論を出した。「日本に留まり、家族を待つ」と決めた。結局、帰国した5人ともに同じ結論を出したのだった。5人が日本に残るということは、私にとって少しでも励みになることだった。
でも、私以外は夫婦で帰国している。何かと相談できる相手がいるということだ。私には何でも話せる相手がいない。これは、家族を取り戻すまでの間、かなり堪えた。毎日どこかへ誰かと出かける。この時間は気を紛らわすことができたが、帰宅した後は何とも言えない孤独感に見舞われた。
「本当にこの選択でよかったのか?」「夫や娘たちは、本当に無事でいるのだろうか?」と心配する毎日だった。ただ、時間の経過とともに、いろいろと世話を焼いてくれる人が現れ、北の家族の情報が嬉しくない形で入ってくることもあった。今思い出しても、あの時が一番苦しい時だったように思う。
辛い日々を過ごしながら、手術の日が迫っていた。実は、私の病気は非公表であったため、当時の真野町役場に箝口令が敷かれていた。マスコミの目を盗み、ひそかに東京へ。誰にも気づかれないよう偽装工作をし、入院することに成功した。
その後、手術も無事終わり、このまま秘密を維持したまま佐渡で何食わぬ顔をして普段通りの生活に戻ればいいのだと考えていた。ところがこの秘密が、あっという間にバレテしまうのである。当時の関係者がマスコミに話してしまったのだ。
さあ、この話を聞いたマスコミは怒り心頭である。(真野町の)支援室とマスコミの信頼関係はぶち壊しとなり、当時(真野町)役場の支援室長は窮地に立たされ、結局、町長筆頭にマスコミに謝罪することになってしまった。私の知らないところで、大変な事態となっていたのだ。
後日、この話を聞いたときにはすでに笑い話となっていたので安心して聞くことができた。当時の支援室長の人柄もあったのだが、私に心配の種を残さないようにしてくれていたのだなと感じた。私にとっては、とても心強い味方であった。今ももちろんのこと、これから先も感謝の気持ちを忘れることはないだろう。
ひと騒動からしばらく経ったある日、北にいる家族から手紙が届いた。見れば、早く帰ってこいと書いてある。日本で家族を待つと決めた以上、私は一人では帰れない。そして、返信には、あなたたちが日本に来てほしいと書く。これほど悲しい手紙を書いたのは初めてだった。毎日毎日、会いたくてたまらない家族の手紙に、嬉しい涙ではなく、辛く苦しい涙を流すことになるなんて、思ってもいなかった。
また、返事を出しても北朝鮮では検閲されることはわかっていたので、苦しい胸の内をあからさまに書き表すことはできなかった。また、返事が確実に届くという確信はなかった。内容が不良であれば破棄されるのだ。正直こんな状態がいつまで続くのかと胸が痛んだ。家族と会えるまえの試練なのだと、じっと耐えるしかなかった。
そんな状態のとき、ここでまたひと騒動起きたのだ。北から届いた手紙の住所が無断で(新聞に)掲載されたのだ。そのことを聞かされた時、真っ先に頭に浮かんだのが「家族の身が危ない」ということだった。
北では拉致被害者の存在は極秘であり、外部に漏らすなどありえないことなのだ。それがいとも簡単に日本の新聞社が掲載し、公になってしまったのだ。北の関係者の目に留まれば、夫や娘たちの存在を消されるのではないかと心底悩み苦しんだ。事態の収拾過程はいろいろあったものの、結局両成敗ということで落ち着いた。
今でこそ思い出話となったが、当時は次々と何かが起こる、予測も出来ない日々を過ごしていたのだ。
「半分の期待が十分の期待に」小泉首相の再訪朝決定
佐渡での生活を始めてから、何かと忙しい日々を送っていたある時、「旦那さんや娘さんたちが帰ってきたら、佐渡では車がないと不便だよ。免許取ったらどう?」と勧められた。家族が帰ってきたら自分が生活の中心となる。確かにそうだった。
当時は、どこへ行くにも送迎付きだったが、正直自分が出かけたい時に勝手に出かけることは出来なかった。いつまでも人を頼ってばかりではいけないと思い、自動車学校へ行くことを決めた。
免許取得までにはスケジュールを調整したり手術があったりと少し時間はかかったが、免許証を手にすることができた。嬉しかった。夫や子供たちが帰ってきたら、買い物はもちろんのこと、どこへ連れて行こうかと考えるのが楽しかった。早く運転が上手になることと、佐渡の道路になれるために、頻繁に車で出かけるようにした。
今だから暴露するが、初心者マークは4~5年つけたままにしておいた。運転に自信がなかったことから、対向車や後ろについた運転者が気をつけてくれるだろうと思ったのだ。おかげで大きな事故もなく、(車の擦り傷、打撲はあったが)現在まで運転できている。
そんなある日、役場から「一通りのスケジュールも終了したこと、佐渡での生活にもだいぶ慣れてきたことから、少し仕事でもしてみないか」と言われた。確かに、今後についての見通しは立っていなかった。
准看護師の資格だけでは、医療現場に戻ることもできない。かといって、それ以外の仕事を経験したこともない。普通の会社員として働くにしても、24年のブランクが大きすぎてちゃんと仕事をこなせる自信がなかった。それでも何か仕事はしたいと思っていた。
役場からは「役場で保健師の助手としてどうか」とのことだったので了承した。一つ一つ丁寧に指導してくれた保健師や職員の温かい対応に、仕事をするのが楽しいと感じるようになっていた。
そんな中、母を中心とする拉致被害者救出の大集会を島内で開催することになった。救う会全国協議会、家族会の主だった方たちが出席してくれた。また、国会議員や議連、全国の救う会の会長など、本当にたくさんの人たちが参加してくれた。島民大集会をやってよかったと思った。母への思いは、この後まとめて書くつもりでいるのでここでは触れない。
年が明けた平成16年、「今年こそは事態が進展し、家族が帰ってくるように」と地元の神社へ初詣にいった。昨年も行ったが、何の動きもなかったのだ。
頻繁に日朝協議を行っているようではあったが、嬉しい知らせはなかった。毎日淡々と仕事をした。仕事をしている時だけは、何も考えなくてよかったからだ。下手に期待を持つと裏切られた時、立ち直るまでに時間がかかる。北にいた24年間で数え切れないほど経験したのだ。だから期待は半分で毎日を過ごしていた。
そんな時である。国から「小泉首相が、2回目の訪朝をする」とのニュースが飛び込んできた。正直驚いたし、嬉しかった。家族を取り戻すという私たち被害者の声を受け止め、行動に移そうとしていたのだ。政府の真剣に取り組む姿勢に、半分の期待が、十分の期待に変わっていった。
5月21日、小泉首相の再訪朝を受けて上京した。22日は、家族と会えるかもしれない。会えたら、「何を話そう、日本に留まることにした理由、この1年半どうして過ごしていたのか」など、あれやこれやと頭の中で思いを巡らせていた。家族へのプレゼントも買った。それも東京へ持っていった。
ただ、不安なこともあった。夫(ジェンキンスさん)のことである。アメリカ軍からの訴追を受けることを本人が一番よく分かっていたのだ。日本の誘いにおいそれとは乗ってこないだろうと予想はついた。それでも、子供たちのことを考え、リスクを冒しても日本に来ることを選択するかも知れないと、淡い期待も確かに持っていた。
だが、結果は日本には帰らないというものだった。予想はしていたが、やはりショックだった。この時の心境を綴った手記を当時発表しているので、ここでは省略するが、第三国での再会案が浮上していたので、それに賭けてみようと思っていた。日程などは全くの白紙であったが、夫にも子供たちにも、どうすることが一番いいのか考える時間的余裕ができたことは幸いなことだと思った。
これにより、政府関係者も第三国の選定に入り、日程調整も同時並行で行われた。紆余曲折あったが、インドネシアのジャカルタと決まった。その後は、再会に向けて着々と準備を進め、出発する日を待つばかりとなった。
「次から次へと悲しいことが…」夫、娘と再会も父が癌に
7月9日、いよいよ家族との再会である。空港で待つ間、そわそわと落ち着かない。夫(ジェンキンスさん)は、娘(美花さん、ブリンダさん)たちは、私のことを怒るだろうか。2年近く放っておいたようなものだ。みんなに責められても敢えて反論はせず、素直に謝ろうと考えていた。気持ちが落ち着いたころを見計らって、今までのいきさつを話せば理解してくれるだろう。ささいな行き違いなどはあっという間に埋められるはずと、家族としての絆を信じていた。
タラップから降りてくるのが見える。やっと会えた。全員が泣いている。みんなに謝った。話したいことはいっぱいあるが、とりあえずホテルへ向かった。ホテルでは、今まであった出来事を話した。辛いことや悲しいことはあったが、4人一緒にいられることが嬉しかった。
私達家族が忌憚なく話せるようにと日本政府関係者が北朝鮮の同行者を遮断した。当然先方からはクレームがきたはず。しかし、日本政府は決して譲歩しなかった。おかげで、夫や娘たちの本音が聞けた。ここからは、私が家族を取り戻すための闘いが始まった。
単に説得するだけでは、夫や娘たちの気持ちを変えることはできない。時間をかけて、また同行してくれた政府関係者や警察官などが、常に話しかけたり、日本から持ってきたDVDなどを鑑賞させて、娘たちの気持ちを徐々にほぐしてくれた。
また、夫にはアメリカ政府との交渉で、身の安全を保証する約束をしてくれた。納得させるには、相当の時間がかかると覚悟していたが、思いのほか早く帰国することが決まった。これから待ち受ける日本、佐渡での生活は夫や娘たちにとって必ずしも順風満帆とはいかないだろう。だけど、4人一緒なら乗り越えていけると思った。
7月18日、家族を連れて日本に帰ってきた。帰国当初、夫の北で受けた手術の経過と娘たちの健康診断も兼ねて東京女子医大へ入院した。その後、夫を病院に残し、近くのホテルに滞在することとなった。
ホテル滞在中は、毎日夫を見舞うことが日課となった。娘たちにとっては、少々退屈な毎日だったと思うが、空いた時間を使って日本語の学習をすることができた。全く日本語を話せなかったのだが、僅か1カ月の間に簡単な会話が出来るまでになった。娘たちも積極的に言葉を覚えようとしていたので、毎日「これは、どういう意味」「これはどう発音する」「これは、日本語でなんと言うの」と少々うるさいぐらい質問された。
面倒くさいと思いながらも娘たちの相手ができることは嬉しかった。そんな矢先、佐渡市から連絡が入った。父(茂さん)が癌で入院することになったと言うのだ。これまたショックだった。どうして次から次へと悲しいことが起こるのだろうと落ち込むばかりだった。一つ山を越えるとまた次に山が来る。いつになったら平穏な生活ができるのだろうと思い悩む毎日だった。夫のことも心配であったが、とりあえず父の見舞いを優先し、娘たちを連れて佐渡へ一時帰郷することにした。
8月23日、佐渡へ向かった。佐渡へ行くことが決まってから娘たちは、「佐渡ってどんなところだ」とまたまた質問攻めだった。想像を巡らせていた佐渡を実際の目で見ることとなった。佐渡に着き、市役所経由で病院へ直行した。
初めて見るじいちゃん(茂さん)、初めて見る孫(美花さん、ブリンダさん)、お互い戸惑っていた。言葉も通じないから、私が通訳した。娘たちが覚えたての日本語で書いた見舞いの手紙を持参していた。上手なことを言えない父であるが、孫からの手紙は嬉しかったようである。薬も効いているおかげで、見た目はとても元気だった。
相変わらずの佐渡弁に、娘たちは「初めて聞く言葉だ。あれが日本語か?」と違う国へ来たような感じがしたらしい。確かに、父の佐渡弁は独特であり、通訳が必要だった。父の言葉を標準語に直したり、朝鮮語にしたりと通訳した私も頭の中が混乱しそうになった。
この時は、入院間際だったことと、病状も安定していたこともあり、3日間の滞在で再び上京した。この一時帰郷ですっかり佐渡が気に入っていた娘たちは、直ぐにでも佐渡に住みたいといい、次はいつ戻れるのかしきりに聞いてきた。1日も早く佐渡へ帰れるに越したことはないと、私自身も定住する日が来るのを楽しみにしていた。
上京して間もなく、夫はキャンプ座間へ出頭することになった。これより米軍の指揮下に置かれ、軍法会議に臨むこととなる。処遇が決定するまで時間があるということで、日米関係者の許可を得て再び佐渡へ戻ることになった。
「なぜ私たちが拉致の標的に?」 自問自答繰り返す
約1カ月余りであったが、私も娘たち(美花さん、ブリンダさん)も充実した佐渡生活を送ることができた。父(茂さん)も私たちが見舞いに来るのを楽しみに待つようになり、次の見舞いには「あれがほしい、これが食べたい」と少しだけ甘えるようになった。でも、私には嬉しいことだった。母と私がいなくなってからずっと一人で生きてきたのだから、これからは親孝行しなくては思っていた。だから、少々のわがままも聞いてやろうと思っていたからだ。
そんな父も翌年2月に永眠した。亡くなる間際まで、「今度は、母ちゃんが帰ってくる。飛行機に乗って帰ってくる」「母ちゃんが帰ってきたら、謝りたい」と口癖のように言っていた父の顔を今でも忘れられない。結局、母とは永遠に会えないままこの世を去った。ただ、私の家族に会わせることができたこと、最後まで父のそばにいられたことで、父も少しは幸せを感じてくれただろうと思っている。
12月7日、念願だった家族揃っての佐渡入りとなった。この日から新しいスタートを切ることになった。娘たちも将来のことを考え、進学することになった。夫(ジェンキンスさん)も家でじっとしているのが嫌だというので、就職先を探すことになった。
年が明けた平成17年、夫のお母さんに会いに行くことが決定した。90歳を過ぎているが健在だと聞いていたからだ。「もし、北朝鮮を脱出することができたら、絶対会いに行くべきだ」と話していた。
6月、家族全員でアメリカへ行った。10日足らずではあったが、夫も母親に会えて嬉しそうであった。義母もまた、40年以上行方不明になっていた息子に会えて顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。夫もまた親孝行することができたのだ。そんな姿を見て、母と重ね合わせていた。「母にも私の家族を会わせてあげたい」とさらに思いを強くした。
この再会から3年後、義母は夫を含む息子、娘たちに看取られながら永眠した。心配し続けた息子に会えたことで、肩の荷を下ろすことができたのだろうと思っている。
アメリカから帰って来て、いつもの生活に戻った。日中は仕事に集中しているが、自宅に帰り一人になる時間ができると、決まって母のことを思い出すようになった。義母の姿を重なるのだ。
足腰が弱り、介助が必要になっているのではないか。寝たきりで不自由を感じているのではないか、と悪いことばかりが頭の中をよぎる。その思いを打ち消すために、拉致される前の母の顔を思い浮かべる。いつもにこにこと優しい笑顔で、私たち姉妹の面倒を見てくれた大好きな母の姿だ。考えてみれば、19年間いつも傍らにいてくれた。こんなに長い間、離れ離れになったことはなかったのだ。
何でこうなってしまったのか。どうして私たち母娘が拉致の標的になってしまったのか。どんなに考えても答えは出てこない。
日本に帰国して以来、ずっとこんな答えの出ない自問自答を繰り返している。どこをどうしたら、こんな残酷な運命になるのか。時々、どうしようもなく大声で叫びたくなる。
「母を返して」「私の24年間を返して」と。でも、その度に「過去は変えられない、元に戻すことはできないのだ」と、落ち込みながら頭を冷やす。そしてまた、自分だけが帰国したことを責める。いつまでこんなことが続くのだろう。終わりが見えない。
「日本人みんなが力を合わせ、未だ帰れない拉致被害者を必ず取り返してほしい」
母(ミヨシさん)と離れ離れになって間もなく34年になる。つい最近、母の夢を見た。ここ数年、母は夢にも現れてくれなかったのだ。目が覚めると、胸がドキドキしていた。でも、母が元気な姿で現れたので、ホッとしたことを今でも鮮明に記憶している。
偶然にも私の誕生日だった。きっと、私に「おめでとう」を言いたくて現れたのだろうと良い方に考えている。拉致される前の母の姿だった。何も変わっていなかった。
「母ちゃん、夢に出てきてくれて、ありがとう」「私は元気だから、心配しないでね」「母ちゃんは、元気にしているの? どこか悪いとこはないの?」「また、夢に出てきてくれる?」「本当は、会いたいよ」と私は語りかける。でも返事はない。
母の顔を思い出しながら、涙が自然とこぼれる。きっと、母も私と同じくらい涙を流しているのだろうと想像する。すると、もっと胸が詰まり、苦しくなる。今、この手記を書きながら、母を思い涙が止まらない。
誰でもいい、母の行方を教えてほしい。あの日以来、母のことを一時も忘れたことはない。私と母が拉致されたことは事実なのだ。それなのに、どうして母だけが行方知れずのままなのだ。今この瞬間も母のことを考えるといたたまれない。何かしなくてはいけないという衝動に駆られる。小さいことかも知れないが、ここ数年ずっと地元での署名活動に参加してきた。佐渡という限られた地域の中での活動ではあるが、快く署名してくれる人がたくさんいる。また、この署名活動のために忙しい中でも協力してくれる、地元の救う会の会員のみんなにも本当に感謝している。
そして最後に、これだけは言いたい。政府をはじめとする日本人みんなが力を合わせ、未だ帰れない拉致被害者を必ず取り返してほしい。最後の一人までも残らず日本の地を踏ませてほしい。私が24年間思い続けたことは、ただ一つだけ、「絶対、生きて日本に帰る。絶対、諦めない」との執念だ。
同じ思いを抱いている被害者がたくさんいるはずだ。「今日こそは、私を助けに来てくれる」と信じて待ち続けている人がいるはずだ。だから、すぐにでも助けに行ってほしい。本当にもう残された時間が僅かになった人もいるはずだ。
拉致されて以来、毎日泣き暮らしている人がどれほどいるだろうか。北にいる以上、個人の力では何も出来ないのだ。いつまで待っても、誰も助けに来てくれない。自分を探してくれる人は誰もいないのだろうかと、諦めてしまった人もいるかも知れない。
気の狂いそうな毎日を過ごしている人のことを考えると、当時の自分と重なってしまう。声にならない声を拾い上げてほしい。それから、北にいる拉致被害者の人たちに言いたい。「決して諦めないこと。信じて待っていれば、必ずあなた方を助けに行く人がいるはず。だから、もう少し耐えてください」と。
今、私が日本で生活できているのは、まさに、日本政府をはじめとする日本国民みなさんの力の結集のおかげだと思っています。少しでも恩返しが出来ればと思い、様々な活動をしています。帰国できずにいる被害者のみなさんのことを思い、そしてまた、この拉致問題を風化させないため、今年は特に署名活動をはじめとし、国民集会、県民集会、地元での講演活動など積極的に行っています。一人の力は知れたものですが、これがたくさん集まれば大きな力となります。絶対、みなさんは帰って来れます。必ず助けに行くから、諦めることだけはしないでください。
拉致問題が全面解決するまで、活動は続きます。国民の皆様、これからもご支援、ご協力をよろしくお願いします。
曽我 ひとみ
曽我ひとみさんが帰国10年を前に発表した手記=20日、新潟市